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言葉にする。表現する。伝える。伝わる。

自己表現は必須科目

SNSが生まれ発達したことしたことにより、
自己表現はアーティストだけのものではなくなりました。

そして、自己表現の場所も手段も多くの形に分岐しています。

Twitter、Instagram、YouTube、Podcast、そしてこのnoteも。

私たちの日常は、自分の考えや主張を発信することが当たり前になり、
同じように自分以外の人の考えや主張を受け取るようになりました。

しかし、発信することが当たり前になるということは、
「発信できないと存在が知られない」ということの裏返しです。

つまり、自己表現はいつの間にか私たちの生活に密着し、なくてはならない必須科目になってしまったのです。

「成果を出す発信」で歪んでいく「自分らしい発信」

そのような背景から、すでに自己表現について学んでいる人も多いのではないでしょうか?

かくいう私もTwitterでフォロワーを増やす方法を実践したことで、1000フォロワーまで伸ばしたことがあります。

ツイートの型を学んで投稿し、他の人のツイートを見ながら、改善を続けた結果4ヶ月の時間を費やして、相互フォローなしの1000フォロワーを達成しました。

しかし、達成後は風船が弾けたかのように続けることができませんでした。

理由は「違和感」と「気持ち悪さ」によるストレスでした。

伸びる発信、成果の出る発信を意識するあまり、
私は自分の考えや主張を都合よく捻じ曲げたツイートばかりしていました。

それによってフォロワーは集まりましたが、フォローしてもらったことに対して重たさや煩わしさを感じるようにもなっていきました。

そして、今後も違和感を感じながら発信を続けなくてはならないという絶望感もあり、結局続けることができなかったのです。

結果を出すことよりも、先に言語化できることが大事

先ほどの経験から私が伝えたいことは

「成果や結果を出すための型や方法はダメだ」と言うことではありません。

むしろ、これらは初心者が実力をつけていくために率先して取り組むべき内容と言っても過言ではありません。

私が伝えたいことは「型や方法を覚えるよりも先に、言語化できる思考や方法を身につけた方が良い」ということです。

なぜ、言語化が先にできるようになった方が良いかと言うと、それは私の失敗が物語っています。

成果の出る型や方法を身につけて実践をすると、確かに結果は出ます。

しかし、成果を求めるあまり、周りの反応を意識し過ぎた中途半端な主張に弱めてしまったり、最悪のケースだと嘘を言うことにもなりかねません。

嘘はばれると炎上し、嘘をついていないとしても、考えを捻じ曲げたショックを心はずっと覚えていて苦しみ続けることになります。

小さなストレスが蓄積されるといつか爆発して、積み上げてきた努力を全て消し去ってしまうことにもなるのです。

共感した人の言葉や内容を使って、自分の考えと結びつけた表現はとても手軽でやりやすく結果も出やすいです。

しかし、本当の意味で自己表現をしていくためには、考えや主張を自分の言葉で表現して、相手に伝わるようにしないと心には軋轢が残ります。

言語化力を身に付けることで、

自分が何を考えて、どう感じて、どう思っているのか?
どんなことを言いたいのか?

そういったことを知り、伝えることができるようになります。

自分の考えや感性を100%に近い形でアウトプットできる方法を知れるのです。

成果の出る型や方法はアウトプットできるようになった後の「整形」で使えば良いのです。

この記事では、
「伝える」というアウトプットするための方法や思考だけでなく、
「伝わる」という相手のインプットを意識した方法や思考についても記載をしていきます。

自分の中の表現できないモヤモヤを解消して相手に伝えられるようになり、
伝えたとしても理解も納得もされたかった言葉が受け止めてもらえて、感心してもらえるようにもなっていくでしょう。

はじめに・・・

今更ではありますが、私についての説明とこの記事を書くに至った経緯についてお話しさせてください。

ここ最近、新しいコミュニティに属したことで人と会う機会にも恵まれて、話をさせてもらえることが多くなってきました。

今までは家と仕事の往復で、学生時代も家と学校を線で引っ張っただけのような生活だった私にとって、日常は2つの点を繋いだ直線でしかありませんでした。

しかし、コミュニティという新たな点によって図形が生まれ、
自分の範囲は解放されていきました。

その結果、今まで触れることのなかった情報と接することが多くなり、
楽しく刺激的な日々を過ごせています。

そして、メンバーからのフィードバックとして、
自分の長所についても教えてもらえることが多くなってきました。

その長所は私にとってとても驚くべき内容のことでした。

それが「言語化力」です。

私には「人を色で見る(オーラみたいなもの?)」という特技があります。

なので、私は「オーラが見える人」という看板を大きく掲げて新しいコミュニティに入っていきました。

というのも、人との違いはその部分でしかないと思っていたからです。

実際、その考えは当たっていて、興味を持ってもらうことに成功しました。
(オーラが見えるということに対して嫌悪ではなく好奇心の眼差しを向けられるコミュニティメンバーの度量の広さがすごいです)

