見出し画像

おかえり ~虹の橋からきた犬~ 第十三話/新堂冬樹

【前回】 

「あの、こちらにしなさんという刑事さんはいますか?」
 は、高輪たかなわ中央署の受付の職員にたずねた。
 あさから、の家でめて逮捕されたと連絡が入り、武蔵むさしとタクシーで駆けつけたのだった。
「仁科……ああ、刑事課の仁科警部補ですね? どういったご用件でしょうか?」
 受付の職員が、菜々子の抱く小武蔵に視線を向けながら訊ねてきた。
「瀬戸さんという方が、こちらにお世話になっていると聞いたのですが。私は、『セカンドライフ』という保護犬施設で働いているたにと言います」
「ああ、保護犬施設のオーナーさんの件ですね? 仁科から聞いています。ところでクレートかなにかはお持ちですか?」
「すみません、急いできたもので何も持っていません」
「では、今回は特例でお通ししますが、抱っこしていてくださいね」
「はい」
「こちらへどうぞ」
 職員が立ち上がり、菜々子をエレベーターに促した。
 エレベーターを三階で降りた職員は、スチールドアの前で足を止めた。
「失礼します。『セカンドライフ』の小谷さんをお連れしました」
 職員がドアをノックしながら開けた。
「小谷さん! どうしてここに?」
 デスクの前に座っていた瀬戸が、驚いた顔で立ち上がった。
「麻美さんから連絡をもらって、私がきました」
「仁科と言います。妹さんに連絡したのですが、お店の方ですか?」
 瀬戸の正面に座っていた、くびのガッチリした柔道家体型の中年男性……仁科が腰を上げ、菜々子に訊ねてきた。
「はい。瀬戸社長のお店で働いている小谷と言います」
「とりあえず、お座りください」
 仁科が、瀬戸の隣のキャスター付きの椅子を勧めてきた。
「この子が、佐久間さんに連れ去られたというワンちゃんですか?」
 仁科が、菜々子に抱かれる小武蔵に視線を移した。
「はい、そうです。あの、どうして社長が逮捕されたんですか? 悪いのは、小武蔵を誘拐した佐久間さんのほうです!」
 菜々子は、抗議する口調で仁科に訴えた。
「佐久間さんから、通報があったんです。駆けつけたときに、瀬戸さんと佐久間さんが玄関で口論していたので、住居侵入罪で現行犯逮捕しました。瀬戸さんが言うには、スタッフの飼い犬がさらわれ、虐待されていたから抗議に行ったと。しかし、佐久間さんの言いぶんは、しばいぬを誘拐したのではなく連れ戻しただけだと。この柴犬はミカエルという名前で、三年間自分が飼っていたと。佐久間さんが柴犬を購入したというペットショップに裏を取ったのですが、言う通りでした。たしかに佐久間さんは、ご夫婦で柴犬を購入したそうです」
 仁科が淡々とした口調で説明した。
「それは認めます。でも、小武蔵……ミカエルのことですが、いけじり大橋おおはしの商店街の動物病院の前に捨てられていたんです! そこの獣医師さんが証言してくれますっ。小武蔵が捨てられていたこと、前の飼い主に虐待されていたことを! 佐久間さんは突然動物病院に現れて、捨てたのは奥さんがやったことだから返せと言ってきたんですっ。最初は紳士的な口調でしたけど、断ったら態度をひょうへんさせて動物病院で暴れ始めました! その後も『セカンドライフ』に乗り込んできて小武蔵を返せと暴れて……保護犬の散歩から戻ってきた社長が助けてくれなければ、小武蔵はをしたかもしれません!」
 菜々子は話しているうちに、佐久間の傍若無人な振る舞いを思い出して怒りが込み上げ、語気が荒くなった。
「落ち着いてください。だいたいのお話は、瀬戸さんから聞いてますので」
「じゃあ、どうして社長を逮捕したんですか!? 犯罪者の通報で善良な市民を取り調べるなんて、そんなの間違ってます!」
 菜々子がデスクを平手でたたくと、小武蔵がびっくりした顔を向けた。
「驚かせてごめんね。でも、この刑事さんが、あなたにひどいことをした人の味方をするから頭にきちゃったの!」
