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新 戦国太平記 信玄 第七章 新波到来(しんぱとうらい)8 (下)/海道龍一朗

 箕輪城の本丸は御前曲輪とともに最も北側にあり、東側に高い土手を築き、敵からは城内が見えないようにしてある。
 この土手は御前曲輪の東側まで続いており、本丸と御前曲輪を隔てる空堀が東側から西側へと深く切り込まれている。
 御前曲輪と本丸は一体のように見えながら、ここでも一城別郭の仕組みが採用されていた。
 この時、城方の総大将、長野業盛は老さいふじ友忠ともただとともに御前曲輪の未申櫓ひつじさるのやぐらに入っていた。
 未申の方角、つまり西南の角に総物見のための櫓が置かれ、その下が石垣で固められている。その隣には、守り本尊を安置した持仏堂があった。
 ここは文字通り、箕輪城の最後の砦である。
「業盛様、兵の半分をここに残し、それがしは本丸へ行き、武田の兵を止めるべく応戦したいと存じまする。どうか、御武運を」
 藤井友忠がまなじりを決して言い放った。
 この家宰は先代の長野業正の代から仕える気骨の老将である。
「藤井、余も最後まで戦うつもりだ。決して武田の下には降らぬ!」
 長野業盛も厳しい面持ちで答える。
「では、最後の盃を」
 藤井友忠が盃を渡し、二人は一気にそれを吞み干し、今生の別れとした。
 ――長野家、箕輪衆の意地にかけて、降伏だけはすまい。
 長野業盛はこの年で齢二十三になっていた。
 そして、諏訪勝頼は齢二十一の身空である。
 くしくも二歳違いの若き総大将によって、この戦が行われていた。
 勝頼は本陣から出て、父のいる後詰の陣へ向かう。
 信玄はあえて息子から離れ、黙って戦いの行方を見守っていたのである。それが総大将を任せた己の責任だと思っていた。
「父上、ご相談がありまする」
「何であるか?」
「いよいよ残す敵が本丸と奥の御前曲輪だけになりましたので、それがしも城内へ打って出とうござりまする。城攻めの何たるかを身をもって知りたいと考えておりまする」
 それは気負いではなく、本心だった。
 初陣の武蔵むさし松山まつやま城攻めの時は、本陣から出ることなく戦が終わり、実際の城攻めを検分することができなかった。
 その時から機会があれば、己自身も城攻めに加わりたいと思っていたのである。
 しかし、総大将が本陣から動くことにたいしては、父から釘を刺されるかもしれないとも考えていた。
「さようか……」
 信玄は揺るぎない決意を秘めた勝頼の顔を見つめる。
「……そなたのやりたいようにするがよい。余は黙って決められたことに従う」
「有り難き仕合わせにござりまする!」
 勝頼は意外な父の返答に眼を輝かせる。
「ただし、そなたの軍師として、ひとつだけ言わせてもらおう。戦というものは、囲碁に似ているとよくいわれる。そなたは碁も打つが、確か将棋も好きであったな」
「はい。保科とよく指しておりまする」
「さようか。戦の大局を読むのは、確かに囲碁に似ている。されど、城攻めの戦いというのは、どちらかというと将棋の終盤に似ているのだ。いわば、詰め将棋だ。相手が詰むまでの手筋を完璧に読み切らねばならぬ。一手でも失着があれば、勝ちに至らぬどころか、逆転されることさえあり得る。わかるか?」
「詰め将棋といわれれば、その通りかと存じまする」
「総大将は、いわば己の玉。それを取られれば終わりだ。この言葉を肝に銘じ、城内へ入るがよい」
 信玄は詰め将棋に喩えて「一手の油断もないように」と、息子を戒めていた。
 圧倒的に有利な戦でも、何かしらの奇禍で総大将が討たれることもある。