しかし、「オーラが見える人」という活動の中で言ってもらえたことは、
予想外の下記のような言葉でした。

「相手に伝わるような言葉にする表現力がすごい」

「相手だけでなく、周りの人が理解できるような言語化力が良い」

「エモい笑」

嬉しい反面、残る問い・・・

私自身、小説を書いていることもあり、
言語化力や表現力を評価してもらえることは
逆に反応に困ってしまうくらいに嬉しいことです。

しかし、だからこそ、自分に対して問いが残りました。

それは「なぜ自分はここまで言葉にできるのか?」ということです。

私は今でこそ、小説を読むことはありますが、それでも読書は好きではありません。もともと本を読むのは大嫌いでした。

どれくらい嫌いかといえば、夏休みの読書感想文を読書せずにあとがきを丸写しして終わらせていたくらいに嫌いでした。

当然、国語も大嫌いでした。十人十色の感想がある中で「答え」というものを作者でない人間に決められることが納得できず、常に反抗していました。

作文も大嫌いで、いかに句読点で文字数を稼ぐかを常に考えていました。

ブログを始めた時もありましたが、1行書いて、それ以降は何も書けませんでした。

人と会話することも苦手で、「お前は空気が読めない」と言われ続け、
KYというあだ名を付けられたくらいです。

一人が好きだったこともあり、人と話すこともしなかったため、
言葉を磨く経験はほとんど皆無と言えるほどです。

だから、私には語彙が多いわけでもなく、言葉に対する興味もなく、文章を作るということへの苦手意識すらあって、言葉を磨く機会も作ってきませんでした。

そんな私が今では「言語化がすごい!」と言われるまでに成長してきました。

今回はその要因を振り返りながら、

どんなプロセスで言語化を実現しているか?
どんな要因が自分の言語化能力の向上に役立っていたのか?
他の人が今からでもできる言語化力を上げる方法は何か?

これらについてお伝えしていきます。

言語化とは何か?

まずは、そもそも言語化とは何か?ということについて確認をしておきたいと思います。

調べたところ、言語化とは

「言葉で表現すること。 感情や直感的なものを説明・伝達可能にすること」

なのだそうです。

つまり、

見えていないものや自分にしかわからないものを相手にわかるように言葉で表現すること


それが言語化ということになります。

言語化に囚われることで言語化できなくなる

「言語化=言葉にする。言葉にして説明をする」

多くの人がこのように考えているのではないでしょうか?
そして、この「=の関係」については私も同じだと考えています。

しかし、言語化を「感情、直感、抽象的なもの➡︎言葉にする」と直接的に解釈してしまうと言語化は難しくなります

なぜなら、私たちは感情や直感等を知っていても、わかってはいないからです。

オカピって何?

ここで一つ皆さんに質問をします。

何も調べずに言語化してみてください。

オカピとはなんでしょうか?

少し考えてみてください。

・・・・・・・・・

・・・・・・

・・・

考えていただいてありがとうございます。

オカピを知らなかった方はぜひこの機会に調べてみてください。(今後役に立つかはわかりませんが…)

今、オカピについて考えてもらったのは別にオカピについて宣伝をしたかったからではありません。

「わからないことは言語化できない」という体験をしてもらうためです。

もしかするとオカピを知っていた人はオカピについて説明をできたかもしれません。

オカピは実在する動物なので、知っていれば説明をすることができます。

しかし、感情や直感、抽象的な概念は実在していないものです。

あくまでも名称というラベルをつけた存在にすぎません。
例えるならば、透明なポリ袋の中に部屋の空気を入れて口を閉じ、袋の表面に「部屋の空気」と書いたようなものです。

そうにもかかわらず、私たちはそれらについて「知っている」「体験している」と感じています。

そして、その「知っている」「体験している」は事実です。

私たちは感情や直感、抽象的な概念の情報について「知って」います。
私たちは感情や直感、抽象的な概念の情報について「体験して」います。

私たちは「わかっていない」感情等について、知識として「知って」いたり、感覚として「体験している」のです。

このズレが言語化の難しさを生み出しているのです。

「知っている」けど「わかってない」

最初に説明をした言語化の難しさの要因は
言語化を「感情、直感、抽象的なもの➡︎言葉にする」
という認識にあるとお伝えしました。

この認識とはつまり、
「曖昧なものを意味の当てはまる言葉にしないといけない」
という制約です。

そして、言語化の難しさは柔軟で多様な現実、さらには自分の内側のもっと難解で複雑な概念等に対して、「表現の枠の硬直性」を持った言葉というツールで表現することの難しさなのです。

言葉の目的は事象や物体について、他者と情報を共有するためにあると私は考えています。

共通の認識を作り出すためには意味の曖昧さの排除が必要となり、
曖昧さの排除のためには、定義にする枠の設定が必要になります。

さらにこれらの枠は簡単に変えることができず、幅はできうる限り大きく設定されます。

彼氏に浮気されてフラれた時も
仕事でテンパりまくって頭に血が上っても

同じ「怒り」というカテゴリに分類されます。
そして、「怒り」という言葉の広義性を変えることはなかなかできません。

しかし、実際に上記のような場面で発生するのは、怒りだけでなく、悲しみの感情も湧き上がり、それらの感情の境界線がはっきりとはつけられず、曖昧に混ざり合っている時も多々にあります。

感情や概念から言葉への変換は言葉の意味を無視するわけにはいかないため、実際に起きている曖昧さを取りこぼさざるを得ない状況となります。

すると、言葉に直した時に、実際の状況と伝えた言葉とのズレが大きくなっていくのです。

クッキー生地に型を当てはめて繰り抜いていくようなものです。
言葉という枠で繰り抜くと綺麗でわかりやすくはなりますが、
他の生地は焼かれることはなく、捨てられることになります。

