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「意識高い系」は国の太鼓判がないからこそ生まれる言葉。でもそれでいい。

私は今、国際協力系のNGOで働いています。ある日、日本の知人に、NGOは「意識高い系の最上級だ」、と言われました。「意識高い系」という言葉を聞くのがしばらくなかったのですが、そういえば、そういうことになるのかもしれないと変に納得したのと同時にその言葉が引っかかりました。

「意識高い系」というのはとても不思議な言葉です。どこか「やらなくてもいいことを、自分から進んでやっている人」というニュアンスがあります。「やらなくてもいいけど、まぁやってることは良いこと」というニュアンスもあるかもしれません。では、なんでこの言葉が存在するのでしょうか?私はアメリカやイギリスに留学をしましたが、そこでは「意識高い系」という言葉を聞いたことがありません。少なくともこの3国の中では日本が特殊なのかもしれないと思いました。

アメリカとイギリスにも国際NGOはもちろんあり、国際協力に当たる業界はあります。むしろこちらの方が本家です。しかし、気になるのが、このInternational cooperationという言葉は使われてはいないということです。

では日本で言う国際協力にあたる言葉は何なのでしょうか?その答えは、私がイギリスに留学した経験から、得られました。私がいた学科のコース2つあり、私は所属していたのはConflict prevention and peacebuildingだったのですが、もう一つがDefence, development, and diplomacyというコースでした。DefenceやDiplomacyという言葉から察することができるかと思いますが、主体が途上国の人々というよりも自国に置かれているのです。Conflict prevention、Peacebuilding、Developmentは主体があやふやですが、DefenceやDiplomacyは自分と相手が強く意識されるからこそ存在する言葉です。

ここでいう「自分」とは誰なのでしょうか?それはやはり国ということになります。そもそもPeace and Conflict Studiesの分野は国際関係論の畑で議論されることが多く、国際関係論は国の対外政策的な部分と関わりが深い分野です。そのため、アメリカやイギリスの「国際協力」は国がよりわかりやすい形で太鼓判を押している分野なのです。つまり、国益に適った活動であるということです。国と繋がりが強い一例として、私が所属していた学科は週に一度ゲストスピーカーを呼ぶイベントがありましたが、ゲストスピーカーは、元イギリス空軍、元NATO職員、現ドイツ大使館職員などでした。日本のようにゲストスピーカーが「私が国際協力に興味を持つようになったのは、〜がきっかけで、〜と考える様になった。」などと想いを語る場面はありませんでした。どちらかというと皆さんDutyを語っていました。

では日本にとって国際協力は国益に適っていない活動なのでしょうか?そんなことはないと思います。しかし、安全保障の分野でアメリカに大きく頼り、隣国でアクティブな紛争のリスクやコストが少ない島国日本にとっては、国際協力はより直接的に国益に関わる分野として見られづらいです。どこか遠くのよくわからない国で井戸なんかを掘っているイメージが強くなります。よって、国際協力は「やらなくてもいいことを、自分から進んでやっている人」が集まる分野であり、人助けをやってるので「やらなくてもいいけど、まぁやってることは良いこと」になるわけです。日本政府がお金を出してやっている事業が大部分を占めるので、国の後押しがあることは確かなのですが、アメリカやイギリスの場合のように国に必要性を担保されているようには見えないのです。このような構造によって日本の国際協力に従事する人たちは「意識高い系」になります。

では、国が国際協力を国益と強く繋ぎ、押し進めていくことが良いことなのでしょうか?私は必ずしもそうであるとは思いません。国益につなげるということは、それの優先順位が先に来てしまい、裨益者の利益が二の次になることが正当化されてしまいます。意識高い系が国際協力に従事している方がその危険性は低くなり、全員のためになるあり方を追い求めることができます。私がイギリスで同じコースだったケニア出身の友人は日本を褒めて、こう言っていました「日本は他の国とは違う。利他主義的だ。」と。


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