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おかえり ~虹の橋からきた犬~ 第十二話/新堂冬樹

【前回】 

「このお店のようですね」
 が言いながら、路肩に車をめた。
≪焼肉一番星≫
 は、あさから送られてきた画像と車窓越しの店を見比べた。
「ここです! 行きましょう!」
 菜々子は、助手席のドアを勢いよく開け車を降りると、焼肉店のガラス扉を引いた。
「いらっしゃい……」
「すみません! 武蔵むさしの飼い主です!」
 菜々子は、女性スタッフを遮り言った。
 こぢんまりした店内には、三組の客がいた。
「小武蔵……ああ、迷っていたワンちゃんのことですね」
 女性スタッフの顔が曇った。
 菜々子の胸に、嫌な予感が広がった。
「小武蔵はどこですか?」
「それが……いないんです」
 女性スタッフがを伏せた。
「いないって、どういうことですか!?」
 嫌な予感に拍車がかかった。
「すみません。僕が眼を離した隙に、逃げ出してしまって……」
 女性スタッフの背後から現れた若い男性スタッフが、こわった顔で説明した。
「逃げ出した……」
 菜々子は、言葉の続きを失った。
「状況を、詳しく教えていただけませんか?」
 瀬戸が男性スタッフにたずねた。
「店が混んできたので、粗大ごみに出す予定だったテーブルの脚にリードをくくりつけておいたのですが、戻ったときにはいなくなっていて……本当にすみません」
 男性スタッフがうなだれた。
「いえ、お仕事なので仕方ありません。小武蔵君が逃げ出してから、どのくらいちますか?」
「十分くらいです」
「ありがとうございました!」
 男性スタッフが言い終わらないうちに、菜々子は店を飛び出した。
「あ……どこへ行くんですか?」
 瀬戸の声が菜々子の背中を追ってきた。
「小武蔵ーっ! 小武蔵ーっ! 小武蔵ーっ! 小武蔵ーっ! 小武蔵ーっ!」
 菜々子は店の裏側に回り、首を巡らせながら小武蔵の名を連呼した。
 十分くらい前なら、まだ遠くには行っていないはずだ。人通りが多いので、どこかへ隠れている可能性もあった。
 居酒屋の裏に積み上げられているビールケースをどけた。
たにさん、勝手に動かしたらだめですよ」
 瀬戸の声がした。
「小武蔵! どこなの!?」
 リフォーム中の、建物のブルーシートをめくった。
 菜々子はつんいになり、駐車場の車の下をのぞいて回った。
「小武蔵! 小武蔵!」
「おねえちゃん、なにか落とし物?」
「一緒に探してあげようか?」
 酒臭い息が、菜々子の鼻孔に忍び込んできた。
 サラリーマンふうの男が二人、菜々子を挟み込むようにかがんだ。
「いま忙しいから、邪魔しないでください!」
「遠慮しないでいいからさ~」
 一人が、菜々子の肩に手を回してきた。
「やめてください!」
 菜々子は、男の手を振り払った。
「一緒に探してやるから、終わったら飲みに行こうよ」
 もう一人の男が、菜々子の尻を触ってきた。
「なにするのよ!」
 菜々子は振り向き様に、男の頬を張った。
「てめえっ、ふざけんな!」
 振り上げた男の腕を、瀬戸がつかんでひねり上げた。
「この野郎!」
 瀬戸は、殴りかかってきたもう一人の男の足を右足で払い転倒させた。
「お前らに構っている暇はない。消えろ」
 瀬戸は押し殺した声で命じると、腕を捻っていた男を倒れている男の上に突き飛ばした。