「ちょっと待ってください。別に、佐久間さんの味方をしているわけではありません。ただ、瀬戸さんが佐久間さんの家に押しかけて玄関に入ったのは事実ですし、所有者から住居侵入だと通報を受けたら警察署に連行しなければなりません」
 仁科が苦笑しながら弁明した。
「じゃあ、佐久間さんが小武蔵を誘拐したり虐待したりした罪は見逃すんですか!?」
 菜々子は仁科に詰め寄った。
「見逃しませんよ。でも、小谷さんが望んでいるような罪に問えるかは別の話です。小谷さんもご存じの通り、動物愛護法が強化されたといっても、最高で五年以下の懲役または五百万円以下の罰金です。お二人の訴え通りだとしても、二、三十万の罰金程度でしょう」
「小武蔵を誘拐して虐待して、二、三十万の罰金だけなんてひど過ぎます!」
 菜々子は怒りを爆発させた。
「誘拐と言っても、佐久間さんの場合は飼い主です。動物病院の前に捨てたのも佐久間さんではなく、奥さんが勝手にやったことです。佐久間さんが暴れたということはさておき、飼い犬を連れ戻そうとする行為は誘拐には該当しません。なので、今回は佐久間さんを訴えるにしても虐待についてだけになりますから、二、三十万の罰金が妥当かと。見た感じ、大きな怪我もしてないようですし」
 仁科の言葉に、菜々子の唇は怒りに震えた。
「なにが飼い主ですか! あの男が小武蔵を虐待するから、奥さんが助けるために捨てたに決まってます! それに、見た感じ大きな怪我をしてなくても、殴られたり蹴られたりしたときに受ける心の傷はどうなるんですか!? この子達だって、私達と同じに感情があるんですよ! 刑事さんみたいな考えの人がいるから、犬や猫を物扱いする人が増えるんです!」
 菜々子は、仁科に激しい口調で食ってかかった。
「小谷さん、抑えてください」
 瀬戸が菜々子を諭すように言った。
「いえいえ、いいんですよ。小谷さんの憤りも理解できます。私はこう見えて、愛犬家ですからね。家ではマルチーズを飼ってます。でも、現行の動物愛護法ではこれが限界です。ですが、経緯は察しているつもりです。瀬戸さんの取り調べは形式的なものですからご安心ください。あと三十分くらいで帰れます」
「そんなの当然……」
「小谷さん、ここは僕に任せてください」
 なおも仁科に食ってかかろうとする菜々子を、瀬戸が遮った。
「でも、社長はなにも悪くないのに……」
「僕が佐久間の家に乗り込んで騒ぎを起こしたのは事実ですし、刑事さんも経緯をわかってくれています。スタッフの子が駐車場に車を移動させてくれましたから、待っててもらえますか? 刑事さんにお話ししたいこともありますから。僕を信じてください」
 瀬戸が菜々子をみつめ、車のキーを差し出してきた。
「わかりました」
 菜々子はうなずきキーを受け取ると、外に出た。
 僕に考えがあります――瀬戸の瞳がそう語っていた。
 これまでも、瀬戸は菜々子や小武蔵のためにいろいろと協力してくれた。それに、怒りに任せて住居侵入をするような男ではない。
 瀬戸が佐久間の家に押しかけたのは、なにかの計画があるからに違いなかった。
「いっぱい驚かせてごめんね」
 菜々子は小武蔵を廊下に下ろし、腰をかがめた。
「でも、安心して。なにがあっても、あなたを守るから」
 菜々子は小武蔵を抱き締めた。
 ぶんぶんと左右に揺れる小武蔵の尻尾を見て、菜々子の胸は締めつけられた。
 どんなにひどい目にあっても人間を信頼しようとしてくれる小武蔵に……愛してくれる小武蔵に……。

     ☆

「すみません、お待たせしてしまって」
 瀬戸が謝りながら、ドライバーズシートに乗り込んできた。
 菜々子の膝の上に座る小武蔵が、お帰り! とばかりに一えした。
「大丈夫でしたか!?」
 菜々子は訊ねた。
「ええ。小谷さんの前でも言っていたように、仁科刑事は事情をわかってくれています。ただ、住居侵入で通報された手前があるから、手順を踏む必要があったんだと思います。それに仁科刑事が言っていたように、現行の動物愛護法では僕達の望むような刑罰で佐久間を裁くことはできません」
