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音に聞く【晴の会】開幕

芝居の空気。

角の芝居、のちに中の芝居と、そう呼ばれた芝居小屋がかつての道頓堀には存在した。どういう芝居小屋だったか。その小屋の空気を吸ったことはない。だから、その味も、においも、正確には分からない。少しばかり芸談を聴いたり、見たりするぐらいで、味わいはなかなか知り得ない。そうして、その空気を知っている人間も、今やほとんどがお隠れあそばした。

十五代目 片岡仁左衛門は、そういう道頓堀の芝居の空気を知る最後の人なのかもしれない。「四年前、六十七年ぶりに『肥後駒下駄』を復活させた際、兄 秀太郎と共に子役の時に見た僅かな記憶を辿りながら…」と、今回の番附のご挨拶のなかで語っている。

さて、晴の会「肥後駒下駄」
近鉄アート館の三面舞台を活かし、亀屋東斎が改訂し、振付(演出)を山村友五郎が行った、新作に近い形での上演。それを前回よりも、練り上げたという今回の再上演。恥ずかしながら、前回を拝見していないため、初見の印象を述べます。

晴の会の空気

頭から終わりまで、芝居の世界を眺めていました。その空気を例えるならば、清風高節。かつての道頓堀の芝居には及ばずとも、しなやかな感触をともなう風のにおい。さわやかな心地よい風。清風、脩竹を動かす。その音は小気味よく木霊する。夏の夕映のような余韻を引いて。

さりながら、風見鶏はどちらを向くのだろうか。どちらにせよ、その方角が指し示される時機は、遠からず来る。

上方の女方

今回も上方の女方から目が離せない。その姿を眺めていると、よく思い起こすのは、竹久夢二の美人画。独特な情感がある女性像。女の憂いを帯びた目と姿態。けだるさのある色気と、どこか儚げな雰囲気。不思議な魅力がある。夢二が再構築した女性美の化身は、女方の姿が重なって見えるときがある。

今回の公演での特筆は、松枝(りき彌)のいたいけな、いじらしさ。襟足から立ちのぼる、憂い。顔ほころばせた可憐な笑顔。真女方ではないけれど、そういう香りがふわりと漂う瞬間がある。なんという愛らしさだろうか。

そして、お縫(千壽)。随分と辛抱のいる役。印象深いのは、嘆き クドキの台詞の妙。上方らしい響きが胸を打つ。武家の息女が廓勤めをするというところが、いかにも歌舞伎。品と艶やかな色香が絶妙なバランスのなかにある。

そこへ加えて、お沢(當史弥)、おたね(千太郎)二人の支えが、この芝居には欠かせない。

嬲り殺しと大立ち廻り

嬲り殺しの場面、八坂源次兵衛(松十郎)が松田新蔵(翫政)を嬲り殺す。殺るほうも、殺られるほうも、なかなか画になる歌舞伎の嗜虐美。悪に虐げられる色男の姿態と源次兵衛の台詞が効いている。見所が多いので、とても面白い。

そして、藤棚の上で繰り広げられる大立ち廻り。本公演でも、最近はなかなか観られないような迫力のある立ち廻りの場面。奴駒兵のちに向井善九郎(千次郎)、中間 只助(佑次郎)、八坂源内(愛治郎)が入り乱れる。とくに、只助の見得をしたときの姿かたちの格好よさは、素晴らしい。

聞こえてきた客席のぼやき

「忙しいわぁ」隣から聞こえてきた。本当に忙しい。とくに松十郎、千次郎、千壽のお三方は、あちらにいたと思えば、またこちらから。えらい忙しさだ。場面転換の多さもある。しかし、上手く繋いであるせいか、退屈する暇はない。

至近距離の強み。

舞台と客席の、距離の近さ。もし、私がこの距離感で、学生のころに歌舞伎に遭遇していたならば、もっと早くからその魅力に取り憑かれていたに違いない。近鉄アート館の三面舞台は、やはり特殊な作りゆえに、役者や演出をする側は、多くのことが要求される。要求される代わりに、この舞台の特質を遣いこなせば、効果的なアプローチができる。ここで上演を重ねたからこそ、その強みが舞台に活かされている。

「肥後駒下駄」は中盤あたりから後半にかけて竹本(義太夫節)が入る。近鉄アート館は、大きさ的にも義太夫を聴くのに丁度いい。あまり広すぎると文楽劇場のごとく太夫殺しになる。

まだ始まったばかり

晴の会はまだ始まったばかりである。千穐楽(6日)まで毎日、昼と夜の二回公演。だんだんと肩の力も適度に抜け、もっと芝居は楽しいものになる。叶うものなら、連日拝見したい。筋のとおりにただ進んで行くのが芝居ではない。だからこそ、芝居は面白い。遊びが出てくる楽しみが、明日以降の芝居にはある。

歌舞伎の両輪

最後は、秀太郎さんの御言葉を。

上方歌舞伎と江戸歌舞伎は、歌舞伎の両輪。
お互い良いところを出し合いながら、共に栄えていくことを心から祈っております。

女方の歌舞伎譚「上方のをんな」


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