「かっこつけやがって……」
「くそが……」
 支え合うように立ち上がった男たちが、台詞ぜりふを残し駆け出した。
 が「おか動物病院」で暴れたときにも思ったが、怒ったときの瀬戸は保護犬達を相手にしているときの彼とは別人のようになる。
 不思議と、怖いとは感じなかった。それは、瀬戸が暴力的な人間ではないとわかっているからだ。
 瀬戸の怒りには、子熊を守る母熊のような戦う正当性を感じた。
「大丈夫ですか?」
 瀬戸が、菜々子に手を差し伸べてきた。
「ありがとうございます」
 菜々子は、瀬戸の手を取り立ち上がった。
「無理しちゃだめですよ。小谷さんは、放射線治療で免疫力が低下しています。をして感染症にかかったら、大変なことになりますから」
「すみません。迷惑をかけてしまって……。でも、小武蔵はまだこの近辺にいるはずですから、早くみつけてあげないと」
 菜々子は早口で言った。
 気がいていた。
 一分一秒経つごとに、小武蔵が遠くに行ってしまう……。
「わかりました。二手に分かれて探しましょう。ただし、あと一時間探してみつからなかったら、今日は家で休んでください」
「瀬戸さんは戻ってください。私は、とてもそんな気分にはなれませんから」
「お気持ちはわかります。でも、小谷さんの病状が悪化したら、小武蔵君が戻ってきても面倒を見ることができなくなります。それに、あと一時間探して見つからなかったら、素人が闇雲に探してもみつかりません。ペット探偵の数を増やして、いまからこの近辺を重点的に探してもらいますので。お願いします、僕の言うことを聞いてください」
 たしかに、瀬戸の言う通りなのかもしれない。
 体調を崩して月曜日からの放射線治療を受けられなくなり、子宮けいがんが進行したら小武蔵の面倒を見られなくなる。
 小武蔵には、自分しかいないのだ。
 それに、ペット捜索のプロが探したほうが小武蔵をみつけられる可能性が高い。
 心配だからといって、素人がガムシャラに探し回っているだけでは逆効果になって小武蔵の発見が遅れることもありうる。
「わかりました。でも、料金は私が払います」
 菜々子は言った。
 ペット探偵を雇う費用が高額であるだろうことは、菜々子にも想像がついた。
 小武蔵の捜索に一緒に動いてもらっているだけでも申し訳ないのに、金銭的な負担までかけるわけにはいかなかった。
「ペット探偵の費用は、気にしなくても大丈夫ですから」
 すかさず瀬戸が言った。
「そういうわけにはいきません」
 菜々子は引かなかった。
 瀬戸の厚意には感謝するが、おんぶに抱っこでは菜々子の気が済まなかった。
「小谷さんはこれから、治療にお金がかかります。今後の小武蔵君との生活もありますから、ここは私に甘えてください」
 瀬戸が諭すように言った。
「でも……」
「僕が全額持つことに気が引けるというのなら、半額を負担してください。小谷さんの給料から、少しずつ返してもらいます。それなら、いいですよね?」
 瀬戸が、菜々子の顔を覗き込んできた。
 これ以上断るのは、瀬戸にたいして逆に失礼にあたる。
「すみません。お言葉に甘えさせていただきます」
「じゃあ、いったん車に。ペット探偵に連絡しますから、僕達は車で探しましょう」
 瀬戸は言うと、きびすを返した。
 菜々子はうなずき、瀬戸を追い越し車に向かって走った。