 不測の事態を招いてしまえば、その刹那、優勢な戦も水泡に帰すことになってしまう。
「よくわかりました。一瞬たりとも気を抜きませぬ。では、行ってまいりまする」
 勝頼は頭を下げてから、後詰の陣を後にした。
 それから本陣に戻り、本丸攻めの下知を発する。
 使番たちは一斉に各持場の大将のところへ走り、それを伝えた。
 勝頼自らも旗本衆に命じて本丸攻めに乗り出す。
 総大将の出陣となり、本陣は慌ただしく動き出した。
 旗本侍大将を任されているどう昌祐まさすけと工藤祐長すけながの兄弟が、勝頼の護衛役として旗本衆を率いた。その一隊に陣馬奉行の原昌胤も加わる。
 下知を受けた先陣もすぐに動き始めた。
 二の丸を制していた馬場信房は北側にある本丸へ向かう。
「飛道具での待ち伏せがあるやもしれぬゆえ、注意して進め! 入口の扉は固く封じてあるはずだから、確認したならばしょうかくを用意いたせ!」
 衝角とは、城門などを突き破るために、先を鋭角に削った丸太棒のことであり、じょうついとも呼ばれる。
 もう一隊の先陣、山県昌景の赤備衆は、三の丸から北側にある鍛冶曲輪と蔵屋敷を細かく捜索していた。
 それが終わったところで、西側から本丸に攻め寄せる手筈だった。
 この時、本丸の内部では、藤井友忠が七百余の城兵を指揮して入口の扉に板木を打ちつけ、固く封じていた。
 どこか一カ所でも破られたならば、その入口に兵を集中し、敵を阻もうという策である。
 ――時を稼ぐためだけの戦いになるやもしれぬが、それでも致し方なし。本丸を楯として、業盛様をお守りいたす。その最中、どこかで一瞬の好機が訪れるやもしれぬ。
 藤井友忠はいちの望みだけで戦うつもりだった。
 その間にも、馬場信房の黒備衆は本丸に辿たどり着く。東側の城戸口に狙いを定め、多数の衝角を運び込んだ。
「扉が破れるまで、きまくるのだ! ここを一番で突破すれば、褒美が貰えるぞ!」
 馬場信房が足軽衆を鼓舞する。
 辺りに、衝角で分厚い扉を叩く音が響き始めた。
 それを耳にした山県昌景は赤備衆を率いて蔵屋敷から本丸へ向かう。西側の城戸口を見つけ、そこを衝角で攻め始めた。
 両先陣がこぞって本丸に突破口を開こうとしている時、旗本衆を率いる諏訪勝頼は搦手口を抜け、二の丸へ登っていた。
 そこで黒備衆の使番に状況を訊く。
「先陣の動きはどうなっているか?」
「ただいま、われら黒備衆が東の城戸口を破らんと奮闘しておりまする」
「衝角か?」
「はい。さようにござりまする。赤備衆も西の城戸口に取り付いたようで、両先陣が間もなく入口を破ると存じまする」
「さようか。ならば、われらは黒備の後方で突破口が開くのを待つ」
「承知いたしました! 本丸までご案内いたしまする」
 黒備衆の使番が、総大将と旗本衆を先導する。
 馬場信房は衝角で扉を叩く足軽隊の動きを見つめていた。
 そこへ諏訪勝頼がやって来る。
「民部、城攻めの検分に来た」
「御大将、ご苦労様にござりまする。敵も相当に固く扉を封じたようで、少し手こずっておりますが、いつまでも保つものではありませぬ。衝角はいくらでもあり、足軽衆は交替でかかりますればよいゆえ」
「さようか」
 そう答えながら、勝頼は城戸口周辺をくまなく見渡した。
「間もなく、開くと存じまする」
 馬場信房が自信に満ちた口調で言う。
 そこへ足軽大将のいま信俊のぶとしが駆け寄り、報告する。
「民部殿、扉がきしみ始め、隙間ができておりまする。そろそろ打ち破れるかと」
「さようか。ならば、後方に槍隊を配置するゆえ、あと一撃というところで一息入れ、われらに知らせてくれ。敵は扉の奥で待ち構えている。やりぶすまで対応せねばならぬ。入り際が一番危ないからな」