言葉に直した時、状況に対する意味合いの解像度は格段に上がため、
内容を伝えやすくなります。

しかし、元情報に対する詳細度は削られるため、
情報精度は下がっていくことになります。

曖昧さと言語をつなぐものが○○

私たちは言葉を聞いた時、それを意味として捉えます。

例えば、「安心」という言葉であれば、「心が安らかに落ち着いている」とほぼ全ての人が捉えます。

これは先ほどお伝えした「言葉の表現の枠の硬直性」によって意味がしっかりと保証されているからに他なりません。

しかし、安心にも多くの種類があり、安心に至るまでのストーリーがあります。それらを排除して、「安心」という言葉は現在の安心という状態の意味を担保しています。

言葉によって排除された曖昧さを取り戻すためには曖昧さを含めた全ての情報を自分自身が「わかる」形で表現する必要があります

その方法が「見える化」です。

言語化前のワンクッション

「見える化」とは、
感情等の実在しないものを視覚情報に変換をしていく作業のことです。

視覚情報には下記のようなものがあります。
・色彩
・動き(静止を含めた)
・物体(形を含めた)

これらに置き換えていくことが「見える化」です。

怒りであれば

色彩
・赤色
・オレンジ色
・黒色
・青色

動き
・湧き上がるような
・破裂するような
・擦り合わさってしまうような

物体
・皮の袋
・鋼鉄の扉
・蜂の巣
・球体
・トゲトゲ
・穴が空いた

などです。

自分の怒りは
・色で表すならどんな色をしているだろうか?
・動きならどんな動きだろうか?
・物体ならどんなモノだろうか?

このような変換を行なっていくことで「見える化」が行われていきます。

前の説明で、私は「知って」いて「体験して」いるだけで「わかっていない」とお伝えしました。

これは、

事象を知っているモノや体験した感覚の枠に押し込み、
複雑な曖昧さを取りこぼしている


という意味でお伝えしました。

私たちは考える時、言葉で考えます。

それは他者と共通の認識を得るため、
コミュニケーションを円滑にしていくために必要なことです。

しかし、言葉で考える時点で意味の枠に囚われて、情報を取りこぼすことになります。

そのため、言語化前に行うことは、言葉による意味の枠を取り払い、
全ての情報を視覚情報として認識できる状態に持っていきます


それがこの「見える化」なのです。

言語化プロセス

さて、いよいよ言語化のプロセスについてです。

あっさりとしていますが、言語化のプロセスは以下になります。

①話を聞く。感情を知る。新しい情報を知る。(言語化元の情報を得る)
②「見える化」する
③見える化した視覚情報を言葉に変換していく

つまり、言葉➡️言葉にするプロセスの間に
「見える化」による視覚情報への変換を挟んでいくことになります。

見える化した情報を言葉に直していく際は、動画をイメージします。
そして、その動画について説明をしていくように言語化していくと
スムーズに変換されていくと思います。

言語化力を鍛える方法

さて、言語化の肝が「見える化」であることはこれまでの説明でお伝えしてきました。

ここからはどうすれば、この「見える化」を鍛えていくことができるのか?

そこについて説明をしていきます。

そのためには「見える化」力を分解して説明していく必要があります

見える化力は2つに段階的な分類をすることができます。

1つ目は想像力(イメージ力)です。これは言葉を画像や映像、動画に変換する力です。例を挙げるなら、「亀」という単語を聞いて、亀の画像を思い出し、亀の泳ぐ姿、亀の歩く姿、それらをありありと想像する力です。

2つ目は変換力です。これは別の言い方をすると「例える力」と言えます。
抽象的な概念や手順、感覚を他のものに例えることです。

例を挙げるなら、

「高すぎる目標を設定して追い込んでいくと心が病む」

という事象を別で例えると、

タワーマンション30階に向けて全力で階段を登っていると、途中で疲れ果て、ふと階段の途中で正気に戻って、今いる階数を見るとまだ13階と書いてあり絶望する。

こんな具合になります。

高すぎる目標に向けて追い込んでいる状態はどんな動きか?
どんな心の状態なのか?
その時感じるものは何か?

そういった問いを立てながら例えを設定していきます。

ここで言うところの「高すぎる目標」というのは、

試行錯誤したらすぐに越えられる一瞬の壁なのか?
やることは単純だが地道な努力が必要な階段なのか?
体験したことない特殊技術と装備が必要な深海へのダイビングなのか?