     ☆

「なにかわかりましたか!?」
「セカンドライフ」の店内に入るなり、出迎えた麻美に菜々子は問いかけた。営業時間は終わっていたが、菜々子たちが戻ってくるのを待っていてくれたのだ。
 小さく首を横に振る麻美に、菜々子はうなだれた。
「そっちも、だめだったの?」
 麻美が瀬戸に訊ねた。
「ああ。いま、ペット探偵の人達が捜索を開始したから、きっとみつかるよ」
 瀬戸が力強く言った。
「それにしても、逃げ出すなんて……」
 麻美がため息をいた。
「とりあえず、座って。いま、コーヒーでも出すから」
 麻美に促され、菜々子と瀬戸はカフェフロアの席に着いた。
「大丈夫です。五人のプロが手分けして、捜索してますから、必ずみつかりますよ」
 瀬戸が、菜々子を励ますように言った。
 菜々子は力なく頷いた。
 結局、保護された焼肉店から脱走した小武蔵はみつからなかった。

 小武蔵、どこにいるの? あなたにもしものことがあったら……。

 膝上に置いた手を握り締めた――震える唇をみ締めた。
「今日のところはひとまず、コーヒーを飲んだら自宅で休んでください。明日には、朗報が入ると信じましょう」
 瀬戸の言葉を信じたかった。だが、おさまらない胸騒ぎが菜々子を不安にさせた。
 重苦しい空気を、固定電話のベルが切り裂いた。
「はい、『セカンドライフ』です。え? 迷い犬の情報ですか!?」
 麻美の声に、菜々子ははじかれたように振り返った。
「え……交通事故ですか!?」
 菜々子は席を立ち、麻美のもとに駆け寄った。
 交通事故……菜々子の心臓の鼓動が速くなった。
 まさか、小武蔵が……。
 神様が、ちゃちゃまるに続いて小武蔵まで奪うはずがない。
「犬種はわかりますか!? はい、はい……車に? はい、はい……なかぐろ駅近くのこまざわ通りですね!? わかりました。情報、ありがとうございます」
「小武蔵が、どうかしたんですか!?」
 麻美が受話器を置くのと同時に、菜々子は訊ねた。
「中目黒駅近くで、小型犬が車にねられたそうです」
 麻美が、強張った顔で言った。
「小武蔵なんですか!?」
 菜々子の顔も強張っていた。
「いえ、しばいぬかどうかもわからないそうですが、撥ねられた茶色の小型犬が車のラゲッジシートに運び込まれるところを見て、もしかしたら小武蔵君じゃないかって……それで、連絡をくれたみたいです。車に運び込んだのは撥ねた車の運転手で、動物病院に連れて行くためだそうです」
「その子の怪我は、どの程度だったんですか!? その子は、一頭でいたんですか!? 飼い主は、いなかったんですか!? 中目黒の、どこの動物病院ですか!?」
 菜々子は、矢継ぎ早に質問した。
「あ、ごめんなさい……怪我の程度も、飼い主がいたのかどうかも、どこの病院かも聞いてません。私、動転しちゃってて……」
 麻美が、半泣き顔でびた。
「いえ……麻美さんは、なにも悪くありませんから。私のほうこそ、問い詰めるようなことしてごめんなさい」
 菜々子も詫びた。
 麻美を気遣ったわけではなく本音だ。
 悪いどころか、小武蔵のために営業時間外も情報を集めてくれている恩人だ。
「行ってきます!」
 菜々子は言うと、フロアを飛び出した。
「どこに行くんですか?」
 瀬戸が菜々子のあとを追ってきた。
 どこに行けばいいのか、当てはなかった。
 中目黒駅周辺の動物病院を、手当たり次第回るつもりだった。
「僕が車で送ります!」
 瀬戸の声……足が止まらなかった。
 車のほうが速い……わかっていたが、菜々子は駆けるのをやめなかった。 

 あなたじゃない……あなたじゃないよね!?

