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本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第八話(上)

 町衆は、細々とでも食いつなげればそれで良かった。少しで良いから助けてくれと、国を動かす人たちに懇願した。
 しかし。これを退けられ、ついに打ちこわしに走ってしまった。
 こんな騒ぎが起きた後で、どうやって商売を続ければ良いのだろう。そもそも商売をしていられるのだろうか。
 幕府がどうするか次第で成り行きは変わる。何とか、それを知り得ないものか。
 考え抜いた末に、じゅうざぶろう朋誠堂ほうせいどうさんを訪ねた。喜三二の実の名は平沢ひらさわ常富つねとみ、秋田藩江戸屋敷の留守居役である。他藩や幕府との折衝を担う人なら、何か知っているのではないか。そういう、わらにもすがる思いだった。
「もし。手前、とおりあぶらちょうの版元・耕書堂こうしょどうつた重三郎と申します。お留守居役の平沢様にお会いしたく思いまして、足を運んで参りましたのですが」
 日本橋からやや北、したかちまちの秋田藩邸を訪ね、門衛に声をかける。打ち毀しのような騒動のすぐ後ゆえ、断られるのではないかとも思った。が、門衛の物腰は思いの外に柔らかなものであった。
「ほう、其方そのほうがあの蔦重か。あい分かった、少し待て」
 あっさりと聞きれられた。秋田藩の人々は喜三二の戯作を快く受け取っているのだろうか。あるいは、蔦屋重三郎の名が知れ渡っていることの恩恵かも知れない。
 待つうちに案内の侍が来て、屋敷の南端へと導かれた。
 門を抜けて左手に進む。行った先には南門が備えてあり、門の近くに二階屋の長屋があった。江戸詰めの者が住まう武家長屋だが、ここは特に家老長屋というらしい。
 喜三二はその家老長屋一階、一番奥の一室にあった。
「平沢様。連れて参りました」
 引き戸の向こうから「ああ」と声が返り、案内の侍がこちらを向いて軽くうなずく。重三郎は少しかしこまって戸を開け、中に入った。
「こんにちは。失礼いたします」
「よう重さん。ここに訪ねて来るのは初めてだな」
 言葉はいつもどおりだが、何かおかしい。こちらの顔を見るにも背を丸めたままで、声音にはぶっきらぼうな響きがあった。
「あの、もしかして……。お訪ねしたの、ご迷惑でした?」
「そんなことはない。むしろ好都合だ。頼みたいことがあったからな」
 少しばかり驚いた。江戸中が騒然としている折、喜三二から頼みごととは。
「そりゃ、どんなことです?」
「追って話す。まずは座ってくれ」
 促されて座布団に腰を下ろす。その間も、喜三二のまとう空気は重苦しい。どうしたのかと思いながら、丁寧に頭を下げた。
「ともあれ、お忙しいところすみません」
「構わんよ。で、いつもは外で会っておったのに、今日に限って訪ねて来たのは訳があるんだよな。わしの頼みの前に、まずはそっちを聞こうと思うが」
「そうですか? じゃあ」
 重三郎は言葉を選びながら問うた。二日前に起きた打ち毀しに、幕府は如何に手を打つつもりなのか。何か知っていることがあれば教えて欲しい、と。
「あんな騒動があっちゃあ……。色々と知っておかないと、もう何をどうしていいのか分かんないんですよ」
「そういう話か。なら、知っていることはあるぞ」
 応じて、喜三二は深く溜息ためいきをつく。何とも腹立たしげな息遣いであった。
「ねえ先生、その……怒っていらっしゃいますよね? どうなすったんです」
「確かに怒っておるよ。重さんが知りたい話と関わりのあることでな」
「あ……そうなんですか。なら、お聞きするのしましょうか?」
「いや。わしの頼みも、そこに関わることなんだ」
 順を追って話そう。喜三二はそう言って、まずは幕府の対処について教えてくれた。
「御公儀は、蔵を開いて町衆に米を配る。今日決まったことだ」
 明日の朝一番で町の辻々に高札こうさつが出され、三日後、五月二十五日から米を配るのだという。ひとりあたり一升、少しずつ大事に食えば十日から半月くらいは凌げる分量である。
「その上で、米問屋にも安く売れと命じるそうだ」
「なるほど。施しをすりゃあ、しばらくは米を買う人がいなくなって、放っといても値は下がるって寸法ですか。そこへ問屋が安く売るって話が重なったら」
「さらに、あと少し値下がりするだろう。安売りのお達しは今年の刈り入れが済むくらいまで続けるらしいから、七月の新刊の頃には重さんも落ち着いて商売ができるんじゃないかな」
「そうですか。そりゃ良かった」
