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本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第九話(中)

【前回】 

         *

「北町奉行、はじ鹿かわちのかみ様。ご出座」
 重々しく太鼓が響く中、その声が高らかに上がった。
 重三郎は白州に敷かれたむしろに座り、平伏して奉行を待つ。左隣では山東京伝が同じように平伏し、恐怖のあまり身を震わせていた。
 やがて、静かに足を運ぶ音が届いた。きぬれの音、静かに腰を下ろす音。次いで、低く厳かな声が渡る。
ほんとい・耕書堂のあるじ、蔦屋重三郎。並びに戯作者・山東京伝こときょうでんぞう。面を上げい」
 これに従って平伏を解けば、奉行は重三郎とそう歳の違わない壮士である。その人が白州にある二人の顔を順に見て、傍らにある本――京伝の書いた『錦之裏』を持ち上げた。
「調べによれば、京屋伝蔵はこれなる好色本を書き、蔦屋重三郎が売り出して世を惑わしたとある。出版取締令の四条に触れておるが、しかと相違ないか」
 京伝の震えが大きくなった。そして再び筵の上に両手を突き、言葉を拾うように返す。
「世の中を……惑わしたかどうかは。でも、俺は確かに、はい。その本を書きました。そいつはですね、あの、間違い……ご、ございません」
 奉行はゆっくりと大きく頷き、重三郎に目を向けた。
「蔦屋。其方はどうじゃ」
 重三郎は、ごくりと固唾を呑んだ。
 京伝ほど臆病ではないが、正直なところ恐い。だが奉行所に連行され、ひと晩を牢で過ごす間に、自らの考え、この白州で言わねばならぬことは整理できている。
「京伝さんがその本を書いて、手前が売り出したのは間違いございません。しかし、です。お奉行様、お聞きください」
「ふむ。申し開きがあるか。続けよ」
 背筋に冷たい汗が流れる。総身に嫌なしびれが走る。それでも、これだけは言わなければ。
「まず、京伝さんは手前に頼まれてその本を書いたのでございます。ですから、どうかお構いなしにしてやっていただけませんか」
 そう吐き出すと、不思議と気が楽になった。大きく息を吸い込み、重三郎は続ける。
「それから京伝さんも申し上げましたとおり、手前共は世を惑わしたつもりはございません。本屋の役目は世の中を楽しませること、人々の心を励まし世の中を動かす力を持ってもらうことと心得てございます。全ての本は、そのために売り出しております」
 奉行はしみじみとした顔で、大きく二度頷いた。
「とは申せ、其方も版元なれば出版取締令を知らぬ訳はあるまい。皆の心を励まさんとする意気や良し。されどそれを行なうに、好色本をもってするは不届きであろう」
「お言葉を返すようで、恐縮ではございますが……洒落本は好色本ではございません」
 できる限り京伝を守らねばならない。洒落本の立場を守らねばならない。その思いで反駁はんばくしつつ、脳裏には昔日のあれこれが駆け巡っていた。
 まるから地本問屋株を買い取るに当たり、難題を出された。本当に良いものを世に送り出して商売を大きくしたいと言うのなら、それができるという証を見せてくれ、と。
 そこで朋誠堂喜三二を拝み倒し、洒落本を書いてもらった。喜三二の名前と筆で、洒落本は他と同じ娯楽の本だと、世に認めさせようとした。
「確かに、しばらく前までは『いかがわしい本』と言われておりました。ですが――」
 喜三二の力で、世の人々が洒落本を見る目は間違いなく変わった。これにて丸屋も納得し、株を譲ってくれたのだ。
「――今では他の本と同じ、読んで楽しい本だと認められているのです」
 そういう本を、旧態依然の考え方で「好色本」と斬って捨てられる訳にはいかない。喜三二の恩を泥にまみれさせる訳にはいかないのである。その思いで自らの心を支え、重三郎はなお言葉を継ぐ。
