逃げ水 #4| コピック
マグカップから立ち昇る、コーヒーの香りを含んだ蒸気を鼻から吸い込みながら、急勾配の階段を登ってデスクに戻る。
僕のデスクは、ビリジアン色の上に白い1cm間隔のグリッドが描かれたのカッターマットが机いっぱいに敷かれた、窓から一番遠く光の入らない暗い片隅にある。
こんなに大きなカッターマットの存在を知る人は、ファッション誌の街角スナップに掲載されることを夢見て、あらかじめ調べた取材現場のストリートを何往復することも厭わない人の数くらいではないかと思う。
僕はその両方を知っているので、さらなる少数派に属していることになる。
そういう人間は、雑誌に載ったらモテると思っている、模型製作によく使われる刃先の角度が30°と鋭い、カッターの刃くらい薄っぺらやつと思って間違いない。
モニターは飽きもせずに明滅する四角を表示させていた。
小さなドットが次に何かを表示するのを期待していたけど、一年に一度、一文字ずつ浮かび上がってくる超古代文明が残したモノリスの前で、何の疑問を持たずにひたすら待っているような人間にはなれなかった。
神様は世界をたった7日間で創ったというのに、たかだか30平米の、地球の陸地の0.00000002%しかない空間の、しかも仮想の絵を描くのに1日以上もかかるとは。人間がリンゴをかじった罪は相当に重たいのだろう。
コンピューターの怖いところは、自分は何もしていないのに、目の前で実行されている計算を眺めていると、自分が何か作業をしているように錯覚してしまうところだ。
実際に今も、何もしていないのにマグカップのコーヒーを飲み干してしまっている。
コーヒーがなくなって少しの間、Macの息の根を止めるべきか逡巡したが、これ以上待っても何も起こるわけはないので、電源ボタンを長押しする。
少しして「ジャーン!」という音が鳴り、
次に「初めまして!」という表情をした、正面と横から見た顔をくっつけたアイコンがモニタに表示される。
こいつとは大学時代からほとんど毎日顔を合わせているのに、いっこうに打ち解けてくれる気配がない。
こっちの機嫌などお構いなしに、いつも同じ表情を返してくる。クリストファー・ノーランが監督した「メメント」の主人公と同じ病気を罹っているに違いない。
Macはいつもの調子で立ち上がったが、今からやろうとする作業にはコンピューターは必要ない。手元の明かり取りと、一人でいる事務所の賑やかしの役割を与えておく。
そもそも社長のオーダーは「スケッチを描いておくように」というものだった。だから別にCGパースにする必要はなく、手描きのスケッチで良かった。
しかし、学生時代から独学で頑張ってきたCGに思い入れがあり、なおかつ先輩たちは誰も使っていなかったので「ここなら自分の存在感をアピールできるやん!」と鼻息を荒くしていた。
そんな目論見も段取りの悪さのせいで徒労に終わったのだけど。
ラジオから聞こえてきたm-floの「come again」に合わせて気持ちを切り替え、自宅から持ってきてデスクの隅に置いていた、マーカーがたくさん入った透明のケースを手元に寄せる。
学生時代から画材屋に通ってコツコツ集めた、お気に入りの色が詰まったケース。マーカーの商品名はコピック。
購入者のほとんどはイラストを描く人だろう。
コピックには2種類の形状がある。隅が面取りされた四角形断面のものと、楕円形に少し直線が加わった断面のものの2つ。
軸の両サイドはどちらもペン先になっていて、片方は蛍光ペンでお馴染みの一定幅のラインが引ける形、もう片方は面相筆のような形で、ラインの入隅などの細かいところまで着色できるようになっていた。
僕は単純に持ちやすいからという理由で、楕円形断面の方を集めていた。
僕はコピックに対して、金欠の時に1日の空腹を紛らせてくれる、9本入りの安いスティックパンくらいの愛着を持っていた。
それは、コピックが生まれて初めて、一つの色を使い切ることができたツールだったからだ。
小さい頃に買い与えてもらった、グラデーションが美しい色鉛筆やクレヨン、パステルなどの画材は、一色たりとも使い切ったことがなかった。
何かを夢中で描き上げることができなかったことに対して、画材を買い与えてくれた親に申し訳ない気持ちを抱いていたものだ。
そんなことだから、大学で建築を学ぶようになり、着色スケッチを描くにはコピックという画材が良いよ、と先輩から聞いた時にも購入するかどうか非常に迷った。
しかしそこは持ち前の収集癖が働いて、しばらくの間はバイト代をこの画材に注ぎ込んだ。
せっかく身銭を切って買ったものが観賞用になる心配は杞憂に終わった。
「使わなければならない」という強制力のパワーは凄まじく、設計課題の提出があるごとに、コピックのインクはみるみる減っていき、ついにペン先が乾いてインクが出なくなった。
画材のインクが無くなっただけのことなのだけど、これは自分史のエポックメイキングな出来事になった。
何かをやり遂げることから何かと理由をつけて先延ばしするクセのある人間にとっては、こんな些細なことでも十分に達成感に酔いしれることができる。
これ以来コピックはスケッチを描く時の絶対的な相棒になった。
コンピューターに頼れなくなった今は、この相棒と一緒にあと少しの時間でスケッチを仕上げなければならない。
しかし学生の設計課題とは違い、描いたものが実際の空間に立ち上がり、大げさに言えば社会を構成する物質の一部になると考えると、下書きの線もろくに描けなくなった。
そこで、社長がこれまで描いたスケッチを参考にしようと、社長のデスクの傍においてあるスチール製の図面収納ラックの前まで行き、引き出しをそっと開けた。
インクの水分で平坦さが失われたいくつかのスケッチを見つけ、それを手に取りデスクに戻った。
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