 ここ二ヵ月の値上がりはひどいものだった。米の値が抑え込まれるなら、町衆も狼藉ろうぜきに走ることはなくなるだろう。一面で安堵した。
 しかし、飽くまで「一面で」である。一方では、不満も覚えずにはいられなかった。
「ただ、何てえのかなあ……。その施し、もっと早くにできなかったんですかね」
 打ち毀しが起きる前、庶民は町奉行所に詰め掛けて「どうにかしてくれ」と陳情した。あの時に同じ手を打っていたら、こんな騒動は起きなかったのではないか。
「どうにも、お上のやることは後手に回ってる気がしますよ」
「そうだろう? 重さんの言うとおりだ」
 喜三二が身を乗り出してくる。らい付くような勢いに押され、軽くけ反った。
「ええと……先生が怒ってらっしゃるの、そこなんですか?」
「まさに、そうだ」
 憤懣ふんまんやる方ない気配を隠しもせず、喜三二は荒く鼻息を抜いた。
「蔵を開くって話な。実は、ひと月も前に秋田公から具申しておったのだ」
 それを幕府に伝えたのは、他ならぬ喜三二であったらしい。留守居役の役目も大変だなと思いつつ、重三郎は「あれ?」と首をかしげた。
「秋田のお殿様って、二年ばかり前に代替わりされたんですよね? ずいぶんお若いって、前に先生から聞いてましたけど」
「若いぞ。今の殿、たけよしまさ様は十三歳だ」
「十三歳……そんな歳のお殿様が、蔵を開けって? お上に?」
「そう。御公儀の蔵に余裕があるうちに施しをした方がいい、ってな」
 ひとつ不平をなだめてやれば、人は次に来る二つの不平を抑え込める――それが佐竹義和の言い分だったという。重三郎は感嘆の息を漏らした。
「こりゃあ驚いた。すごいお殿様じゃないですか」
 喜三二は「はは」と軽く笑った。もっとも、頬に浮かぶのは苦い笑みである。
「聡明なお方だよ。だが、それだけでもなくてな」
 秋田は寒い地で、思うように米が育たない年も多い。そのせいで、秋田藩は長らく苦労してきたのだという。
「先代、先々代のご苦労を踏まえて、きんの時にはどうしたらいいか、殿はずっと学んできたんだ。こんな小さい頃からだぞ」
 宙に浮いた喜三二の右手は、六つ七つの稚児の背丈であった。
「施しの具申も、秋田のてつを踏まんで欲しかったからだ」
「でも、お上はお聞き容れにならなかった訳ですね」
「ああ。白河しらかわ様がな。秋田は何度も失敗してきただろう、差し出口は慎め……ってさ」
 白河様――老中首座・まつだいらさだのぶである。重三郎は「ええ?」と眉をひそめた。
「しくじった藩だからこそ、分かるんじゃないですか」
「わしもそう申し上げた。が……米の高値は、実は御公儀には都合がいい。武士は俸禄米ほうろくまいを金に換えるから、その方が懐は温かくなる。だから腰が重かったんだろうな」
 そういう考え方のところへ、幾度も失敗した藩の、しかも十三歳の当主が何を言おうと効き目はなかった。これだけなら、喜三二も「致し方ない話」と呑み込むつもりだった。
「だが、どうしても呑み込めんことがあった」
 今朝、諸藩の留守居役が江戸城に召し出されたのだという。蔵を開いて米を配ることを、各々の藩に通達するためだった。
「わしもお城に上がった。そういう話だから、白河様とも顔を合わせた」
 次第に、喜三二の内にあった怒りの炎が勢いを増してきた。
「蔵を開くという話になったなら、殿の具申の方が正しかったってことになる。だろう?」
「ですよね。白河様は間違ってた訳だ」
「ああ。だが、わしは黙って頭を下げたよ。遅まきながら具申が容れられた格好だから、それで構わんと思うことにしたんだ。なのに」
 語る声音が、極限の悔しさをはらんだ。
「なのに白河様は、わしの顔を見て仰せられた。いい気になるなと! ほざきおった!」
 血を吐くような言葉が胸に刺さる。重三郎も悔しくなって、ぎり、と奥歯をんだ。
 長い付き合いだから分かる。戯作者・喜三二は、町衆とも分け隔てなく触れ合ってきた人だ。皆が飢饉で苦しむ姿にも、胸を痛め続けていたに違いない。自身の主君の方が正しかったからと言って、得意になるような男ではない。
「そんなことが……。酷い侮辱じゃありませんか」
「わしへのはずかしめならこらえもしよう。だが、これは殿への侮辱なんだよ」
 喜三二は涙声で応じ、そして畳の上に勢い良く両手を突いた。
「ここからが、わしの頼みだ。重さん、一緒に勝負してくれんか」
「え? 勝負って、何をです? あ、いえ、その前にね、まずお手を上げてくださいな」
 慌てて言うも、しかし喜三二は「このままでいい」とまなじりり上げた。