 菜々子の視界が涙ににじんだ。
 滲む視界の先で、白っぽい影が動いた。
 菜々子は足を止めた。
 白っぽい影が、菜々子に向かってきた。
 菜々子は眼を閉じ、手の甲で涙を拭った。
 眼を開けた菜々子は息をんだ。
 約十メートル先……商店街を菜々子に向かって走ってくる柴犬。
「小武蔵……」
 菜々子は、かすごえつぶやいた。
 泥だらけになった小武蔵が、全速力で走ってきた。
 夢ではない、幻でもない……これは、現実だ。
「小武蔵!」
 菜々子は叫び、腰を屈めて両手を広げた。
 舌を出し、耳を後ろに倒した小武蔵が、菜々子の胸に飛び込んできた。
「よかった! 無事だったのね!」
 菜々子は涙声で語りかけ、小武蔵を抱き締めた。
 小武蔵はぶんぶん尻尾しっぽを振りながら、ものすごい勢いで菜々子の顔をめてきた。
「えらい……えらいよ……一生懸命に、戻ってきたんだね……」
 涙がとめどなく頬を伝った。
 保護された焼肉店から逃げ出したのも、菜々子のもとに帰ってくるためだったのだ。
 小武蔵の被毛は泥にまみれ、うしろあしのまわりが赤く染まっていた。
「自力で戻ってきたんですね……」
 瀬戸が菜々子の隣に屈み、うわずる声で言った。
「ちょっと見せてね」
 菜々子は小武蔵の左右の後肢を交互に折り曲げ、肉球をチェックした。
「まあ……」
 左右とも肉球に裂傷があり、出血していた。
「長い距離を走って、肉球が切れたのでしょう。異物は入ってないようですね」
 瀬戸が、小武蔵の肉球にスマートフォンのライトを当てながら言った。
「戻って消毒しましょう」
 瀬戸が立ち上がった。
「さあ、小武蔵、抱っこ……」
 菜々子が腕を伸ばした瞬間、小武蔵がスローモーションのようにゆっくりと横向きに倒れた。
「小武蔵!」
 菜々子は膝をつき、小武蔵の体に手を伸ばした。
「触らないでください!」
 瀬戸の声に、菜々子の手が止まった。
「もし、内臓から出血していたら危険です。いま、真岡先生に往診にきてもらいますから、小谷さんは小武蔵君についていてあげてください」
 瀬戸は言いながら、脱いだ靴下をボールペンに巻きつけて小武蔵の口にくわえさせた。
「社長……」
 菜々子は、瀬戸にげんな顔を向けた。
「舌を巻き込んで、窒息しないための応急処置です」
 瀬戸が冷静な口調で言った。
「電話しますから、押さえていてもらえますか?」
 瀬戸がボールペンに巻きつけた靴下に視線をやりながら、菜々子に頼んできた。
 菜々子は、小武蔵の口角から出ているボールペンの端を両手で掴んだ。
 小武蔵の四肢は、小刻みにけいれんしていた。
「小武蔵! 大丈夫!? どうしたの!?」
 菜々子は、どうしていいのかわからずパニックになった。
 このまま、小武蔵が死んでしまったら……。
「四、五分できてくれるそうです」
 瀬戸が戻ってきて、菜々子の隣に腰を下ろした。
「この子、どうしたんでしょう!?」
 菜々子は、硬い声で瀬戸に訊ねた。
 小武蔵の痙攣はおさまったが、動きがなくなったことで別の不安が広がった。
 しかし、菜々子は、小武蔵の上下する腹部を見てかすかなあんを得た。
「僕も医者じゃないからはっきりしたことは言えませんが、一種のショック症状ではないかと思います」
 瀬戸が、小武蔵を心配そうにみつめながら言った。
「ショック症状?」
 菜々子は、掠れた声でおう返しに言った。
「ええ。以前、小武蔵君と同じように倒れた子がいて。そのときは急性アレルギー……つまり、アナフィラキシーショックでした。アレルゲン性物質を摂取したり、よく知られているようにハチに刺されたりしたことで発症する場合があります」
「アナフィラキシーショックなら、すぐに治療しなければ命が危ないですよね!?」
 思わず、菜々子は大声で訊ねた。
「落ち着いてください。小武蔵君の場合は、その可能性は低いと思います。アナフィラキシーショックも意識を失う場合がありますが、顔が腫れたり呼吸困難に陥ったりする症状が現れますから」