「承知いたしました」
 今井信俊が城戸口へ戻っていく。
 信房は使番を呼ぶ。
信昌のぶまさ、西の城戸口へ行き、三郎兵衛に『こちらは間もなく開く』と伝えよ!」
「はっ!」
 鹿じか信昌は弾かれたように走り去る。
「御大将、それでは城戸口へまいりましょう。槍隊の後ろで扉を打ち破る様をご検分くださりませ」
 馬場信房が余裕の笑顔で言う。
「ああ、わかった」
 勝頼は旗本衆と一緒に城戸口へ向かった。
 すでに扉は大きくたわみ、中の板木が折れんとしている。
 そこで今井信俊が衝角を止め、馬場信房を待つ。
「どう見ても、あと一撃だな」
 黒備の先陣大将が薄く笑う。
「よし! 槍隊は方陣を組み、敵に備えよ! 信俊、衝角を四、五本並べ、一気に打ち破れ!」
「承知!」
 今井信俊は四つの足軽隊を扉の前に並ばせる。
「よし、衝け!」
 その言葉を合図に、四本の衝角が同時にぶち当てられた。
 木が裂ける音が響き、扉が左右に吹き飛ぶ。
 足軽隊は急いで扉から離れ、方陣を組んだ槍隊が前に進む。
 その様子を、諏訪勝頼は息を詰めて凝視していた。
「行け! 槍衾で押せ!」
 馬場信房が間髪れずに叫ぶ。
 ついに槍隊が本丸へ入る。
 そこからは待ち受けていた敵の城兵と乱戦になる。
「御大将、がゆいとは存じますが、中の敵兵を掃討するまでお待ちくださりませ。さほど、時は要しませぬ」
「わかった、民部。そなたに任せる」
 勝頼は真剣な面持ちで頷いた。
 扉の奥では怒声が飛び交い、断末魔の叫びも聞こえてくる。
 黒備衆の槍隊は敵の応戦をものともせず、次々に本丸の中へ入っていく。
 内部では待ち構えていた七百余の長野勢が必死で戦っていたが、兵数がまったく違う黒備衆に奥へと押し込まれた。
 圧倒的な不利を悟った藤井友忠は、本丸御座処の押入れに身を隠し、隙ができるのを待つ。
 その頃、西の城戸口を破った赤備衆が本丸になだれ込む。
 しかし、ほとんどの敵は黒備衆が討ち取り、大きな戦闘は必要なかった。
 ――さすがは民部殿、ここでは先頭を譲ってくださらぬか……。
 山県昌景は苦笑しながら口唇を噛む。
「降伏を申し出る者は殺すな! 縄を掛けるだけでよいぞ!」
 赤備衆にそう命じた。
 半刻(一時間)も経たない間に、本丸の掃討は終わろうとしていた。
 長野勢の三分の二は討ち取られ、残りの三分の一は降伏を申し出て縄目を受けた。
 それを確認した馬場信房が、総大将を本丸の中へ誘う。
 勝頼はそこで敵の惨状を目の当たりにする。
 ――野戦のように逃げ場がないため、城方が全滅することもあり得る。城攻めでは、かくも悲惨なことが起こるということを肝に銘じねばならぬ。
 転がったむくろを見ながら、険しい表情になった。
「どうやら、敵の総大将は本丸におらぬようにござりまする」
 馬場信房が総大将に伝える。
「では、御前曲輪に籠もっているということか」
「おそらく、そういうことかと。本丸を楯にし、総大将に少しでも時を与えようとしたのでありましょう」
「なるほど。長野業盛は降伏せぬのだろうか?」
「それがしの経験からお答えいたしますれば、かような城攻めになった時は敵方の降伏を期待できませぬ。敵が降伏を考えるならば、城を大軍に囲まれた時点か、一気に虎口を破られた時にござりまする。この兵差で敵の城兵が命を投げ出して戦っているということは、総大将にもその覚悟があると見るべきかと」
「よくわかった、民部」
 勝頼は敵の総大将、長野業盛がいるはずだった御座処へ入っていく。
 押入れの隙間から様子を窺っていた藤井友忠が、その美装の若武者を見つけた。
 ――胴に金泥きんでいの割りびし! 武田信玄の縁者か!?……いや、おそらくせがれの一人であろう!