 瀬戸が残念そうに言った。
「悔しいです……。人間じゃなければ、なにをやっても許される世の中が……」
 菜々子は唇をんだ。
「今回はそうかもしれません。でも、次に同じようなことがあったら仁科刑事が『あおい銀行』に行って、佐久間を署に連行すると約束してくれました」
「え!? もしかして、そのことを仁科さんと話していたんですか?」
「ええ。二度と佐久間を小武蔵君に近づけない方法を考えました。罰金二、三十万の中途半端な刑罰だと、佐久間はふくしゅうしてくるでしょう。だから、わざと警察を介入させたんです」
 瀬戸が微笑ほほえんだ。
「え……どういうことですか?」
「最初から警察に相談しても、口頭の注意程度で終わったはずです。さっきも言いましたが、中途半端な傷を与えてしまうと佐久間は復讐を考えます。でも、一度事件を大きくして警察を介入させれば、次に佐久間が同じことをしたときに迅速に対応してくれます」
「だけど、動物愛護法では罰金二、三十万が限界なんですよね? その程度の刑罰では、佐久間を裁いたことにはなりません」
 菜々子は、素朴な疑問を口にした。
「はい。もともと裁くつもりはありませんでした。僕の目的は、佐久間が小武蔵君に手を出したら、警察がすぐに動いてくれるというげんを取ることだったんです。仁科刑事に相談すれば、職場に行ってくれるっていうことになったのはうれしい誤算でしたが」
 瀬戸が口元を綻ばせた。
「じゃあ、この状況を作るために佐久間の家に押しかけて騒ぎを起こして、わざと逮捕されたんですか!?」
 菜々子は素頓狂な声を上げた。
「佐久間が一番恐れていることは、銀行での評価が下がることです。佐久間を生かさず殺さずの状態にしておくことが、小武蔵君に危害を加えられないようにする最善の策だと判断しました。相談もせずに心配をかけてしまい、すみませんでした」
 瀬戸が頭を下げた。
「そんな、やめてください! 社長は小武蔵のためにやってくれたんですから。謝らなければならないのは、私のほうです。ごめんなさい! そして、ありがとうございました!」
 菜々子も頭を下げた。
「もしかして、二人で同じことやってます?」
 瀬戸が頭を下げたまま言った。
「そうみたいですね」
 菜々子と瀬戸は、二人同時に頭を上げて笑った。
 小武蔵が吠えながら、菜々子の膝と瀬戸の膝を何度も飛び移った。
「こらこら、社長に悪いでしょ! おとなしくしなさい!」
 菜々子が言うと、瀬戸の膝に飛び移ろうとしていた小武蔵が動きを止めた。
 瀬戸が小さく噴き出した。
「どうして笑うんですか?」
 菜々子はいぶかしげな顔を瀬戸に向けた。
「あ、ごめんなさい。小谷さんの迫力の前では、さすがの小武蔵君も借りてきた猫みたいだと思って」
「え?」
「小谷さんって、気持ちいいほど喜怒哀楽がはっきりしていますよね。感情をごまかせないっていうか。もっとうまくはぐらかせば楽に生きられるのに、感情の声を素直に代弁するから損な役回りが多くなってしまう。さっきも小谷さんの迫力に、刑事さんもたじたじになってましたよ」
 相変わらず、瀬戸はクスクスと笑っていた。
「母からも、いつも言われていました。あなたは、心に思ったままを口にし過ぎるって。言葉にフィルターをかけなさい、反論する前に十数えなさい、腹が立ったら深呼吸を十回しなさい……って。まったく、娘をなんだと思ってるんだって感じですよね」
 菜々子はため息をいた。
「いいお母さんですね。小谷さんのことが心配だから、耳に痛いことを言ってるだけですよ」
「でも、母の言う通りでした。私のこの性格で、広告代理店に勤務しているときにクライアントを怒らせたり、アロマショップに勤務しているときにお客さんを怒らせたり……まあ、トラブルメーカーってやつですね」
 菜々子は自嘲的に笑った。
「たしかに、トラブルメーカーかもしれないですね。だけど、相手を怒らせるだけの理由が、その都度あったんだと思います。小谷さんは、理由もなく相手に噛みつくような人じゃないですからね」