そして、私はここで、今回は高すぎる目標を「階段を地道に登っていくもの」が一番近い表現であると決めました。

このような問いと変換を別の言葉でも行い、
下記のような形にしていきました。

高すぎる目標➡︎タワーマンションの30階を全力で駆け上がること
追い込んでいく➡︎全力疾走
心が病む➡︎疲れ果てる、絶望

言語化の種は道端に転がっている

見える化力は
①想像力(イメージ力)
②変換力(例える力)
であるとお伝えしました。

ここで基本に戻ります。

見える化とは概念等を視覚情報への変換することであるとお伝えしました

つまり、視覚情報のパターンがたくさんあれば、見える化のパターンが多くなっていくことになります。

小風に葉だけ揺れる木々
アスファルトの道路で風に流される乾いた枯れ葉
肌を撫でるくらいの風で枝から揺れ落ちる紅葉

このように多くの視覚情報を体験し、感動し、心に記憶していくことが言語化を鍛えていくための1つ目の方法です。

そして、もう1つは類似性を見出すことです。

見える化は「変換をする」という観点から言えば、
言語を言語にする言語化と同じ方法だと言えます。

しかし、異なる点は「曖昧さ」を全てカバーした上で変換をするということです。

曖昧さは本来であれば排除されてしまう要素です。
それを全て覆うということはその曖昧さを表現するものを用意しておく必要があります。

そこで類似性を使います。
自分の感情や感覚と視覚情報に類似する動きや形等を見出す意識を持つことにより目に見えない感情等を視覚情報に変換することが可能になってきます

例を挙げるなら、私の場合は下記のようなものです。

この人は赤色っぽい
この人は黄色っぽい

この料理は四角い味がする
この椅子の座り心地は丸い

などなど、感想を視覚的に捉えることで言葉の意味を超えた点と点がつながっていきます

そして、これら2つは道を歩いているだけでも鍛えていくことができます。

道の中の花や空の色、看板の塗料の剥がれ具合など。

さまざまな場所で体験し、鍛えていくことが可能です。

大事なのは、しっかりと観察をして、自分なりの気づきを得ること。

興味を持った事象に向き合うことで小さな気づきでさえも感動に変わります。

その感動が言語化の武器になっていきます

「伝える」と「伝わる」の違い

ここまで、「伝わる」ための言語化の方法についてお伝えをしてきました。

しかし、「伝わる」だけではなく「伝える」ことだけが求められる場も当然存在します

例えば、仕事です。
仕事では、詳細な感情などよりも実際の売上や進捗情報といった客観的事実が求められることが多いです。

そんな時に、曖昧さを含んだ情報を何もかも話していたのでは遅延行為になります。

「伝える」「伝わる」

この2つは使い分けてこそ威力を発揮するものになります。

まずはそれぞれについての違いをお伝えしていきます。

私が考える「伝える」と「伝わる」は下記です。

「伝える」
・客観的事実(数字や結果等)を端的に教えること
【目的】
➡︎共有している課題に対する情報の一致化
 ➡︎情報的価値、事実的価値

「伝わる」
・主観的事柄について理解される形に表現し教えること
【目的】
➡︎自分特有の感覚(感情)を相手が理解できる形で言葉に表現すること
 ➡︎情緒的価値、空気感価値

このように

「伝える」はスピードと客観的情報に価値のある場で求められ、
「伝わる」は詳細さと感性的情報に価値のある場で求められます。

「伝える」で必要なのは疑問解消と情報順序

「伝える」という行為が必要になるタイミングでは、必ず情報量の不一致が起きています。

例えば、仕事でわからないことがあり、上司に内容を確認すると言う場合です。

まずは、部下が上司に声をかけます。
この時、以下のような情報量の不一致が起きます。

部下:わからない点について聞きたいことがある
上司:何で声をかけられたのかすらわからない
➡︎上司は目的すらわかっていないという状態

この時、最初にすべきことは「わからない点があるから聞きたい」と伝えて論点を一致させることです。

論点を一致させることなく、内容の説明などを始めてしまった場合、
上司は目的もわからないまま、訳のわからない情報を聞かされストレスがかかり、自分の時間を奪われ、さらにストレスをかけさせられることなります。

つまり、「伝える」が必要な場面においては、
相手に対して自分が何かをした時、相手はどんなことに疑問を持つのか?
ということを想定して、その疑問を解消できる話の内容に順序を整理して話すことが求められます。

なぜジブリ飯はウマそうなのか?

