社内起業(短編小説;9,600文字)
<社内で休み時間に副業…成長の坂道を駆け上がる物語!>
1.着想
ごく平凡なサラリーマンだった山口満に転機が訪れたのは、ある日の社員食堂のことである。昼の定食をつつきながらぼんやりしていると、斜め前に席を取った若手の話し声が耳に入ってきた。
「‥‥へえ、昨日は11時まで残業かよ。大変だなあ、お前の部署も」
「ああ。新製品の信頼性試験で休む暇もない。忙しいのはいいんだが、腹がへって腹がへって‥‥」
「そりゃ、11時まで何も食わずじゃ、こたえるよな」
なるほど、俺も遅くまで残業した時の一番の悩みは夕飯だな、と満も考えた。
会社が市内にあった時は夕食を摂りに外出したものだったが、地価が高騰したその社屋を売り払い、郊外に移転した3年前からはそれも叶わなくなった。
移転のおかげで、オフィスも社員駐車場も、そしてこの食堂も、ゆとりのある空間が楽しめるようにはなった。しかし、新社屋の周囲には田園と雑木林が限りなく広がっており、喫茶店やレストランの類はもちろん、目を凝らせどもコンビニすら見つからない。
労働組合の度重なる申し入れに、会社はカップラーメンの自動販売機を導入したが、カレー味、醤油味など、いずれも競い合うかのように不味い不動のラインナップを一巡すると、同じ耐えるのでも相手は空腹の方がましだ、と人々は考えるに至った。
「社員食堂が夕方も営業してくれりゃ助かるんだがなあ」
彼の前の若い男がチキンカツに噛み付きながら言った。
「それも組合が申し入れたそうだが、数が限られている上に、日によって売れ行きが変わるんで採算が取れない、と給食業者が断ったそうだ」
「会社の方も残業手当は押さえたいところだからな、そう簡単に夜の職場環境は整備してこないだろう」
「まったく、なんとかして欲しいよ」
二人はため息をついた。
満は食事の手を止め、辺りを見渡した。どこかに何かがある筈だった。やがて彼の目は、各テーブルに置かれたえび茶色のお櫃に止った。
(これだ!)
彼は深く頷いた。
2.起業
満が着目したのは、社員食堂で、御飯だけは食べ放題である点だ。事業開始を決意すると、行動は早かった。
翌日、家から海苔と梅干を持参した彼は、自分の昼飯を大急ぎで掻き込むと、お櫃をひとつ抱え込み、おにぎりの製造を始めたのである。
周囲の人々は彼を奇異の目で見たが、まったく気にならなかった。事業というのは、他人におかしく思われるくらいでなければ成功しない。
売れ残りが出ては海苔代が無駄になるばかりである。初日、彼はおにぎりを10個だけ作った。はたしてこのおにぎりは、夜の休憩時間に即、売り切れた。
それから毎日、昼休みの彼はひたすらおにぎりを握った。口コミで客数はどんどん増え、彼は忙しくなった。
「山口君、ちょっと」
早くも数日後には、課長から呼ばれた。
「だいぶ評判になっているよ。君のおにぎり屋」
課長は苦々しげに言った ── つもりだったが、満には通じなかった。
「あ、そうですか?」彼は相好を崩した。
「ありがとうございます。いやあ、みんなに喜んでいただけてこんなにうれしい事はありません。課長も、ご入り用の際にはぜひお声をおかけ下さい」
あくまでも陽性に、もちろん悪びれる事など無く受け答えするのがポイントである。このような場合、上司は業務に関わる効率の低下などではなく、単にさらなる上司から管理不行き届きとの叱責を受ける事だけを心配しているのだから、注意の論拠は明確でない。
課長は次第に話法を直接的な忠告に転換していったが、満は面の皮をさらに2ミリほど厚くしてこれに対した。事業に割いている時間は昼と夜の、いずれも会社公認の休憩時間である。下手に叱りつけて労組と揉めるのもつまらない。口うるさい事で有名なその課長も、間もなく匙を投げた。
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