 そう思った刹那だった。
 もちろん、相手が武田の総大将、諏訪勝頼だとは知る由もなかったが、直感で若き大将だと悟った藤井友忠は、槍を手に襖を蹴倒す。
 そのまま無言で美装の若武者に向かって駆け寄ろうとする。
「何者だ!」
 異変に気づいた工藤昌祐と工藤祐長の兄弟が槍を構えて立ち塞がる。
 同時に、勝頼も腰の佩刀はいとうを抜き、ただならぬ気配の相手を睨む。
 鬼相の老将がそこに迫る。
 工藤兄弟が前に躍り出て、相手の胴に槍を突き入れた。
「ぐっ!」
 うめき声を発しながらも、藤井友忠は右手の槍を渾身の力で、美装の若武者に投げつける。
 飛んでくる槍穂を、勝頼はかろうじて愛刀で弾く。
慮外者りょがいものめが!」
 馬場信房が藤井友忠の喉笛に槍を突き入れる。
 その一撃で、気骨の老将は絶命していた。
 長野家家宰、藤井友忠の最期だった。
「御大将、御怪我は!?」
 信房が槍を放して駆け寄る。
「……大丈夫だ」
 勝頼が愛刀と弾き飛ばした槍を見比べた。
 ――父上の申された通りだ……。一瞬でも気を抜いていたならば、危なかった……。
 正直なところ、肝を冷やしていた。
「申し訳ござりませぬ、御大将! まだ、かような者が潜んでいたとは……。もう一度、中をくまなく調べよ!」
 馬場信房は黒備衆に命じた。
 慌ただしく兵が動き始めた御座処に、山県昌景も現れる。
「民部殿、やはり敵の総大将はおりませぬか?」
「御前曲輪だ」
「では、城戸破りは、われらに譲ってくださりませ。赤備衆にお任せを」
「三郎兵衛、御大将の御前だぞ」
「あ、総大将、検分ご苦労様にござりまする」
 山県昌景が一礼する。
「公平に、両先陣相攻めとしようではないか」
 諏訪勝頼が答える。
「……わかりました」
 山県昌景が頭を掻きながら苦笑した。
 こうして御前曲輪への総攻撃が決まる。
 払暁の城攻め開始から二刻(四時間)も経っていなかった。
 黒備衆と赤備衆の衝角が揃い、城戸への攻撃が始まる。
 明るく晴れ渡った空に、破城槌を打ちつける音が響き渡った。
 この不吉な音を聞き、 御前曲輪の中にいた長野業盛は老家宰の討死を悟る。
 そして、己の命がどうなろうとも武田方と一戦を交え、忠臣たちの死に一矢を報いようと決意する。
 びゃくだんおどしよろいいろの陣羽織を羽織った業盛は、最後に残った手勢八百を率い、武田勢の侵入に備えていた。
 そして、ついに城戸が破られる。
「行けい!」
 先に飛び込んだ一隊は、山県昌景の赤備衆だった。
 そこから凄絶な戦いが始まる。
 残っていた長野勢八百も奮戦するが、赤備衆と黒備衆の屈強なよせに次々と討ち取られ、あっという間に追い込まれた。
 それを見た長野業盛の側近、しも正勝まさかつが総大将に進言する。
「御大将、すぐに持仏堂へ!」
 暗に自害を勧める叫びだった。
 武田勢に槍はつけさせたくないという一念である。
大膳だいぜん……」
「われらが時を稼ぎますゆえ、早く!……お願いいたしまする!」
「すまぬ、大膳」
「後はお任せを!」
 下田正勝は数名の護衛をつけ、総大将を送り出す。 
 その者とともに、長野業盛は持仏堂に入る。
 形勢は、すでに見えていた。
 業盛は観念し、鎧姿のままたての筆を取る。
 それから、供回りの者に別れを告げ、護衛の者たちに降伏するように伝えた。
 迷いを振り切り、最後の一句を読んだ後、持仏堂でじんする。
 長野業盛は上杉輝虎てるとらに助けを求めていたが、えちからの援軍は間に合うはずもなかった。
 坂東最高の堅城とうたわれた箕輪城は落ち、ここに上野の雄、長野一統が滅亡した。
 永禄九年(一五六六)九月二十五日、午前のことである。
 高く澄んだ蒼天に、いつまでも武田勢の勝鬨が響き渡っていた。
 上杉輝虎の動きを警戒し、箕輪城には真田幸隆をはじめとする数名の将と五千の兵が残ることになった。