ツイッター等で美味しそうなご飯が出てくると「飯テロ」などと呼ばれて、多くの人が悶絶している姿がよく見られます。

そんな中でも、特にジブリに出てくるご飯はジブリ飯と呼ばれるくらいに有名です。

確かに、リアリティを感じさせる質感やそれらを貪り食う人々を見ると食欲が湧いてきます。

しかし、よく考えてみるととても不思議なことです。

私たちはそれらの匂いを嗅いだわけでもなく、
味わったわけでもありません。

映像であれば音声は聴くことができますが、
検索で画像を調べて見ただけでも「美味しそう」と感じます。

使っているのは視覚だけです。

視覚だけで味覚が刺激されているのです。

人間には五感があります。

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚

五感があるというと全てが独立しているように感じられますが、
それらで得た情報は全て脳で刺激として処理をされています。

これはつまり、五感は情報として繋がっていると考えることができます。

そして、この「繋がっている」ということこそが、
言語化する際に「見える化」を挟んだ理由になります


視覚は五感を支えている

これが私の持論です。
視覚情報は人間の受け取る情報の約90%を占めると言われています。

そして、他の四つについても、その情報は視覚と共に存在していることがほとんどです。

初めて食べたレストランの料理の味
初めて買った曲を再生した時の音
大好きだった彼に抱かれる感触
無理やり吸わされたタバコの匂い

これらの情報は全て映像という情報と共に存在しています。

つまり、「見える化」によって視覚情報化することで
五感を刺激する言語を作り出すことが可能になるわけです


見える化を経由する言語化は
自分の頭の中にある映像を相手の頭の中にそのまま再生させて、
五感全てを刺激する体感覚共有して表現する方法
なのです。

そして、「伝わる」ために必要なのは視覚情報、そして、不自然でない流れの維持です。

流れの維持が必要な理由は、不自然な流れが発生した場合、
相手の頭の中での映像化が途切れてしまうからです。

「わからないんだけど、わかる」を生み出すもの

小説を読んでいると全く意味がわからないのに、雰囲気はとてもわかる。

そう感じさせる表現が多々あります。

そして、それらを共通しているものはなんだろうか?と考えた時、

共通していたものは、

どれも視覚情報として想像することができた

ということです。

私たちは、たとえ頭で全てを理解できなかったとしても、
想像をすることができれば、何かを共有することできるのです。

わからないんだけど、わかる。

これが「伝わる」の終着点なのではないかと私は思っています。

私自身も今、この場所を目指して、日々執筆や情報のインプットをおこなっています。

【有料特典①】文章なんて誰も読まない

文章を書く時、何か意識をしていることはあるでしょうか?

正しい文章を書く。
長くならないように短くする。
一つの文章に一つの意味に限定する。

このように言われることが確かにどれも正しいことです。
それは間違いありません。

これらのテクニックは文章を読みやすく、内容をわかりやすくするために大切なことです。

しかし、それよりも前の大前提を考えてみたことがあるでしょうか?

その大前提とは、「文章なんて誰も読みたくない」ということです。

【私たちはもう読まなくていい】

YouTubeを始めとした動画配信サービスが生活の必需品になり、音声メディアも多く普及したことで勉強や情報の取得の手段が格段に多くなりました。

私たち人間は楽な方に流れていきます

目的が達成できるならより楽な方法を選びます。

情報を知るという目的のためであれば、

・動画を見る
・音声を聞く

という選択の方がはるかに楽です。

つまり、テクノロジーの発展と多様化によって、文章を読まない土壌が整備されていっているのです。

では、そんな環境下で文章を読んでもらうためにはどうしていけば良いのでしょうか?

それは文章を読み物ではなくしてしまうことです。

【2種類のメディア】

少し話を変えますが、私はメディアにはアプローチ方法によって2種類があると思っています。

その2つとは「迎走型」「自走型」です。

2つの特徴は下記になります。

迎走型
・原則として再生をさせれば情報が取得できる
・「ながら」が可能
・興味関心の維持が難しい
例:YouTube、テレビ、ラジオ

自走型
・自分の意志と行動によって情報の取得が可能
・本人の行動次第のため初期段階での離脱リスクが高い
・読解力が上がる
例:本、ブログ、漫画

このように文章は「自走型」メディアに使われる手法です。

そして、その最大の弱点は離脱リスクが高いことです。
自主的な作業を要求するため、あらゆる理由で読まない選択を取れます。

要は苦痛になりうる要素が多すぎるということです。

では、文章を読み物ではなく、何として扱えば良いのでしょうか?

それは鑑賞物と歌です。

【漫画を見て、音楽を聴く日本人】

電車に乗っているとある必ずと言っていいほど見る光景があります。

その光景とは「漫画」と「音楽」です。

スマホ画面に曲のジャケットが表示されていたり、他の人はスクロールしたり、スワイプして漫画をめくる。

そんな光景を見るのです。

ここで一つ考えてみたいことがあります。

漫画は「自走型メディア」に属します。

にもかかわらず、読書する人に比べて漫画を読む人たちの方が多いと感じます。

この違いはなんでしょうか?

私はこの違いは直感的な把握とテンポ感、リズム感の差だと考えています。

漫画は直感的に「わかる!」になる絵というツールに、プラスして言葉が加えられます。さらにはコマ割りを自在に使うことで迫力や感情の表現も見た瞬間に感じ取らせることができます。そして、絵という範囲内でテンポ感やリズム感を作り出すこともできています。

言葉はむしろ追加要素であり、「絵➡︎言葉」という形で情報の補完として行われています。

絵だけでは通じない細かい内容や動きの出ない箇所(会話シーン等)では、絵という情報が瞬間的に把握できることによって、自発的な(ここはどういうこと?という感じ)問いが生まれ、言葉という第2情報への関心が生まれます。これによって読まれるという流れとなっていきます。

漫画の名言がクイズになったりすることがありますが、
これは絵やコマ割り、これまでの物語によって作られたボルテージが最高潮になった時の絵に対しての索引のようなものです。

つまり、言葉が覚えられているだけではなく、その心揺さぶられたシーンを記憶するため、そして、検索をしやすくするための脳のスタンプとして言葉使われているだけなのです。

漫画を消費する側として重要なのは入口としての「絵」なのです。

音楽も同じです。音楽はそもそも「迎走型メディア」に属するため、音が入ってきます。そこにはテンポ感やリズム感があります。自然に入り込んでくる音によって、心情の波が生まれます。心情の波の発生によって多くのバリエーションの感情が生まれ、最終的な感動が作り出されます。

