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本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第六話(上)

 「どうも、つたじゅうさん」
 小僧に案内されて来た男が、応接の六畳間に入った。歳の頃は三十路手前、えらの張った四角い顔と切れ長の大きな目に負けん気の強さが見て取れる。
「しばらくだね、豊章とよあきさん」
 男は名を北川きたがわ豊章といい、妖怪画で知られる鳥山とりやま石燕せきえんに師事した絵師である。師の石燕はきた重政しげまさ昵懇じっこんで、その縁から豊章も北尾の家に入り浸り、半ば北尾の弟子とも言える間柄であった。
 じゅうざぶろうの左隣で、おこうが「何だい」と拍子抜けした顔を見せた。
「あんたが勿体もったい付けて『人を招いてある』なんて言うから、誰かと思ったよ。豊章さんなら何遍も会ってんじゃないさ」
「いやまあ、そりゃそうなんだけどね」
 西村にしむらに引き剥がされた若手絵師の中には、豊章も含まれていた。豊章の画才を本物と見込んでいたからこそ、し上がる手掛かりになればと考えて紹介したのだが――。
「で? 豊章さんが、あんたの切り札って訳かい?」
 お甲が問うてくる。差し向かいに座った豊章が「おいおい」と目を丸くした。
女将おかみさん何言ってんだ? 何の話か、俺にゃ全く分からねえんだが」
 重三郎は「まあまあ」と鷹揚に笑みを浮かべた。
「そいつは順を追って話すよ。まず豊章さん、あんた最近じゃあ西村屋で描いてないだろ?」
 豊章の得手は、師の石燕と違って妖怪画ではない。北尾重政と同じ美人画で、西村屋からも二つ三つが売り出された。しかし、以後はさっぱり描かせてもらえずにいる。
 それを持ち出すと、豊章の目にぎらぎらした不満があふれ出した。
「何だよ。話があるってえから来てやったのに、いきなりそれかい」
 にらみ付けられている。だが、それでこそだ。自分の才に自信を持っていなければ、こういう顔はできない。重三郎はにやりと笑い、えて豊章の心をさかでする言葉を返した。
「あんたにとっちゃ、つまらない話だろうね。何しろ西村屋、今じゃ清長きよながさんの絵ばっかりだ」
 清長さん――とり派の絵師・鳥居清長である。豊章と同じく美人画を専らとして、昨今の西村屋はこの絵師を担ぎ上げて盛んに売り出していた。
「で、豊章さんは干されちまってる」
「うるせえや! 何でえ、あんたまで清長、清長って。あんな趣味の悪い美人画の、どこがいいってんだ」
「趣味が悪いって、どこがだい」
 豊章は太い鼻筋から「ふん」と忌々しげに息を抜いた。
「どの女も判で押したみてえに同じ顔だ。おまけに頭が小せえ、体がでけえ! あんな大女がいてたまるかってんだ」
 清長の美人画は頭身が高く、頭が一に対して体が六もある。これを細身に描くと瘦せぎすに映るからだろう、どの絵の女もがっちりした体つきに描かれていた。
 そうした絵を、豊章は「大女」と言って嫌う。これは重三郎も同じ思いであった。だが清長の絵には、確かに今までの美人画を変えてやろうという気概があった。
「豊章さんの言うことも分かるけどね。じゃあ何で清長さんが売れて、あんたが売れないのかって話さ。あの人の方が、あんたよりずっと筆が立つからじゃないのかい」
 もう少し、と敢えて逆撫でを続ける。左脇から、お甲が「あんた」と小声を寄越した。
「いい加減におしよ。わざわざ来てもらって、けなしてどうすんだい」
「女将さんは黙っててくんな」
 豊章はかえって怒った。貶されるのも腹立たしいが、かばわれるのはもっと腹立たしい。そういう顔で目をり上げている。
「旦那、けん売ってんのか? 清長の野郎がうまいから何だってんだ」
 重三郎は「はは」と笑った。
「清長さんが巧いってとこには言い返さないんだね。あんたも分かってんだな、自分が清長さんより下手だって」
 豊章は、ぐっと奥歯をんだ。が、そのまま黙っている男でもない。
「確かに清長は巧い。けど絵の力は俺の方が上だ。誰が何と言おうと」
「そのとおりだよ」
 重三郎はがえんじて、大きく二度うなずいた。お甲も豊章も、足払いでも食らったかのような顔になっている。そこに、またひとつ頷いて続けた。
「あたしは今までの美人画に少しばかり不満があった」
 それは、まさに豊章が言う「女の顔がどれも同じ」というところだった。
 昵懇にしている絵師の中には、北尾重政を始めとする美人画の大家も多い。それらは個々に描き方も違い、筆使いもれい、見事の一語に尽きる。然るに、やはり同じ絵師の描く美人はどれも同じ顔になってしまうのだ。
「清長さんの絵は、今までの美人画を変えに掛かった。なのに『判で押したみたいに同じ顔』ってとこは今までと一緒なんだ」