「そんなふうに言ってくれるのは、社長だけです。改めて、ありがとうございます」
 菜々子は頭を下げた。
「僕は、そのままの小谷さんが好きですよ」
「え……」
 菜々子は弾かれたように顔を上げた。
「あ……いえ、そういう意味じゃなく、人間的にという意味です。すみません、誤解を与えるような言いかたをしてしまって」
 瀬戸が慌てて否定した。
「で、ですよね! わかってます! 社長と私では釣り合いませんから」
 菜々子は動揺を隠し、笑顔で言った。
 お世辞でも謙遜でもなく、本音だった。
 保護犬達を救い、佐久間の件でも矢面に立って戦ってくれ、誘拐された小武蔵を菜々子と一緒になって探してくれた。
 優しく、寛容で、たくましく……人間的に未熟な菜々子には、もったいない相手だ。
「そんなことありませんよ! 小谷さんは素敵な人です!」
 瀬戸の言葉に、菜々子の思考は停止した。
「あ、また、余計なことを言ってしまいましたね。でも、いま言葉にしたことは本心です。ね? 小武蔵君」
 瀬戸は照れ臭そうに言うと、菜々子の膝上に座る小武蔵の頭をでた。
 小武蔵は瀬戸の両肩に前肢まえあしをかけ、嬉しそうに口もとをペロペロとめた。
「ほら、そんなに舐めたら社長の口がベトベトになるでしょう」
 小武蔵を抱き寄せ瀬戸から離すと、今度は菜々子の唇を舐め始めた。
「ちょっと、間接キスに……」
 菜々子は、言葉の続きをみ込んだ。
 血液が沸騰したように顔が熱くなり、鼓動が速くなった。思ったことを口に出す性格とはいえ、これはひど過ぎる。
 だが、口から出てしまった言葉を、いまさら取り消すことはできない。
「いまのは、聞かなかったことにしてください」
 バツが悪そうに、菜々子は言った。
「あ……はい。僕は、全然大丈夫です」
 瀬戸も気まずそうに言った。
 重苦しい沈黙が広がった。
 小武蔵だけが、菜々子の膝の上で呑気のんきに尻尾を振っていた。
 なにか言わなければ……。
 焦燥感が、菜々子の背筋をい上がった。
「一旦、店に戻って夜に行きましょう」
 沈黙を破ったのは瀬戸だった。
「どこにですか?」
 菜々子は訊ねた。
「佐久間の自宅です」
「え!? 夜にですか!?」
「奥さんもいるでしょうから、夜のほうが好都合です」
「でも、家に押しかけたら、また警察沙汰になりますよ」
 菜々子は不安を口にした。
 二度続けて通報されたら、いまは理解を示してくれている仁科も瀬戸に協力してくれなくなるかもしれない。
「安心してください。今度は、ちゃんと外で待ちますから。今夜で、佐久間とは終わりにします」
 瀬戸は言うと、イグニッションキーを回した。

     ☆

 佐久間の自宅前に停めたバンの車内に、瀬戸のスマートフォンのスピーカーから漏れるコール音が響き渡った。
「相手には、瀬戸さんの名前が表示されているんですよね? 出ないんじゃないですか?」
 菜々子は訊ねた。
「いや、出ると思います。僕が即日釈放されて、佐久間は納得がいってないはず……」
 三回目のコール音が途切れた。
『電話なんかしてきて、どういうつもりだ?』
 スピーカーから、佐久間の押し殺した声が流れてきた。
「悪いが、いまから出てきてもらえないか?」
『は? いま、何時だと思ってるんだ?』
「あんたに、大事な話があるんだ」
『こっちには、お前に話なんてない。だいたいな、お前は住居侵入で俺に通報されたばかりなんだぞ!? 自分がなにをやっているのか、わかって……』
「わかってるよ。だから、こうして出てきてくれと電話しているじゃないか。五分もかからないから」
 瀬戸は一方的に言うと、電話を切った。
「出てきますかね?」
 菜々子は訊ねた。
「出てきますよ」
 瀬戸は即答した。
 ほどなくすると、瀬戸の言葉通りに自宅の門扉から佐久間が現れた。
「ほらね。じゃあ、行ってきます」
「私も行きます」