「白河様がそんなお心なら、世の中は良くならんよ。わしはそう思う。それに、ああまで殿を侮辱されては収まりが付かん。せめて、わしの筆で御公儀のやり様をわらってやりたい」
 風刺。幕府の失政を遠回しに責め、嘲笑あざわらう。そういう物語を書いて世に問いたい。それが喜三二の言う「勝負」であった。
 重三郎は、ごくりと固唾を呑んだ。
「いや先生……いいんですか? あなたは朋誠堂喜三二である前に、秋田藩のお留守居役じゃないですか」
 その立場で幕府を批判するなど、許されることだろうか。これをもって戯作の道を断たれるかも知れない。下手をすれば――。
「お腹を召せって、ご下命を頂戴するかも知れないのに」
「これで切腹するなら本望だ。ただ、他の版元じゃあ、こんな話は尻込みするに決まっている。だから重さんに頼むんだ。わしと一緒に、危ない橋を渡ってくれんか」
 初めて会った時から、重三郎を気持ちのいい男と思って懇意にしてきた。そういう相手にしか頼めない話だ。喜三二はそう言って平伏した。
「このとおりだ。男と見込んで頼む」
 戯作者である前に武士、それも秋田藩の重職。その人が、恥も外聞もなく懇願している。真剣な姿を目に、重三郎は長く、長く溜息をつく。
 そして、小さく笑みを浮かべた。
「どうだろう、まあ」
「……駄目なのか。聞き容れてはくれんと」
 上げられた喜三二の顔に、ゆっくりと首を横に振って返した。
「どうだろう、まあ。道陀楼麻阿。先生が、あたしのためにしゃぼんを書いてくださった時の名前ですよ。ねえ先生、思い出してくださいな」
 勝負しなけりゃ楽しくない。そう言って、蔦屋重三郎は本の商売を始めた。
 しかる後に、うろこがたとの繋がりを得た。
 吉原よしわらの宣伝用に遊女評判記を作った。
 自前で吉原細見さいけんを作るようになった。
「評判記の時は、ああでもない、こうでもないって話しましたよね。北尾先生と三人で。楽しかったなあ」
 ほんとい株を買い取るに当たっては、喜三二の洒落本でまるを納得させた。
 株を買い取った後は、喜三二の黄表紙でし上がった。
 本当の意味で狂歌を流行らせようと、狂歌絵双紙を売り出した。それらの本には喜三二の歌も載っている。
「そういうね、ひとつひとつが、あたしにとっては勝負だった訳です。喜三二先生は、ほとんど全てに力を貸してくださったでしょう」
 重三郎は、畳の上にある喜三二の両手を取った。
「そのお人に『男と見込んで』って言われたんだ。断るなんて、情けないができるもんですか。お上を相手の大勝負、面白いじゃないですか。やってやりましょう」
 少しばかり、無言の時が流れた。互いの間に何かが通い合う。それを確かめるように、喜三二が控えめに問うた。
「今さらだが……いいのか? 重さんもとがめを受けるかも知れんのだぞ」
「承知の上ですよ。それにね、鱗形屋だって大丈夫だったでしょ?」
 かつて鱗形屋の先代は、二度にわたって奉行所の裁きを受けた。一度目は盗版、二度目は盗みの片棒を担いだとされてのことである。
「二度目のは色々とアレでしたけど、一度目の盗版は明らかに法度に触れてたんです。でも、その時だって罰金だけでした。今の法度にゃ『風刺本を出すな』って決めごとはない訳だし、だったら鱗形屋以上のことにはなりませんよ」
「恩に着る。恩に着るぞ」
 喜三二の目から涙が落ちる。重三郎は照れ臭い笑みで応じた。
「よしてくださいよ。そりゃ逆です」
 自分が今までの恩を返す番なのだ。そう言うと、喜三二が声を詰まらせながら「うん、うん」と頷く。
 重三郎は「さて!」と背筋を伸ばした。
「今からじゃ七月の新刊には間に合いませんし、来年の一月に出しましょうか。飛びっきりの、お願いしますよ」
「おう。もちろんだ」
 泣き顔に笑みを浮かべ、強く頷いている。胸中のたかぶりが確かに伝わってきた。

次回に続く〉

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【第六話】  【第七話】

【プロフィール】
吉川 永青(よしかわ・ながはる)
1968年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞、22年『高く翔べ 快商・紀伊國屋文左衛門』で第11回日本歴史時代作家協会賞(作品賞)を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『ぜにざむらい』『乱世を看取った男 山名豊国』『家康が最も恐れた男たち』など。

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