蟹を見てたら思い出す話
正月。食卓に蟹が出た。とりあえず美味しい。それはさておき蟹を食べながら指導教官がして下さった蟹に関する面白ろ話を一つ思い出したので、ここではその蟹についての話をしたい。
指導教官の話
私にとっての指導教官にあたる恩師は、まさに博覧強記と言うべき人物で、話の引き出しも非常に多く、面白い話というのをあらゆる場面で披露してくれる。ただその出典を言ってはくれない。もしかしたら「それくらいは自分で探して当たりなさい」という隠れたメッセージがあったのかもしれない。いや、多分そんなことはない。というのも、先生に出典を質しても「えーと、なんだったかな…『野獲編』あたりの筆記史料だった気がするけど、ちょっとパッとは分からないです。」と返ってきたので。それにはっきりと示せる時には、はっきりと指し示して「ほら、ここ。書いてあるでしょ。」と見せてくれた時もある。なのでそういう指導だったというわけではないのだろうと思う。知らんけど。
余談だが、面白ろ話に出典をつけないのは、古い一般向けの概説書でよくある仕草な気がする。そして、特に三田村泰介の著作は、その傾向が強いような気がする。あれに註釈をつけるだけでも研究になる気がする。いつか(暇があったら)やりたい。
閑話休題、そんな指導教官がポロッと話したものの中に、「蟹」を使って権力者の横行を揶揄するエピソードがあった。大礼の儀に関係した政治史の話をしていた時のことだったが、当時の自分の関心事とは離れていたため、出典に当たるということはしなかった。
そんな話を正月の食卓に出された蟹を見ながら思い出していた。
出典をたまたま見つける。
しかしこの正月、実家に帰ったもののすることがない。いやすることは京都に置いてきたというのが正確な所か。とりあえず暇で仕方がなかったので、ネットに転がっている史料でも読んでみるかと中国哲学書電子化計画のページで『萬暦野獲編』を見ることにした。すると、こんな記事が有った。
※ネットから引っ張ってきたものなので、文字が正しいかはわかりません。後日、自宅にある中華書局の評点本で確認します。
拙いながらも訳してみると次のようになる。(大きい辞書が手許に無いことを言い訳に、誤りがあっても笑って許して欲しい。)
この記事で述べられている話は、大きく三つに分けられる。まず宋代の 朱勔を揶揄した「蟹譏」という詩である。二つ目に明代の嘉靖朝で行われた、蟹を歩かせることで張璁、桂萼の横行について揶揄する話である。そして最後に同じく嘉靖年間の夏言と厳嵩による政争の話である。
先生が話していた話は二つ目の張璁、桂萼の横行について揶揄する話である。ということは、これが出典ということである。よし、あった。見つけられた。
出典を見つけて訳してみると、まぁ話としてはたしかに面白い。蟹を権力者に喩えるのはすごいセンスだと思う。当時の中国人の政権を風刺する力というかユーモアというか、とりあえずそういうものが豊かだった証左と言えるだろう。ただそうは言っても編者の沈徳符は知識人なので、知識人周りだけの話かもしれない。
訳してみたけど、これってAIでも読めるのではなかろうか?
さて、訳してみて思ったことがある。この文章、比喩がかなり多い。そして知識が無いとその比喩に気づけない。とくに政治家を出身地で呼んだり、それを蟹に喩えたり、普通に読んでいては意味不明である。では、この文章をAIは読めるのだろうか。
というわけで次のプロンプトをchat GPT4に流し込んでみる。
これについての返答はこうである。
やはり逐語訳になる。というか比喩的な部分はまるで理解できていない。とはいえ、比喩的な部分を前提条件として学習させれば、訳をつけれるかもしれない。ただ古典の比喩に気づくというのは、当時の時代背景を調べて踏まえた上でも、アブダクション推論がかなりの割合を占める。この辺り未知の言語を翻訳するのと同じようなものなので、まだ専門家が必要な領域なのかなと思う。
もう一つプロンプトを加えてみる。
これに対しての返答はこうである。
やはり訳を作るのは難しそうである。しかし、アブダクションの材料を作ることは出来そうである。だとすると古典の文章を読む時でも、文脈の当たりをつけるのに有効なのではないかと思う。
一度AIに流してからヒントを作り、そこから辞書を引く、出典を探る、別系統の史料の調査をすることで、読みのスピードを上げることは可能だろう。いずれにせよ、基礎は重要である。ある分野でAIを使いこなすためには、その分野の基礎がない状態ではどうにもならないだろう。
問題は基礎を修めるまでに、AIとはどう付き合うべきか先例が無いことだろうが、心配せずとも時間が解決するだろう。と楽観視してていいかは、よく分からない。