曲の歌詞を自然と覚えてしまったということも少なくないと思います。私も全く同じです。しかし、これも同様に索引であると考えています。

「歌詞が共感を呼ぶ」ということも当然あると思いますが、歌詞自体が曲の上に乗せるために言葉の音や韻などを意識して作られているため、スタート地点はやはりテンポ感とリズム感です。

人の心に最初に届くためには内容ではなく、直感的な訴求とテンポ感、リズム感の意識が必須なのです

【文章を見せる方法】

では、文章を見せる方法についてお伝えをしていきます。

これは例を出した方がわかりやすいと思いますので、例で説明をします。

例えば、説明をしたメディアの違いでは、
=======================================================
迎走型
・原則として再生をさせれば情報が取得できる
・「ながら」が可能
・興味関心の維持が難しい
例:YouTube、テレビ、ラジオ

自走型
・自分の意志と行動によって情報の取得が可能
・本人の行動次第のため初期段階での離脱リスクが高い
・読解力が上がる
例:本、ブログ、漫画
=======================================================

このように記述をしました。

これを全て文章を表現すると下記のようになります。

=======================================================
迎走型は具体的にはYouTube、テレビ、ラジオなどです。これらのメディアは原則として再生をさせれば情報が取得でき、「ながら」が可能です。その代わり、興味関心の維持が難しいという特徴があります。逆に本、ブログ、漫画等は自走型であり、自分の意志と行動によって情報の取得が可能ですが、本人の行動次第のため初期段階での離脱リスクが高いです。その代わり苦労ともなうため読解力が上がります。
=======================================================

もう見た時に一目瞭然です。

前者は見た瞬間に2つあり、対立構造であることが理解です。その上で名称がすぐにわかり。「・」があることで特徴が書かれていることがすぐにわかります。構造を同じにすることで何が書かれているかを2つともある程度分かりながら見ることができます。

しかし、後者は文章を読む必要があります。文章を全て読んだ上で、自分で考えなくてはなりません。

次の例です。
=======================================================
文章を書く時、何か意識をしていることはあるでしょうか?

正しい文章を書く。
長くならないように短くする。
一つの文章に一つの意味に限定する。

このように言われることが確かにどれも正しいことです。
それは間違いありません。
=======================================================

これは有料特典①の冒頭です。
こちらも何も考えない文章にする下記のようになります。
=======================================================
文章を書く時、何か意識をしていることはあるでしょうか?

正しい文章を書く。長くならないように短くする。一つの文章に一つの意味に限定する。

このように言われることが確かにどれも正しいことです。それは間違いありません。
=======================================================

テンポ感が一気に消失します。そして、退屈さを感じさせます。
これは目を横に移動させる必要があるからです。

前の文章の文脈に付随する内容や続きの文章であれば、目を横移動させていくことは苦ではありません。むしろ、続く内容にも関わらず切ってしまうことで、ポエムのようになってしまったり、流れが途切れる気持ち悪さを読者に与えることにもなりかねません。

しかし、今回のケースでは一文一文が完全に独立された文章です。

そのため、今回は「切る」ということを直感的に理解してもらうためにも改行を使っています。

「この内容は連続している内容だろうか?」ということを意識しながら、改行を使っていくと良いでしょう。

【夢に誘う作家。村上春樹】

今までの内容から私が伝えたいことは、

文章を「読むもの」ではなく、「見せるもの」であり「歌わせるもの」にしようということです

と言っても、想像がつきにくいと思います。なので、私が思う「見せて歌わせてくれる作家」を紹介します。

それは村上春樹です。

私は村上春樹のことは「無味激臭の作家」だと感じていて、とても大好きで尊敬している作家さんです。

今回は話をしていた「見せて歌わせてくれる」という箇所について説明をします。

村上春樹の小説は絶妙な比喩表現について、賞賛の声が上がっています。(検索等で調べてみてください)

これが「見せる」の要素です。「見える化」にも通じる点がある箇所になります。

そして、ここで特に説明をしたい点がテンポ感やリズム感の秀逸さです。

村上春樹の小説は、突如として現実ばなりした世界の話になるなど、展開が大きく変わることがあります。しかし、大きく急な変更を感じさせながらも、「不要な違和感を与えない」という点が秀逸で、見事に読者をさらに深い世界に誘います。

この「不要な違和感を与えない」という要素を生み出しているのが、文章のテンポ感とリズム感だと私は感じています。

物語を前に進める内容の中に、あえて停滞をさせたり、左右に揺らしたりしながら、何が起きてもおかしくない独特のリズム感を作り出していきます。

そして、文章を読み始めた瞬間から、心地よく抑揚をつけて「朗読をさせてくれる」。そんな感想を抱かせてくれます。

ぜひ、リズム感とテンポ感という視点から小説を読んでみてください。

【テンポ感とリズム感の例】

では、このテンポ感とリズム感を生み出す文章の例について1つ紹介をしておきます。

それが「3のリズム」です。

プレゼン等で例を3つ出すことがコツであると言われますが、
これは文章でも同じです。

「〜ではなく、〜でもなく、〜だ。」

このように1つの事実に対して、他の2つを重ねることでリズム感が生まれます。そして、3の良いところはこの文章の後に流れを維持したまま、次の文章に進めるという点です。

