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セクシャリティの現在地

自分がどんなセクシャリティなのかずっとわからない。いま私は自分のセクシャリティを「クォイセクシャルとデミロマンティックの間」にしてみている。

クォイセクシャルとデミロマンティックは、簡単に言えば

クォイセクシャル:自分が他者にいだく好意が恋愛感情か否か、また自分が他者に感じる魅力が性的魅力か否か判断できない/しないセクシュアリティ

デミロマンティック:強い感情的な絆や、信頼関係が築かれている関係の人に対してのみ、稀に恋愛感情を抱くセクシュアリティ

詳しく知りたい方はこちら↓

私は「好きな人」がよく分からない。私の「好き」は他の人の「好き」とかなり違っていることに最近になって気づいた。

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小・中学校のときの「好き」のポイントは「ドキドキ」だった。他の人と一緒にいてもなんともないのに、ある人のそばにいると「ドキドキ」する。一緒に何がしたいとか特にそういうのはなかった。それに、自分のセクシャリティが他と違うことに全然気づいていなかった。

26歳の今、こうして文章を書けているのは、大学生になって以降納得いっていなかった自分のセクシャリティについて、少し腑に落ちた現実が見えてきているからだ。

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2,3年前頃、大学院を休学し、様々な人と関わるようになってから、自分という人間はいったいなんだろうということを初めて考えるようになった。自分のセクシャリティのことも考えるようになった。

ちょうど多様性とかLGBTというワードがよくメディアで取り上げられることが多くなった時期で、セクシャリティを公言する有名人や、セクシャリティに悩みを抱える人たちなどが登場してきた。セクシャルマイノリティに関するネット記事も格段に増えた。その結果、自分と同じようにもやもやしていたり、不安な心の置き場所を求めている人が世の中にはたくさんいるんだと分かり、ほっとしていたところがあった。

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自分にとって好きな人が何なのかいまいち分からない。付き合うってこともはてなマークが浮かぶし、セックスがしたいかと聞かれれば、ファンタジーすぎる世界なので、「したい/したくない」の2択にそもそもならない。

それに、どこまでが友達でどこからが恋人なんだろうって思う。「付き合ってください」「はい、お願いします」って言ってしまえば、それで恋人になれてしまうのが未だに腑に落ちない。手をつないだり、キスをしたり、セックスをしたり、他の人よりも多くの時間を過ごし、心と身体両方で愛しあえる関係性が恋人なのだとしたら、私に恋人がほしい願望はない。

待ち合わせして、「おはよう」って言って、ご飯を食べて、街をブラブラして、一緒に写真を撮って、一日の終わりにさよならのハグをして「じゃあ、またね」ってすればいい。別に付き合わずにこんなことをすればいいって思う。私にとってはその相手が家族でも友達でもいいわけだから、やっぱり付き合うっていうのがわからない。

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でもこの先、たまたま出逢った人と結婚したいという願望が急激に湧くかもしれない。結婚という形でなくてもパートナーでいたいと思うかもしれない。パートナーまでいかなくても、期間限定の恋愛関係が訪れるかもしれない。そう思える人がいたらステキだなとは思うけど、積極的にしにいこうとまで思えない。自分を好きになる人が一生で一人でも存在したら、それはラッキーすぎるって思う。例えるなら、宝くじで1等が当たるようなことだと思っている。

ただ...わがままを言うなら、人生の最後に1人は寂しいって思う。その状況を作らないためにどうするか、ずっと考えている。今の私にとっては、相手との間に恋焦がれは必要なくて、「寄りかかれる/支えてくれる」の関係性が今もこの先もずっと続く人がいること。それが全てだったりする。

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