 江戸で美人と目される顔つきに照らせば、似たような顔に行き着くのは無理からぬ話かも知れない。しかし、だからと言って誰も彼も同じ顔というのは、不自然なことではないのか。
「言っちまえば、清長さんは恐がってんだよ。客に『こんなの美人じゃねえ』って言われたらそこまでだって。でも、たとえばこのお甲、いい女だろ? とうは立っちゃいるけど」
 お甲が「うるさいよ」と苦言を寄越す。豊章はその顔色をうかがいながら「別嬪べっぴんさんだな」と頷いた。傲岸ごうがんそんな男ではあれ、少しはわきまえているらしい。
「で? 女房を自慢してえ訳じゃねえだろ」
「まあね。話を元に戻すけど、たとえばお甲の隣にまた別の美人がいたとしようか。二人とも絵にしろって言われたら、あんたは必ず違う顔に描く人だ。そうだろ?」
「当たり前だろ。違う二人が同じ顔の訳がねえんだからよ」
 重三郎は「そこなんだ」と頷いた。
「清長さんの絵はねえ……好き嫌いは人それぞれだけど、あたしにはどうもね。どの女も同じ顔と同じ体つきじゃあ、こう、心ん中で膨らまないんだよ」
 北尾の家に入り浸っている頃から、豊章の絵には、清長とは全く違う信念のようなものが見えた。そう言うと、豊章は得意げに鼻を鳴らす。
「まあ、俺はできる限り、それぞれの女のいいとこを描きてえからな。ひと口に女って言ったって、背の高いのがいりゃあ低いのもいる。瘦せっぽちがいりゃ、太いのもいるんだ」
 美醜とは、そうした違いで決まるものではない。丸々と太った美女がいれば、ありのままを描いて美しいと思わせるのが絵師だと、豊章は言う。
「もっと言やあ、まずい面でも心根が良けりゃあ光って見えるもんさ。俺ぁそういうのを絵で伝えてえんだ」
 お甲が「へえ」と目を輝かせた。豊章にとっての「美人」とは、女にとってはうれしい考え方らしい。そして重三郎も、この絵師の信念に満足した。
 絵師の画風とは、押しべて「何を描きたい」という思いに裏打ちされている。如何いかに筆が巧かろうと、どれだけ腕を磨こうと、心の中にない絵は描きようがない。江戸で美人と見做みなされる型にとらわれず、個々に違う女の美しさを表そうとする。その奔放さこそ豊章の才なのだ。
「あんたが描きたい絵は、あんたにしか描けない。で、あたしは豊章さんの描きたい絵こそ本物なんだって思う」
 だから西村屋に紹介する気にもなった。この人が売れっ子になる切っ掛けかも知れないと、それを願ったのだ。然るに西村屋は、豊章が秘める本物の力ではなく、一風変わった画風と筆の巧さだけで清長を担いだ。
「西村屋はちには豊章さんの良さが見えてない。って言うより、見ようともしてないね。だってあの人、あたしから見込みのある絵描きを引き剥がせりゃ十分だった訳だから」
 豊章は「待ってくれ」と血相を変えた。
「そんなことのために、俺ぁ干されてるってのか?」
 重三郎は「いやあ?」と苦笑を浮かべた。
「そりゃ違うね。多分、今んとこ清長さんより下手だからだよ」
「おい、ふざけんなよ」
「まあ聞きなって。あたしは思うんだが、絵描きも物書きも、場数を踏まなきゃ力は上がんないもんさ。あんたには、それがまだ足りてない。だから筆が巧くならないんだよ」
「いや。けどよ……西村屋が描かせてくれねえんじゃ、どうしようもねえだろ」
 よほどの売れっ子にならない限り、戯作者はおおむねひとつの版元で書く。絵師もそれと同じであった。西村屋から二つ三つ売り出した手前、いまだ無名の豊章は他で描きづらい。
 そこにいらっているのだろう、向かい合う顔が悔しげにゆがむ。
 と、お甲が「あっはは」と軽やかに笑った。
「豊章さん分かんない? うちで描けって言ってんだよ、この人」
「え?」
 豊章の驚いた目を見て、重三郎は「そのとおりさ」と笑みを浮かべた。
「今日はその話のために来てもらったんだ。実は、狂歌の本を出そうと思ってんだけどね」
 きょとん、とした目が返された。歌と絵に何の関わりがあるのか、という顔である。お甲にしても、そこは同じようであった。
 重三郎は「それじゃあ」と、ひとつの狂歌を口にする。
「秋の田の かりほのいほの 歌がるた とりぞこなつて 雪は降りつつ――。おおなん先生がしょくさんじんの歌名で詠んだやつだよ。これ、どういう意味で、どこが面白いか分かるかい?」
「馬鹿にすんない。てん天皇と光孝こうこう天皇の取り違えだろ?」
 豊章が苦笑を漏らす。お甲も「だよね」と頬を緩めた。
「下の句の出だしが似てるから、取り損なっちまったって話だよ」
 重三郎は大きく頷いた。
「さすがだね」
 先の狂歌は過去の名歌を下敷きにした「本歌取り」の手法で詠まれている。元の歌は百人一首の歌留多にある二首だ。
 
 秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露に濡れつつ  天智天皇
 君がため 春の野にでて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ  光孝天皇
 
 共に下の句が「我が衣手」で始まる。歌留多で「秋の田の」と詠まれ、本当は衣手が露に濡れないといけないのに、札を取り間違えて、衣手に雪が降ってしまった――というのが、この狂歌の味なのである。
「二人はパッと分かった。百人一首を知ってたからだ」
 絵師として、古くからある諸々もろもろに親しんできた。女郎として、数々の教養を仕込まれてきた。そういう二人だから即座にこの歌を解し、面白さが分かったのだ。
「これが一発で分かる町人って、どれだけいると思う?」
「そんなに多くは……ねえ?」
 お甲が首をかしげ、豊章も「だよな」と返す。まさに、と重三郎は軽く膝をたたいた。
「今の江戸じゃあ町人にも狂歌が流行り始めてる。でも今んとこ本当の流行りじゃない。有名な人らが狂歌で遊んでるからって、流れに乗っかってるだけなんだよ」
 狂歌の面白さを本当に解しなければ、町人が狂歌に傾ける熱は早々に冷めてしまうだろう。一時だけの徒花あだばなになるのは目に見えている。
「そこで考えた。狂歌の本に絵を入れたらどうだろう、って」
 その歌の何が面白いのか、どこに味わいがあるのかを絵で示す。さすれば、訳も分からぬまま流行りに乗っている人が、本当の面白さを知っていくことになる。そして――。
「江戸中が本当に狂歌を楽しめる。本物の流行りを作れるんじゃないかな」
 一時の流行りで終わらせず、芸事としての大きな流れを作り出したい。自らの思うところを語り、重三郎は改めて豊章に目を向けた。
「あたしの考える狂歌の絵双紙で、挿絵を描いちゃくれないか。たった一枚の絵で、一発で分かるように。それで場数を踏んで、腕を磨いて欲しい。人に何かを伝える。何かを分からせる。あたしの思いと、あんたの絵には通じるところがないかい?」
 豊章は固唾を呑み、軽く身震いして問うた。
「腕を磨いて、その先は?」
「十分に巧くなったら、その時こそ美人画さ。清長さんに勝ちたいんだろ?」
「そりゃあな。けど、さっきも言ったとおり、俺ぁもう西村屋から売り出しちまってる」
 商売敵として角突き合わせる重三郎と組めば、不義理に当たる。それでは北川豊章の絵は嫌われ、買ってくれる人がいなくなるのではないか――その懸念に答えようとすると、先んじてお甲が口を開き、こともなげに言った。
「そんなの簡単だろ。今の名を捨てりゃあいいんだ」
 重三郎は「お」と目を見開いた。やはり頼もしい女だ。
「分かってるね。そう、別の名前で『謎の新人絵師』ってことにすりゃあ済む」
「は? おい」
 あっに取られる豊章に対して、お甲はさらに興が乗ってきたようであった。
「ねえ豊章さん。うちの人の本当の名前、がわ柯理からまるってんだよ。喜びの多い川って書くんだけどね。同じ読み方なんだし、その字に変えたら? 下の名前は、そうだね……歌の絵双紙から始めるんだから、歌麿うたまろでどうだい」
 重三郎も「そりゃあいい」と大きく頷き、豊章に真剣な目を向けた。
「あんたと組みたいってのは、狂歌云々うんぬんだけで言うんじゃないんだよ。あんたを大化けさせて、西村屋の鼻を明かしてやるためさ。どうだい。一緒に勝負しないか?」
 はらの内を全て話した。
 向かい合う豊章の目には、少しばかりの戸惑いがあった。
 しかし。次第にそれは払われ、確かな熱へと変わってゆく――。
「……どの道、今のままじゃ消えてくだけだな。面白え、あんたの勝負に乗ってやるよ。今日から俺は喜多川歌麿だ」
 やってやる。勝負だ。二人の男が肚の据わった笑みを交わした。

次回に続く〉

【第一話】  【第二話】  【第三話】  【第四話】  【第五話】

【プロフィール】
吉川 永青(よしかわ・ながはる)
1968年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞、22年『高く翔べ 快商・紀伊國屋文左衛門』で第11回日本歴史時代作家協会賞(作品賞)を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『ぜにざむらい』『乱世を看取った男 山名豊国』『家康が最も恐れた男たち』など。

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