「君は獣医師になれる素質があるよ」
 真岡が小武蔵の傍らに屈み、右後肢の付け根に人差し指、中指、薬指を当てて脈拍を取り始めた。
「先生! 小武蔵は大丈夫ですか!」
「とりあえず、中に運ぼう。お願いしていいかな?」
 真岡が瀬戸に言った。
「動かしてもいいんですか!?」
 菜々子は訊ねた。
「ああ、大丈夫だよ。詳しくは中で話そう」
 真岡が小武蔵を抱える瀬戸に続き、「セカンドライフ」に入った。
 保護犬フロアに行くと、いつになく保護犬たちが静かに迎えた。
 いつもは元気にえて出迎えるモナカ、マロン、バニラの小型犬トリオも、瀬戸に抱かれて運び込まれてきた小武蔵を心配そうな顔で見上げていた。
「お兄ちゃん、どうしたの……小武蔵君!」
 麻美が瀬戸に駆け寄った。
「小武蔵君は、自力で戻ってきたんだ」
 瀬戸が言った。
「じゃあ、中目黒の駅近くで撥ねられたのは小武蔵君じゃなかったの!?」
「ああ、別の子だ」
「瀬戸君、ここに寝かせてくれないか」
 真岡が、テーブルに載せたクッションを指差した。
 ワイルドとテイオーが、珍しくクンクンと鼻を鳴らしていた。やんちゃなミルクも、クッションに横たわる小武蔵を不安そうな眼でみつめていた。
 真岡は、小武蔵の歯茎としたまぶたの粘膜の色をチェックしていた。
「やっぱりな」
 真岡が呟いた。
「どうしたんですか?」
 菜々子は真岡に訊ねた。
「簡単に言えば小武蔵は、脱水症状と貧血を起こしている。朝から晩まで長距離を走ったんだろうから、それも仕方がないね。駅伝で倒れ込んで痙攣しているランナーを見たことあるかい? いまの小武蔵は、そのランナーの症状と同じようなものだと思えばいい」
 真岡は菜々子に説明しながら、バッグから点滴パックを取り出した。
「悪いけど、持っててくれるかな?」
 真岡は瀬戸に点滴パックを渡すと、今度は伸縮式の点滴スタンドを取り出し手際よく組み立て始めた。
「ありがとう」
 真岡は点滴スタンドに点滴パックをセットし、小武蔵の右前肢に針を刺し医療テープを巻いた。
「傷だらけになっちゃって。菜々子ちゃんに会いたくて、痛みを我慢して走ってきたんだよ。健気けなげな子じゃないか」
 瀬戸が、小武蔵の肉球になんこうを塗りながら微笑ほほえんだ。
「小武蔵は目覚めますか!?」
 菜々子は、悲痛な顔を真岡に向けた。
「うん。点滴で水分と塩分が補給されたら体が動くようになるから。いまの小武蔵は、車でたとえればガソリンがなくなっている状態で、動けないだけだよ」
 真岡の言葉に、菜々子は脱力して腰から崩れ落ちた。
「小谷さん!」
 瀬戸が屈み、菜々子の体を支えた。
「すみません……安心したら、足に力が入らなくなって……」
 菜々子は掠れた声で言った。
 本当によかった。
 もし小武蔵が死ぬようなことがあったら、菜々子には一人だけで生きてゆく自信がなかった。
「おや……」
 小武蔵の体をチェックしていた真岡の顔が険しくなった。
「どうしたんですか?」
 麻美がいぶかしげに訊ねた。
「背中とでんの三ヶ所が内出血している」
「内出血ですか?」
 麻美が聞き返した。
「ああ」
 相変わらず険しい真岡の顔に、菜々子は不安を覚えた。
「走っているときに、どこかにぶつけたんですか?」
 麻美が質問を重ねた。
 真岡が首を横に振った。
「じゃあ、どうして……まさか……」
 麻美が息を呑んだ。
「これは人為的な打撲痕だ。恐らく虐待されていたんだろう」
 真岡の言葉に、菜々子は反射的に立ち上がった。
「あの男が、また小武蔵を虐待したんですか!?」
 菜々子の血相が変わった。
「彼だと断言はできないが、迷っているときに受けた打撲とは考えづらい。それに小武蔵の皮膚には、ベルトのようなもので打たれたと思われる擦傷がある」
「ベルト……」 