「〜ではなく、〜だ。」

2つだけにした場合、強い断定の要素となり、別の流れを用意していく必要があります。タイトルをつけるときなどは協調となるため有用です。

3つ以上になってくる場合も作ることはできますが、ただ長くしているだけに思われて、不要な違和感となることがあります。そのためあまりおすすめはできません。

ぜひこれから小説を読む際や記事を読む際に「テンポ感」と「リズム感」を意識して読んでみてください。

【文章なんて誰も読まない。だからこそ、大事なことを伝えられる】

最初に伝えた通り、今の時代に文章を読もうとする人は稀です。

私たちの伝えたいことを苦労してまで読もうとする人は稀です。

しかし、文章が苦労を伴うツールだからこそ行き着いてくれた人には最大限の表現で持ってメッセージの感動を伝えられると思っています。

本質を伝えるために、入口をしっかりと整える。

その方法が直感的な把握を作り出すこととテンポ感とリズム感の創出です。

本が何度も繰り返し読まれ、一生学びを得続けられるように、その可能性の一つのなるように文章を書くという配慮をしていけると良いと思います。

【有料特典②】「エモさ」を作り出すものは何か?


私の言語化が「エモい」と言われた時、
何を隠そう私自身がいまひとつピンときていなかったのです。

「エモい」という言葉自体は知っていましたが、何を持って「エモい」のかがよくわからなかったのです。

【「エモい」とは何か?】

エモい、と調べてみると

「懐かしい」「感傷的」「感動的」「ノスタルジック」「趣がある」「切ない」「物悲しい」etc...

と多様なシーンで使える言葉ということがわかりました。

ここまで広い感情を包み込んだ表現が、一つの言葉で使われるのはとても便利とも言えますが、逆に言えば説明が難しいとも言えます。

そこで「見える化」でも使った「動き」に焦点を当てて、この状況を説明していこうと思います。

動きで表していくと「エモい」という状況が起きる時はどんなこと感覚が起こっているでしょうか?

私は「スポンジのように心の中にじんわりと感情が染み込んでいく」ような感覚を覚えました。

エモいの中に含まれている「感傷的」や「感動的」などの言葉は全てがポジティブな感情ではありません。そして、絶叫系やクラブのようにテンションが一気に上がるようなものでもありません。

ゆるやかなプラスやマイナスの感情が、混じり合いながら、確実にゆっくりと染み渡ってくる。

これがエモいだと私と私は定義しました。

【文章に波を生み出す】

ずっと同じ状態が続いていくと人は確実に飽きます。たとえどれだけ素晴らしい文章であってもです。

人は心地よい予定調和を求めながら、時折、気持ち良い裏切りと変化への緊張感や「どういうこと?」と感じさせる違和感を期待しているのです。

つまり、文章には波が必要ということになります

そして、この重要な波を生み出すものが「必要な無駄」です。

「必要な無駄」とは、話の本筋とは直接関係のない脱線情報になります。

しかし、脱線する情報であればなんでも良いというわけではありません。

登場する人間の感情や行動に至るまでの背景、経験から得た学び、これらが必要な無駄にとって大事な要因になります。

ではここで一つ例を出します。

例えば、ある平凡な野球選手がプロ野球選手となった場合、

事実だけで文章を作っていくと下記のようになります。

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中学校の軟式野球部に所属し、エースが肘の故障によって最後の夏の大会に出場できなくなり、急遽投手として出場。強豪相手に0-1という僅差で敗れたものの相手チームのエースをスカウトに来ていた部長に声をかけられ、県内の新鋭強豪校に進学。最新鋭のトレーニングによって最速155kmを記録するプロ注目投手になる。最後の夏の大会で甲子園初出場を果たし、破竹の勢いで準優勝。ドラフト会議にて4球団競合の末、日本ハムファイターズへ入団。
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このような経緯となり、事実は確かにわかりますが、この選手の性格や感情は人によって印象が変わるでしょう。事実は流れとしてわかりますが、「ふ〜ん」と感想を抱いて終わるだけになってしまうのではないでしょうか。

ここに必要な無駄を足していきます。

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部活動への強制入部制度のせいで、仕方なく中学校の軟式野球部に所属し、強制入部への反抗心からバレない程度にサボりながら活動していた。しかし、エースが肘の故障によって最後の夏の大会に出場できなくなり、いやいやながらも急遽投手として出場。強豪相手に0-1という僅差で敗れたものの相手チームのエースをスカウトに来ていた部長に声をかけられ、最初は坊主になることが嫌だと拒否し続けていた。しかし、高校側が時代錯誤と気づき、部員への坊主の強制を取りやめたことで、高校側の柔軟性と対話的な方針に感化されて県内の新鋭強豪校に進学。当初はコーチの意見を無視して自己流のトレーニングを貫くも、度重なる怪我と手のひら返しで離れていく人々に虚しさを覚える。その中でも見捨てることなく支えてくれたコーチへの感謝が芽生え、指導を仰ぐようになる。最新鋭のトレーニングによって最速155kmを記録するプロ注目投手になる。最後の夏の大会では甲子園初出場を果たし、破竹の勢いで準優勝も優勝できなかった悔しさを感じ、プロでのリベンジを誓う伸び伸びとした環境でプレーをするため日本ハムの志望を志望していることをコーチのみに伝えていた。ドラフト会議にて4球団競合の末、日本ハムファイターズへ入団。
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このように、必要な無駄を入れることによって、事実を作り出した背景を知ることができます。背景を知ることで物語に個性が生まれ、裏側にある人間の感情の揺れ動きすらも知ることができます。