「いや、小谷さんは小武蔵君とここにいてください。佐久間には、近づかないほうがいいです」
「いいえ、私と小武蔵がきっかけですから。私も小武蔵も、佐久間に背を向けたくありません。お願いします! 私達も連れて行ってください!」
 菜々子は小武蔵を抱いたまま、頭を下げた。
「わかりました。でも、僕の後ろにいてくださいね」
 瀬戸が、根負けしたように言った。
「社長の身に危険が迫ったら、約束できませんけど」
 菜々子が言うと、瀬戸が苦笑しながら車を降りた。
 菜々子もあとに続いた。
「また、警察に通報されたいのか!?」
 佐久間が、険しい形相で歩み寄りながら言った。
「逆だよ」
 瀬戸は涼しい顔で言った。
「逆!? それはどういう意味だ!?」
 佐久間が訝しげに訊ねた。
「僕があんたを通報しなくていいように、警告しにきてあげたんだよ」
「警告だと!? なにふざけたこと言ってるんだ! いいか? 俺は被害者だぞ!」
「次は、その言いぶんは通用しない」
 瀬戸が、抑揚のない口調で言った。
「なに!?」
 佐久間の血相が変わった。
「今度、小谷さんと小武蔵君に接触してきたら、仁科刑事が『葵銀行』に出向き、あんたを署に連行すると約束してくれたよ」
「なっ……」
 佐久間が絶句した。
「で、でたらめを言うんじゃねえ!」
 我に返った佐久間が、目尻をり上げた。
「でたらめじゃない。明日、仁科刑事のほうからあんたに連絡が行く。あんたが小谷さんと小武蔵君にかかわらないなら、これまでのことは水に流してもいいと思っている。どうしても小武蔵君に手出しをするというのなら、仁科刑事に通報してあんたの職場に行ってもらうしかない。小武蔵君を誘拐し虐待した事実が銀行にバレてもいいのなら、好きにすればいい」
「くそっ……勝手なことばかり言いやがって……」
 佐久間が、悔しそうに唇を噛んだ。
「それはこっちのセリフよ!」
 菜々子は、怒りに瀬戸との約束を忘れ、佐久間の前に足を踏み出した。
「本当は明日にでも刑事さんと銀行に乗り込みたいけど、小武蔵のために我慢してるのよ! 逆恨みばかりしてないで、小武蔵に感謝しなさい!」
 菜々子は佐久間を一喝した。
「そんなくそ犬、お前らにくれてやるよ!」
「なんですって……」
「あなた、いい加減にしてください!」
 菜々子の声を、女性の声が遮った。
 佐久間の肩越し……背後から歩み寄ってくる女性に、菜々子は視線を移した。
「お、お前は、口出しするな」
 佐久間が、動揺した様子で言った。
「口出しします! 私、佐久間の妻です。このたびは、主人がご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした」
 女性……佐久間の妻が、菜々子と瀬戸に向き直り頭を下げた。
「お前が、こいつらに頭を下げる必要はない!」
 佐久間が妻を一喝した。
「あなたって人は、まだわからないんですか! 私がどうして、ミカエルを動物病院に置いてきたと……」
 妻が言葉を切り、涙目で佐久間をにらみつけた。
「な、なんだよ……そんなで見るなよ」
 佐久間が、妻から視線をらした。
「何度止めてもミカエルにたいしての暴力をやめないから、そうするしかなかったのよ! 私はミカエルを捨てることで、あなたにチャンスを与えた。なのにあなたは、私に黙ってミカエルを連れ戻そうとした。それも、誘拐という卑劣な手口で……もう、我慢の限界です。あなたという人には、ほとほと愛想が尽きました。離婚しましょう」
 妻が冷めた口調で言った。
「ちょちょ……ちょっと待て……ま、待ってくれ。い、犬のことくらいで離婚はおおだろ!?」
 佐久間は、激しく動転していた。
 その動揺ぶりを見て、佐久間にとって妻が大切な存在だということが伝わってきた。
「大袈裟ですって!? 飼っている犬を叩いたり蹴ったりするような人と、夫婦としてやってゆけると思っているんですか? ミカエルに暴力をふるうあなたを見るたびに、ずっと離婚を考えていました」