「出版取締令は確かに承知しております。ですが法度には、きちんと改所を通せという一条がございましょう。耕書堂の本は全て、改所を通した真っ当な本でございます」
 京伝が、おろおろしながらこちらを見ている。が、それを以て心の奥底から湧き出す言葉が止まることはなかった。
「改所が『大丈夫』と言ってくれない本は、ただの一冊も売り出してはおりません。そもそも去年の七月にも、耕書堂は洒落本を売り出しております。その折は何のお咎めも受けませんでしたのに、どうして今回に限ってお咎めを受けるのか、その訳をお聞かせください。納得できますれば、手前はどんな罰でも頂戴するつもりでおります」
 言うべきこと、言わずにはいられないことを、全て出しきった。罰への恐怖、お上への畏怖は確かにあれど、清々しい思いがする。
 そういう重三郎の顔を見て、奉行はどういう訳か穏やかな眼差しであった。
「のう蔦屋。わしは、実は読本が好きでな。ことにいにしえ唐土もろこしに伝わるたんなどが好みじゃ」
「は……はい。え? いや、その」
 意表をく言葉に、ついつい口籠もる。そこに向け、奉行はまるで本を談議するが如く、楽しげに続けた。
「本を選ぶ時などはな、いかん、いかんと思いつつ、ついつい名の売れた作者の本ばかり手に取ってしまう。無名の作者が、もっと面白いものを書いておるかも知れんのにな」
「あ……。はい。手前も、誰が書こうと面白いものは面白いと思っておりますが」
 奉行はにこりと笑い、ゆっくりと頷く。そして、続けた。
「わしの本の選び方で分からんか? 人というものは、本の面白さもることながら……」
「はい。その前に、誰が書いたかで選んでしまうところが――」
 言葉が止まった。
 がん、と頭に強く響いている。づちたたかれるくいごとくに、頭から泥の中へ打ち込まれたような衝撃であった。
 誰が書こうと、面白いものは面白い。これは事実である。
 しかし世の人は、何が書かれているかではなく、誰が書いたかで判じてしまう。これもまたあらがいようのない事実なのだ。
 ずっと前から、そう思ってきた。たった今、奉行も同じことを言った。
 つまり、それは――。
「お奉行様。この度のお咎めは……。京伝さんが書いたから、なのでございましょうか」
「まさに、そのとおりだ」
 そして奉行は、諭すように言った。他の物書きなら目を瞑るところだったが、と。
「山東京伝の筆であるというだけで、否応なしに『錦之裏』は売れてしまう。世を動かしてしまうのだ。如何にしても、これを見過ごす訳にはいかん」
 当の京伝が何も言わずにこちらを向き、力なく首を横に振った。自分の名にそれだけの力があるのなら、奉行の言い分は正しいと認めている。重三郎も思いは同じだった。
「恐れ……入りました」
 ひれ伏して、それだけ発した。
 打ちひしがれた。誰が書いた本であるかで、人は良し悪しを判じてしまう。そのことが、頭の中で回り続けていた。
 丸屋の難題に対して、自分はなぜ喜三二に洒落本を頼んだのか。まさに、喜三二の名を使わせてもらうためだった。喜三二の書いた洒落本なら、きっと世の人々を動かし得るはずだ、と。
「蔦屋。面を上げい」
 奉行の声は和らいでいる。重三郎は呆然ぼうぜんとした顔をさらした。
「お裁き、でしょうか」
「その前に、もうひとつ釘を刺しておきたい。其方は風刺本を多く売り出し、お上のやり様をあざわらっておったろう。それは何ゆえか」
 既に観念している。申し開きも、言い逃れも、するつもりはなかった。
「初めは……とある物書きの先生と話した上で、風刺本を売り出しました。ですが、そこから先は違います」
 風刺本が流行ったのは、きんの果てに打ちこわしが起きた後だった。
 騒動の後になって初めて、幕府は庶民に米を配った。自分も庶民も、お上のやることは後手に回っているという不満を抱いていた。
 あの頃、喜三二は屈辱を味わった。幕府の、飢饉への対処にまつわる話だった。