 ――どうやらこの子は、前の飼い主に虐待を受けていたようだ。ベルトを見せたら、やはり激しくおびえてね。日常的にベルトでたたかれていたんだろう。 

 脳裏によみがえる真岡の言葉が、菜々子の胸をむしった。
「打撲の程度は軽いものだから、体のほうは心配ない。だが、心の傷のほうが心配だね。さぞ、怖かっただろうに」
 真岡が、小武蔵の頭をでながら言った。
「あの男っ、許さない!」
「小谷さん……」
「待ちなさい!」
 駆け出す菜々子を止めようとする瀬戸の声を、真岡が遮った。
「止めないでください! これからあの男の家に行って……」
「家に行ってどうするんだい? あの男を怒鳴りつけたところで、状況はなにも変わらないよ」
 瀬戸が諭すように言った。
「だからって、このまま許すわけにはいきませんよ! 小武蔵がどんなに怖い思いをして逃げ出してきたかを考えると……」
 菜々子は、怒りとかなしみに震える声で言った。
「たしかに、小武蔵は怖かっただろうな。でも、小武蔵が逃げ出したのは佐久間って男を怖がったからだと思うかい?」
 真岡が、意味深な言い回しをしながら菜々子をみつめた。
「え……どういう意味ですか?」
 意味がわからず、菜々子は訊ね返した。
「小武蔵が逃げ出したのは、あの男が怖いからじゃない。菜々子ちゃんを守るためだよ」
 真岡の柔和に下がった目尻のしわが深く刻まれた。
「私を守るために……」
 菜々子は呟きながら、テーブルに横たわる小武蔵に視線をやった。
「ああ。そうさ。菜々子ちゃんを一人にしないために、小武蔵はまんしんそうになりながらも走り続けてきたんだよ。それなのにつまらない相手の逆恨みを買って、君にもしものことがあったら哀しむのは小武蔵だからね」
「僕もそう思います。佐久間は卑劣な男です。小谷さんは治療に専念して、やつは僕に任せてください」
 瀬戸が、真岡の言葉を引き継いだ。
「でも、それじゃ社長が危険な目にあってしまいます」
「僕は男ですからご心配なく。佐久間に制裁を与えた上で、おとなしくさせる考えがあるので」
 瀬戸が自信満々に言った。
「菜々子さん、ここはお兄ちゃんに任せましょう。いざというときにお兄ちゃんが頼りになることを、菜々子さんも知ってますよね?」
 麻美が菜々子の肩に手を置いた。
 菜々子は頷いた。
「よろしくお願いします。だけど、危ないことはしないでくださいね」
 菜々子は言った。
「安心してください。僕には守らなければならない子達がいますから。この子達の居場所が、なくなるような無謀なまねはしませんよ。僕を信じてください」
 瀬戸が菜々子をみつめ、力強く頷いた。
「あら、お兄ちゃん、ドラマのワンシーンみたいで素敵!」
 麻美が茶化すように言った。
「ば、馬鹿……なに言ってるんだよ」
 瀬戸がドギマギして言った。
「なに慌ててるの? ドラマのワンシーンみたいで、素敵って言っただけなのに。え? もしかして、いまの言葉、菜々子さんに特別な思いを込めてたとか?」
 麻美が、クスクスと笑いながら瀬戸に追い討ちをかけた。
 菜々子のが熱くなり、鼓動が速くなった。
「お前、いい加減にしないと……」
「目覚めたかい?」
 真岡の言葉に、菜々子は小武蔵に視線を戻した。
 小武蔵が眼を開け、四肢を震わせよろめきながら立ち上がった。
「小武蔵! 無理しないで!」
 菜々子は、小武蔵に駆け寄った。
 小武蔵は、尻尾を振りながら菜々子の顔を舐めた。
「ごめんね……怖い思いをさせて……」
 菜々子は小武蔵を抱き締め、首筋を撫でた。
「そして、ありがとう……本当に、ありがとう……」
 菜々子の頬から顎を伝った滴が、小武蔵の被毛に落ちて弾けた。

     ☆

 日曜日。菜々子は休みをもらっていた。
 瀬戸が明日の放射線治療のために、菜々子の体を気遣ってくれたのだ。
 菜々子は公園のベンチに座り、駆け回る小武蔵を視線で追っていた。
 小武蔵がうれしそうにしているのを見ていると、菜々子も幸せな気分になる。だが、今日の菜々子には気がかりなことがあった。

 ――今日で、佐久間と決着をつけてきます。
 ――決着って……大丈夫ですか? 本当に、危ないことはしないでくださいね。
 ――そんな馬鹿なまねはしませんよ。言ったでしょう? この子達の居場所をなくすわけにはいきませんから。