 妻が冷めた口調で言った。
「だ……だから、それは……俺も好きでやってたんじゃないんだよ。銀行ってところは大変なストレスがまる職場で、つい、ミカエルに八つ当たりをしてしまって……」
「つい八つ当たりで、新しい飼い主まで探し出してミカエルを誘拐してくるんですか!?」
 妻が佐久間に詰め寄った。
「悪かった! この通りだ!」
 突然、佐久間が土下座した。
「小谷さん、行きましょうか?」
 瀬戸が菜々子を車に促した。
「奥さんの件まで、計算していたんですか?」
 菜々子は助手席に座ると、瀬戸に訊ねた。
「計算ってほどじゃないんですけど、奥さんが佐久間の虐待から助けるために小武蔵君をおか先生の病院に置き去りにしたのなら、僕達側についてくれると思ったんです。さすがに、外に出てきてあの展開になるとは思いませんでしたけどね」
 フロントウインドウ越し――妻の足元で土下座する佐久間に視線を向けながら、瀬戸が言った。
「佐久間が奥さんを愛していると、よくわかりましたね」
「愛しているかどうかはわかりませんでしたが、出世のマイナスになるから離婚は困るだろうなとは思いました。本当に、愛しているかもしれませんけどね」
「社長は、不思議な人ですね。保護犬達と触れ合っているときの社長は、計算なんてまったくしない人に見えるんですけど」
 菜々子は、思ったままを口にした。
「前にも言ったかもしれませんけど、僕は物言えぬ子達を守るためなら手段を選びません。もちろん、犯罪以外ですけどね」
 瀬戸が朗らかに笑いながら、小武蔵の頭を撫でた。
「よかったね、小武蔵。社長が、お前を苦しめたあいつをやっつけてくれたからね。もう二度と、会うことはないから……」
 菜々子は小武蔵の顔を両手で挟み、額をくっつけた。
 幼い頃から、毎日毎日怒鳴られ、暴力を受け、どんなに怖かったことだろう。
 やめて、痛い、怖い、助けて……。
 人間のように、恐怖を言葉にすることも助けを求めることもできない。
「つらかったね……もう大丈夫だからね……」
 菜々子の涙腺が震えた。
 小武蔵が、菜々子の頬を伝う涙を舐めた。
「これからは、幸せな思い出を二人でたくさん作ろうね」
 菜々子は、額と額をつけたまま小武蔵に言った。
「仲間外れにしないで、僕も交ぜてください」
 瀬戸が冗談めかして言った。
「え……あ、ああ、どうぞどうぞ」
 菜々子は小武蔵から額を離し、平静を装い言った。
「いま、一瞬、躊躇ためらいましたね?」
 瀬戸が悪戯いたずらっぽく笑った。
「そ、そんなことないですよ!」
 菜々子は、顔の前で大きく手を振った。
 うそではなかった。
 躊躇ったのではなく、戸惑ったのだ。
 単なる冗談なのか、それとも別の意味を含んでいるのか……。
「『セカンドライフ』に戻って、麻美も交えてお祝いしましょう!」
 瀬戸が弾む声で言った。
「なんのお祝いですか?」
 菜々子は瀬戸にげんな顔を向けた。
「小武蔵君の、新たな第一歩記念です」
 瀬戸が笑顔で言った。
「なるほど! ありがとうございます! 小武蔵、よかったね! みんなでお祝いしてくれるって!」
 菜々子が語りかけると、小武蔵がハイテンションになりシートの上を飛び跳ね回った。

第十四話に続く)

プロフィール
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
小説家。実業家。映画監督。98年に『血塗られた神話』で第7回メフィスト賞を受賞し、デビュー。“黒新堂”と呼ばれる暗黒小説から、“白新堂”と呼ばれる純愛小説まで幅広い作風が特徴。『ASK トップタレントの「値段」(上・下)』『枕アイドル』『極悪児童文学 犬義なき闘い』『虹の橋からきた犬』(全て集英社文庫)など、著書多数。芸能プロダクション「新堂プロ」も経営し、その活動は多岐にわたる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?