 二つが合わさって、最初の風刺本『ぶんどうまんごくとおし』を売り出すことになった。これが庶民に広く受けれられ、以後、風刺本は出せば必ず当たるものになった。
「詰まるところ……世の中が求めているから、ああいう本を多く売り出したのです」
 奉行は「なるほどな」と頷き、そして問うた。
「国家、という言葉を知っておるか」
「それは、まあ。はい」
「ならば話は早い。国というものはな、そこに暮らす全ての人々の家なのだ。そして国を動かす者たちは、各々の家にける親と同じである」
 考えてみよ、と言葉が続いた。子が望むからと言って、親はその全てを与えはしない。そのように甘やかしては、子は決して、ろくな者に育たないからだ――。
「出版の法度も、これと関わりのない話ではない」
 人は流されやすい生きものだ。そしてこのご時世、特に皆が流されやすくなっている。先年の打ち毀しによって、幕府はそれを衝き付けられた。
「あの折、見物の者が狼藉ろうぜきに加わってしまったことは存じておろう。下々は、さほどに自らを律せられなくなっておった。親としては引き締めてやらねばなるまい。そしてな。嘆かわしいことだが、人は『他の誰かがように申しておるから』で動いてしまうものぞ」
 他の誰か――それが広く人気を集めている者ともなれば、さらに庶民はあおられやすい。売れっ子の戯作者が書いた本は、特にそういう力を強く持つ。
 だからこそ取締令は発せられた。そして京伝ほどの者が洒落本を書いたのなら、これを捨て置く訳にはいかなかった。奉行はそう言う。
「子が何かを楽しんでいるとしよう。されど世に照らし、好ましくないもので楽しんでおるのなら、親はどうする。良い子に育って欲しい、良い人間として世に出て欲しいと願えばこそ、えてそれを取り上げるであろう? 子の悲しむ顔に胸を痛めながら、心を鬼にして……な」
 奉行の言葉と佇まいが、神々しいものにさえ思えた。だが重三郎の中には、なお腑に落ちないものが残っている。
「……お奉行様。この度のお咎めについて、手前は全て納得いたしました。ですが、それとは別に、あとひとつだけおきしておきたいことがございます」
「ほう。申してみよ」
 静かに頷き返される。軽く喉を上下させ、問うた。
「飢饉の時の話です。お上が下々の親と同じだと仰せなら、どうして打ち毀しが起きるまで米を配らなかったのでしょうか。子が腹を空かせていたら、親は自分が食わずとも子に飯を与えるものではございませんか」
「そこか。確かに、得心しにくいだろうな。されど大本の考え方は同じだ」
 あの折も、早めに蔵を開いて米を配ることはできた。しかし米の刈り入れは秋七月頃から始まるもので、打ち毀しの起きる少し前――五月中旬は一年の中で最も蔵が寂しくなる時だった。その上で。
「五月のうちは、その年が不作か否かを読みきれぬ。斯様な時に蔵を開かば、御公儀にはもう打つ手がなくなっておったろう。その末に、この国が潰れるのではないかと思わば、おいそれと米を配る訳にはいかなんだ」
 江戸に住まう五十万の町人に米を配るとは、そういう危険をはらんでいる。打ち毀しの後で蔵を開いたことにしても、るか反るかの賭けであった。不作が続かなかったから良かったようなものの、そこは幸運であったに過ぎない。
「分かるか蔦屋。全ては国家を、この国に住まう皆の家を、支えるための方便なのだ」
 お上は常に、民の父母として正しい道を歩もうとしている。御政道に関わる者は皆、その思いで自らを律している。そう言われて、重三郎は改めて平伏した。
「……何もかも、納得いたしました」
 奉行は長く息をつき、柔らかな声音で語りかけた。
「其方は心根正しく、優しい男と見える。されど蔦屋、肝に銘じよ。其方ほどに人を動かす力を持つ者なら、お上の……民の父母たる者の思いを、解しておらねばならぬのだ」
 神妙に「はい」と応じる。奉行が安堵を漂わせ、然る後に厳かな声を響かせた。
「裁きを申し渡す――」

