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不器用な子を見届ける

ロウソクの炎、茅葺の屋根、郊外にあるしっぽりと佇む蛍光灯、近代の廃盤になったアメ車たち。どこか完璧さを欠いているものに魅せられる。LED、鉄筋の家、決めに行った照明、最新のエコカーたち。彼らを使った方がよっぽど快適で便利だ。機能か郷愁か。絵画や文章についても同様だ。人工知能が搭載されてるあいつの台頭により、誰でも完璧な作品は作れるようになった。才能が均質的に広がったのか、才能が無価値化したのかどちらなのかはわからない。ただ上手い作品、綺麗な作品を作ることは一瞬にして可能になったのは事実だ。それと同時に、多くのAI作品をSNS上で見かけるようになった。今ではもう、人が作ったものと機械が作ったものとの見分けは直感的にわかるようになった。そんな中、途端に人が描いた作品や機能の欠けた不器用なものたちの伸び代にグッと惹きつけられる。便利で完璧なものに囲まれて生きていると、レトロとかちょっとかけているものにより一層心が惹かれる瞬間を感じる。何かあったかく感じるような、近くにいてほしいような感覚。機能より懐かしさ、暖かさ。不便益とでも言おうか。みんなで囲む七輪。不便益の塊だ。ガスでいいし、電気でいい。それでも炭に火をつける過程、なかなか火力の上がらず奮闘する時間にあの便利さのカケラもない小さな円形に皆んなで群がる時間に目を向けてみる。こんなに楽しくて、心がふわっとなる時間を作れるのはガスでも電気でもなくあの小さな七輪だけだ。十分過ぎるほど便利な世の中の日常にちょっとだけ使いにくいものとみんなで戯れる時間を作ってみる。きっとちょっとだけ楽しくって、ちょっとだけニコって笑える時間が増える。最新じゃなくていい、便利じゃなくていい、完璧じゃなくていい。今にも消えかけそうだけど、ゆらゆらしながら絶えることなく微力の光を灯し続けるあの小さなロウソクに魅せられて欲しい。そんな僕は今日大好きなおじいちゃんにお下がりのネクタイを貰ったよ。新品じゃなくていい。最新のデザインじゃなくていい。大好きなおじいちゃんがずっと使ってきたネクタイだから嬉しいの。大好きなおじいちゃんがずっと使ってきたネクタイだから意味があるの。

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