さらなる効果としては、必要な無駄によって物語の展開が一時的にストップされ、余談としての情緒的情報が足されることにより、視野の広がりと小さなストレスが発生します

これは遠く先にある目的地に向かって歩いていた時に信号待ちとなり、ふと視点を左に向けると、新しくできたケーキ屋が目に入り、それ以降、景観を見ながら目的地を目指せるようなものです。

一時的なストップは小さなストレスとなりますが、引き換えに情緒的情報を知ることにより、事実を知るという目的に至るまでのプロセス自体に深い内容と価値が隠されていると読者は気づきます。

そして、「もっと知りたい!」という前のめりな状況を生み出します。

今回の例で言えば、
・そもそもの野球を始めたきっかけはなんだったのか?
・後のスカウトとの関係は?
・絶望から立ち直らせてくれたコーチはなんという言葉をかけてくれたのか?

など、書かれた言葉以上の物語が文章の奥にあると人が知り、物語自体に興味を持った時、「受け身な聞き手」から「積極的な読み手」に変わるのです

【装飾的エモさは人に気持ち悪さを与える】

「エモさ」を考える上で絶対にやってはいけないことがあります。

それは「エモさを加えようとすること」です。

エモさを加えるとは、

話の本筋や物語から得た学びとは関係のない箇所で文字の使い方や文章の使い方を工夫することによってエモさを加えていくことです。

例で言うと、漢字のものをあえてひらがな表記にしたりすることです。
(例:普通➡︎ふつう)

これを私は「装飾的エモさ」と呼んでいます。

「エモさ」は人の感情に直接作用する代物です。

それゆえに、「装飾的エモさ」は読者の感情を直接逆撫でする行為になります。

可愛く見せたい。
わかるやつだと思われたい。
感性のある人間だと思われたい。

そのような欲で上塗りされた文章は一見すると、エモく見えます。
しかし、読んでいくごとに違和感で気持ち悪くなっていくのです。

これは出来上がった料理に香水を振りかけるようなものです。

サーブされるまでは、とても美しい料理の景観に感動しますが、
いざ自分の目の前に置かれると、香水と料理の匂いが混ざり合って気持ち悪くなる。そんな料理を誰も食べたいとは思いません。

自分の欲が上に乗ることによって題材は一気に魅力を失います。

それどころか、この違和感は大きな悲しみと怒りの感情を生み出して、共感による大きなうねりを生み出していくことになります。

エモさの種は文章にしようとしている対象や学びの内側にしっかりと隠されています。視覚化も、テンポ感やリズム感も、それを引き出すための鍵に過ぎません。

文章を作るときは、あくまでも自分は題材を活かす調理者だという気持ちが大事になります

そうすれば、自然と人を惹きつける文章になっていくことでしょう。

P.S 過去の寂しさが今の言語化を作っている

最後まで読んでいただいて本当にありがとうございました。

この記事を書くにあたって、自分の過去を思い出していました。

最初にもお話しした通り、私は元々言葉に対して興味を持った人ではありませんでした。

それが言語化をほめていただけるようになったわけですが、
その要因の奥底には何があ流のだろうか?と思った時、
最初に思い出したのが「小学生の時の寂しさ」でした。

先にも書いた通り、
私は1人で過ごすことも多く、空気が読めないと言われながら育ち、
段々と自分が喋ることをやめていきました。

母親がお喋りであったこともあり、
私は自分の感情や思いを喋ることはあまりありませんでした。

でも、ワガママはたくさん言ったと思います。

こう言ってしまうと、非常に矛盾しているように聞こえるかもしれませんが
私は自分のワガママさえも、親が私の親であるという役を全うできるように言っていたと思うことがあります。

私にとっては内に秘めた気持ちというのは、ずっと誰かに言いたくて、
でも、誰にも伝えることのできない寂しさの温床でした。

そんな私には、楽しいと思える瞬間はありました。

それは登下校中の物語の想像です。

今思い出してみると、登下校中だけではありません。

つまらない授業中もずっと物語の想像を繰り広げていました。

架空の物語を作り、
登場人物に台詞を喋らせて、
ストーリーを展開をさせていく。

その展開が面白くなかったり、あまりにも一方的過ぎたら改善して作り直す。

そういった「ひとり遊び」を小学校一年生からやっていました。

その瞬間は喜びに溢れて、多くの気づきとひらめきを与えてくれました。

子供の頃の伝わらない寂しさや伝えられない寂しさが
自分という人間を丸ごと全て表現することへの執着を生み、
言語化を育ててくれたのだと思います。

一人の時間を心から楽しんで行った行為が
人に「伝わる」ための言語化を育ててくれたのだと思います。

そう思うと、今無駄に思えるようなことでも、
後々になって、それが自分にとっての唯一無二の武器になる可能性を秘めているということになります。

だから、私自身も昔の自分に感謝をしながら、
自分の好きに正直になって向かっていけばいいなと改めて感じさせられています。

この記事が想いが伝わるための手段として役に立っていくと信じ、
そして、誰かが自分の「好き」に向かう勇気になってくれると信じています。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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