         *

 重三郎は努めて腰を低く、門衛に会釈して奉行所を出た。
 その姿を認め、少し右手に離れた辺りから小走りに寄って来る者たちがあった。妻・おこう、懇意の北尾重政、京伝の妻・お咲の三人である。
「おまえさん」
 お甲が涙ぐんで声を寄越した。重三郎はその顔に軽く頷き、眼差しで「少し待っていろ」と示すと、お咲に向いて頭を下げた。
「申し訳ない。京伝さんを無罪放免にしてやれなかった」
 お咲の顔が、さっと青ざめた。
「うちの人、どうなるんです?」
「ああ、まあその……もうすぐ出て来ると思うよ。ただ、ちょっとね」
 京伝への罰は、手鎖にて町内に預けること五十日、というものであった。
「家には帰れるし、お咲さんと一緒に暮らしていられるよ。手鎖が取れるまでは、色々と大変だと思うけど」
「……良かった」
 お咲はへたり込んで、喜びのあまりえつを漏らした。とは言え、飽くまで「そのくらいで済んで良かった」というだけである。
 重三郎の胸は痛恨にきしんだ。版元として、戯作者を守れなかった自分が情けない。
 その面持ちに、北尾が心配そうに声をかけた。
「あいつのことは分かったが、おめえさんはどうなんだ。身代の半分を召し上げだってうわさだぜ」
 お甲も小さく頷き、心細い顔をしている。二人の様子に、ついつい失笑が漏れた。
「身代の半分なんて、そんな無法があるもんですか」
 全ての法度には、咎に応じた罰が定められている。出版取締令の罰則は、身上――前の年の稼ぎ――に応じて重過料というものだ。幕府自ら法をじ曲げるはずもなし、これを超える沙汰は下りようがない。
「うちの売上なら二十貫文の罰金だって言われました。三日のうちに納めないといけません」
「何だよ。大したことねえな」
 北尾は拍子抜けした顔であった。
 然り、確かに大したことのない過料ではある。だが、かつてうろこがたも全く同じ罰を受け、以後はすっかり庶民に嫌われてしまったのだ。それを思えば気楽に考える訳にもいかない。
「この先、鱗形屋と同じにならないようにしないとね。色々考えないといけません」
 大きく溜息をつく。と、お甲が「ねえ」と声を寄越した。躊躇ためらいがちな面持ちながら、眼差しには強い意志の力があった。
「この先を考える前にさ、今までを考えてみない?」
「そりゃ、どういう?」
 お甲は踏ん切りを付けるように強く頷き、真っすぐに重三郎を見据えた。
「風刺本の頃からさ……何となくだけどね、危ないって思ってたんだよ。何がどう危ないのか、あの時は分かんなかった。けど、おまえさんがしょっ引かれてさ。ひと晩じっくり考えたら、分かってきたことがあって」
 喜三二の風刺本で大当たりを取った頃、重三郎は「今のあたしには町衆が味方に付いてる」と言っていた。お甲はそこに「危うい」と思ったのだという。
「人の心とか世の中の流れとか、そういうのを読むの、おまえさんはうまいよね。だから口出ししなかったんだけど」
 言いにくい。しかし言わねばならない。その気持ちに、お甲の目がキッとり上がる。
 対して重三郎は、苦い笑みであった。
「そのことか。もう分かってるよ。お奉行様に、がっちり教えていただいた」
「え? 何それ」
「町衆が味方に付いてる……か。馬鹿だったね、あたしは」
 ひとつ息をつき、白州でのことをつまんで語ってゆく。そして。
「お奉行様はこう仰った。子供が望むからって、何でも与えちまう親はいないだろうって」
 その言葉が全てなのだ。昨今の自分は、町衆が望むからと言って、そういう本を作ってきた。商売としては、決して悪いやり方ではなかったはずだ。しかし。
「そいつは……裏を返せば、あたしが町衆に流されてたってことなんだよ」
 かつて喜三二を拝み倒し、洒落本を書いてもらったのは、名のある戯作者ならば人を動かせると思ったからだ。そして、その考えは正しかった。
 あの時のことを忘れ、京伝の洒落本なら売れると考えてしまった。取締令に言う「好色本」が洒落本のことだと分かっていながらだ。子が望むものをほいほいと与え、甘やかす親と何が違おうものか。
「世の中の気持ちを探ってきたのは、そういうのとは違ったはずなのにね」