 瀬戸のことは信用している。
 だが、不安だった。瀬戸を信用していないというわけではなく、佐久間が信用できないのだ。
 菜々子は、ネガティヴな思考を打ち消した。
 悪い想念で、危惧が現実になることが怖かった。
 菜々子は気持ちを切り替えた。
 目の前を、五メートルのロングリードをつけた小武蔵が通り過ぎた。
 これで、五周目だった。ロングリードは、人気のない公園だけで使用していた。
 菜々子は、ロングリードを日常的に使うことには反対だった。リードが長過ぎると、驚いて通りに飛び出して車に撥ねられたり、ほかの犬とトラブルになったりとアクシデントを引き起こす原因になるからだ。
「無理しちゃだめだよ~」
 菜々子は、はしゃぎ回る小武蔵に声をかけた。
 昨夜、極度の疲労と脱水症状で動けなくなった犬とは思えないほど、小武蔵は元気に駆け回っていた。
 犬は、回復も早い代わりに病気の進行も早い。
 朝、元気に菜々子を見送った茶々丸の容態が急変したように……。
 菜々子は、開きそうになった暗鬱な記憶の扉を閉めた。
 いつまでも、茶々丸の死を引きっていてはいけない……昨日、小武蔵にそう教えられたような気がした。
 根拠はない。
 だが、命を削ってまで菜々子のもとに戻ってきた小武蔵の思いを考えると、そろそろ前を向いて歩く時期なのかもしれない。
 いや、小武蔵と出会ってからの菜々子は、既に前向きになっていた。ただ、茶々丸への罪悪感がそれを否定した。
 茶々丸にあんな最期を送らせてしまった自分が、心から笑ってもいいのか?
 新しい犬を迎えて、茶々丸のときのように幸せな日々を送ってもいいのか?
 自問自答の連続だった。
 茶々丸のときと同じシチュエーションの出会い、茶々丸と同じ位置にある似たような模様、茶々丸と同じような仕草……小武蔵が茶々丸の生まれ変わりだと思う要素は、いくつもあった。
 最愛のパートナーを失い失意の底に落ちた飼い主が、新しく迎えた子を生まれ変わりだと信じようとしても誰にも責められはしない。
 だが、菜々子は違った。
 小武蔵を茶々丸の生まれ変わりだと思うことで、自らの罪を許す気か?
 小武蔵が茶々丸に見えるたびに、自責の声が聞こえた。
 菜々子が自分を許せるとしたら、それは本当に小武蔵が茶々丸だったときだけだ。
 茶々丸が小武蔵に生まれ変わったかどうかは、彼らに物が言えない以上、永遠の謎だ。
 菜々子は気づいた。
 大事なことを見落としていたと……菜々子と茶々丸が通じていたのは、言葉ではなく心だと。
 散歩に行きたいとき、おなかが減ったとき、撫でてほしいとき、哀しいとき、嬉しいとき、膝に乗りたいとき、一緒に寝たいとき……瞳や仕草を見るだけで、茶々丸がなにを求めているかがわかった。
 小武蔵が菜々子のもとに戻ってきて、激しくパンディングしながらお座りした。
 走り回ったあとのアイコンタクト……茶々丸のときに、何百回も見た瞳。
 普通の犬なら水がほしいサインだが、茶々丸は違った。
「お前も、そうだよね?」
 不思議と、菜々子には確信があった。
 菜々子は腕まくりをして、小武蔵の前に突き出した。
 小武蔵が、ペロペロと菜々子の前腕を舐めた。
 茶々丸は激しい運動のあと、水より先に塩分を求めた。
 一分くらい菜々子の腕を舐めたあとに給水器から水を飲む……それが、茶々丸のルーティンだった。
 小武蔵が、菜々子の前腕を舐めるのをやめた。
 菜々子は、すかさず小武蔵に給水器を差し出した。小武蔵が勢いよくノズルをくわえ、水を飲み始めた。
「やっぱり、そうだったんだね」
 菜々子は、泣き笑いの表情で小武蔵に語りかけた。
 スマートフォンが震えた。
 ディスプレイに表示される麻美の名前。
 菜々子はデジタル時計に視線を移した――PM1:15
「ちょっとごめんね。電話が終わったら、またあげるから」
 菜々子は小武蔵の口から給水器のノズルを抜き、スマートフォンを耳に当てた。
「もしもし?」
『お休み中、ごめんなさい』
 麻美の声は、心なしか強張っているように聞こえた。
「どの子か具合が悪くなったんですか?」
 菜々子は訊ねた。
『いえ、いま、警察から連絡がありまして……お兄ちゃんが逮捕されたみたいで』
「え……」
 予期せぬ麻美の言葉に、菜々子は絶句した。
 瀬戸が逮捕? 佐久間とのトラブルが原因なのか?
 それならば、逮捕されるのは佐久間のはずだ。
 なにがどうなっているのか、わからなかった。
「社長が逮捕って、どういうことですか!?」
『佐久間の自宅でめて……それで……通報されたようです』
 麻美が動転しているのは、電話越しにも伝わってきた。
「警察署には私が行きますから、麻美さんは店にいてください。どこの警察署ですか?」
 菜々子は麻美の動転に拍車をかけないように、落ち着いた口調で言った。
『……高輪たかなわ中央署です』
「わかりました。あとで連絡します! 小武蔵、行くよ! 今度は私達が社長を助けなきゃね!」
 菜々子はリードを通常のものに付け替え、小武蔵とともに出口に向かってダッシュした。

第十三話に続く)

プロフィール
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
小説家。実業家。映画監督。98年に『血塗られた神話』で第7回メフィスト賞を受賞し、デビュー。“黒新堂”と呼ばれる暗黒小説から、“白新堂”と呼ばれる純愛小説まで幅広い作風が特徴。『ASK トップタレントの「値段」(上・下)』『枕アイドル』『極悪児童文学 犬義なき闘い』『虹の橋からきた犬』(全て集英社文庫)など、著書多数。芸能プロダクション「新堂プロ」も経営し、その活動は多岐にわたる。

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