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【雑記】アト・サキの話〜徒然草を思い出しながら

昔々の話、具体的にいうと毎日報道されていた放射線量が報道されなくなって、もう大丈夫なのかな?という雰囲気が流れ出した頃、すなわち高校二年生くらいの時の話である。

古典の授業で『徒然草』ある章段を読んだ。その一部、このフレーズだけは強く記憶に残っている。

死期はついでを待たず。死は前よりしも来たらず。かねて後ろから迫れり。

『徒然草』百五十五段

まぁ有名なところなので、その後も何度か読んでいるし、それこそ教員になってから授業で扱うこともあった。それでも最初に読んだ時の記憶はしっかりと残っている。

まだ東日本大震災が記憶にすらなりきれていない頃である。東北に来た津波がもしも清水を襲ったら、自分が小さな頃に住んでいた麻機遊水地周辺にまで津波が巴川を登って到達してしまうらしい。そしたら清水はほとんど沈んでしまわないだろうか。流石に嘘ではないだろうか。そういうにわかに信じられないような恐ろしい話も、たくさん聞かされた。

ちなみに最近、知ったことだが、東日本大震災の時の津波は、百人一首の和歌の解釈に再検討をもたらしたらしい。それが下の一首。

契りきな かたみに袖を 絞りつつ 末の松山 浪こさじとは

ここにある「末の松山」は宮城県にある実在する場所であるが、海岸からかなり離れていて、「末の松山」を「浪」が変えることはありえないこととされていたらしい。ところが、ここにまで津波が到達したらしいのだ。(田渕句美子『百人一首:編纂がひらく小宇宙』岩波新書)

そんなことを考えたら、遊水地まで津波が来るどういうのも、あながち嘘ではなさそうである。

閑話休題、とにかくそんなものが来たら、なす術もなく死んでしまうのだろう。抗いようが無い。

きっと簡単に死んでしまうのだろうというのは、当時のあの終末感が漂う日本で暮らしていた自分には結構リアルな話だった。あれが東海地震で、三陸海岸が駿河湾で、福島が浜岡だったら…。そんなことを窓から谷津山を見つつ、考えていたのである。

だから『徒然草』の「死は前よりしも来たらず。かねて後ろから迫れり。」というのは、妙に納得したのを覚えている。

ただ、この時にイメージをしていたのは具体的な死というよりも、もっとアニミズム的なものだった。鎌を持った死神のようなものが背後にずっといる様子を想像していたのである。

その死神みたいなものは前方から来るのではなく、後ろに引っ付いて追いかけて来ていて、ある時、気まぐれで突然に死をもたらすのだろうとイメージしていた。デスノートのリュークみたいなイメージである。あれも最期は突然だったし…。

そこから10年ほど経ったある日、こんなツイートを見た。

https://x.com/kotouta_sige1/status/1759185143443681356?s=46&t=jq5uN-H5oVDdNtAXaP7WCg

我々現代人は普通「未来が前、過去が後ろ」なのが当たり前だと思ってますが、昔は過去が前、未来が後ろにあったんです。

@Kokouta_Sige1のツイートより

なるほど、そうかと思った直後、先の『徒然草』を思い出して、ふと思った。

そうか。「死は前よりしも来たらず。かねて後ろから迫れり。」という言葉の「前」と「後ろ」は身体感覚ではなく、時間の話をしてるのではなかろうか。

「かねて後ろから迫れり」を「死」というのが背後に潜み続けているイメージでいたが、そうではなく、ここで書かれているのは、「死」が過去からではなく未来から現れるということではないか。つまり、突然、「死」という未来が現れる、そういう当たり前なことを言ってるところなのではないか。

未来から現れるにしても、不意打ちであることには変わりないが、死神に背後を取られるのではなく、流れ着く未来にトラップが仕掛けられているイメージなのではないか。少なくとも兼好法師の頭の中に死神は多分いない。ちょっとしたブレイクスルーが起こったのである。

考えてみたら、その方が自然な理解であろう。死神がいるよりも、突然現れる「死」という未来に向かって流れていく方が幾分想像しやすい。おそらくは『方丈記』にある「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」というような、そういう時間感覚だったのだろう。この表現も論語に由来しているのだから、もしかしたら東アジアに通底する時間感覚なのかもしれない。気が向いたら中国史でもこういう時間感覚を見ることが出来るか、挑戦してみようか。中国語でも先が過去で后(後)が未来である。(余談だがkiroro「未来へ」を「后来houlai」と訳した人は天才だと思う。)

ちなみに先のツイートが主典としているのが以下の第二章らしい。

早速、買って読んでみたが、清水克行の著作にハズレはなく、やはり面白い。ちなみにこの話の大元は、勝俣鎭夫 『中世社会の基層をさぐる』所収の「バック トゥ ザ フューチュアー」という論文らしいが、この本は在庫切れで買えなかった。今度、図書館に行く時にでも読んでみようと思う。

いつも思うが、『徒然草』は結構いいこと書いている。そしてこういうブレイクスルーが偶に起きる。その時は古典を勉強していて良かったと思う。多分、古典は高校生に理解できるほど速効性は無いが、遅効性の良い薬である。効果が現れるその時まで忘れられないようにしていきたいが、果たして上手くやれてるだろうか。

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