 人々の気持ちを楽しい方に押し流す。自分が流行りを作り、世の中を動かす。そういう商売をしたかったのだ。
 なのに、逆になってしまった。町衆が望むからと、黄表紙の風刺本を大きく売り出した。京伝に洒落本を頼んだ。昔日に思い描いた「蔦重の商売」を忘れ、世の流れに呑み込まれていた。
 だからこそ、咎めを受けた。
「お奉行様のお言葉で、ようやく分かったんだよ。情けないったら、ないね」
 思えば自分も四十二を数えた。歳を取って焼きが回ったかと、寂しい笑みが浮かぶ。
 するとお甲が、重三郎の右腕を強く張った。実に晴々とした顔であった。
「何言ってんだい。間違いに気付いただけ上等だよ。一回負けたって、それで勝負が終わる訳じゃないんだろ? だったら出直しゃ済む話さ。次に、どうやったら勝てるか考えな」
 きっの良い言葉が胸に突き刺さり、心が潤った。どんな思いで吐いた言葉か――それをみ締めるほどに、じわりと覇気が湧き出してくる。
「うん。そうだね。よし……決めたよ」
「何を?」
 軽く目を見開いたお甲に、穏やかな笑みを向けた。
「今回のこと、おまえと離れて暮らしてたせいじゃないかって思えてきた。だから、吉原よしわらの見世を閉めようと思う」
 風刺本の時から、お甲は何とはなしに危ぶんでいた。だが、何を危うく思うのかが明らかにならなかった。常に亭主を見ている訳ではなかったから、ではないだろうか。
「おまえがそばにいりゃ、あたしが何か間違った時に気が付いて、引っ叩いてくれるだろ?」
 重三郎の言葉に、北尾が苦笑を見せる。お甲が良い笑みを浮かべ、大きく頷いた。
「しょうがないね。分かった、お甲さんに任せときな」
「よろしく頼――」
 言いかけたところで、京伝が門を抜けて来た。両手を鎖で縛られ、ひどい泣きっ面である。
「おまえさん!」
 京伝の姿を見るなり、お咲が駆け寄って行った。京伝の絵の師匠として、北尾も二人に歩みを進める。
「何だよ。泣くんじゃねえや」
 そうは言いつつ、北尾も弟子の顔を見てほっとしたのだろう。珍しく涙声であった。
 重三郎は、北尾とお咲の後ろに進み、京伝に向いて深々と頭を下げた。
「京伝さん、お咲さん。改めておびします。あたしが変なこと頼まなけりゃ、こんな話にはならなかったんだ。本当に、すみませんでした」
 手鎖の五十日間、不自由な暮らしをすることになるだろう。何でも言ってくれ。日々の面倒を見るのでも、金の無心でも構わない。できるだけのことをさせて欲しい。そう言う重三郎に、京伝は軽くはなをすすって返した。
「嫌だな。やめてくださいよ、そういうの」
「いや。でもさ」
 重三郎は顔を上げ、控えめな眼差しを向けた。京伝は泣き腫らした目に笑みを湛え、首を横に振る。
「恨んじゃいませんよ。ずっと旦那に、いい思いをさせてもらってきたんだし。何かしてくれるってえなら、この先も仕事を回してもらえると嬉しいんですがね」
「そりゃ、もちろんだよ」
「あ。でも、もう際どい洒落本は書かないからね。もっと、おとなしいので頼みますよ」
「分かった。うん。あんたの好きなように書いてくださいな」
 京伝が軽く頷き、お咲も笑みを見せた。
 少しばかり和らいだ空気に、北尾が「やれやれ」と肩の力を抜く。そして重三郎の手を取り、京伝の縛られた手を握らせた。
「おめえら、そろって出直しだな。しっかりやれよ」
 皆の面持ちが、また少し和らいだ。

次回に続く〉

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【第六話】  【第七話】  【第八話】

【プロフィール】
吉川 永青(よしかわ・ながはる)
1968年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞、22年『高く翔べ 快商・紀伊國屋文左衛門』で第11回日本歴史時代作家協会賞(作品賞)を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『ぜにざむらい』『乱世を看取った男 山名豊国』『家康が最も恐れた男たち』など。

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