 総大将として貴重な勝利を得た諏訪勝頼は、意気揚々と甲斐の府中へと凱旋がいせんする。
 その翌日のことだった。
 信玄が勝頼を訪ね、遠駆けに誘う。
「気分がよいゆえ、馬でひと駆けしよう。ついてまいれ、勝頼」
 二人は愛駒にまたがり、くつわを並べて躑躅ヶ崎館を出た。
 信玄は馬首を北へ向け、要害山ようがいやま城へ向かう。
 山の頂へと続く急な勾配を駆け上がっていると、乾いた大気の中に冷たさを感じる。間もなく、きたきたおろしが吹く季節が訪れようとしていた。
 要害山城に着くと、二人は愛駒をつないでから櫓へ登る。
「ここへ来るのは、初めてであったな、勝頼」
「はい」
「この城は館の詰城だが、余はここで生まれたのだ」
「まことにござりまするか!?」
「ああ。その時、余の父が今川いまがわ家に攻められ、府中の周辺で戦っていたからだ」
「お爺様が……」
「そして、身重の母上は大事をとってこの詰城に入っていた。その護衛役だったのが、板垣いたがき信方のぶかたであり、後に余の傅役となった。いわば、そなたにとっての保科だ。戦の最中に母上が産気づき、板垣が慌ててお産の支度に奔走したそうだ」
 信玄は愉快そうに笑う。
 ――父上はさように大切な場所へ、この身を導いてくださった。
 勝頼は城下を眺める父の横顔を見つめる。
 ――城攻めを凌いだご褒美であろうか?……それとも、何か大事なお話があるのか?
「ここへ登ると身が引き締まる。何かある度に、要害山に登ったからな。初陣の後も来た」
 信玄がしみじみと呟く。
 勝頼は眼下に広がる景色を瞳に焼き付けた。
「さて、次へ行くぞ。まことの楽しみはこれからだ」
 息子を伴って櫓を下りた。
 それから、二人は再び愛駒に跨がり、せきすいまで下りて門前に駒を繋ぐ。
 信玄は寺の門内に入り、両手におけを摑み、戻ってくる。
「湧湯へ入るぞ」
「わきゆ?……これから、すぐにござりまするか?」
「さようだ」
 信玄が息子を四町(約四百三十㍍)ほど離れた湧湯へ誘う。
 濛々もうもうと白い湯気が上がる天然の温泉が見えた。
 信玄は懐から白布を取り出し、さっさとおうを脱ぎ、犢鼻褌たふさぎまで外す。
「ここの湯は、特別に熱い。まずはこうしてからだを冷やさねばならぬ」
 両手を天に突き上げ、大きく伸びをする。
「それから打湯だ。そなたも衣を脱げ」
「……あ、はい」
 勝頼は言われた通りに裸になる。
 二人は冷たい大気の中に肌が粟立つまで全身を浸した。
「よし、湯を打つぞ」
 信玄は寺から持ってきた桶で湯を汲み、何度も軆に浴びせかける。
 それを見た勝頼も父の真似をした。
 辺りが白い湯気で包まれる。
 そして、熱さに慣れた頃、信玄は両足を湯に入れた。
「最初の熱さは、ひたすら我慢あるのみだ」
 それを見た勝頼は、同じ要領で足を入れる。
「あっ!……熱い」
「ははっ、我慢、我慢」
 たっぷりと時をかけてから、二人は首まで湯に浸かった。
「先ほどの話の続きだが、板垣はここの湯を汲み、余の産湯にしたそうだ。それゆえ、戦が終わると、己への褒美として、湧湯に浸かりに来るようになった」
「まことにござりまするか!?」
「ああ、まことだ。されど、こたびはそなたへの褒美だ。よくぞ、箕輪城を落とした」
「有り難うござりまする。されど、ほとんどは優秀な家臣たちの働きにござりまする」
「謙遜するな。そなたの采配があってこその士気だ」
 信玄が言ったように、今回の戦は相当に士気が上がっていた。
 若い総大将に花を持たせようと、家臣たちの意気が高まっていたからである。
 諫諍騒動の動揺を収めるためにも、信玄は難しい城攻めの戦をあえて選んでいた。
 その効果は充分にあった。
「ところで、勝頼。己の眼で実際に検分した城攻めはいかがであったか?」
「……味方の奮戦ぶりにくらべ、城内の敵は悲惨な有様にござりました。あのような負け戦を決して選んではならぬと己を戒めました」
「で、あるか」
 信玄は満足そうに頷く。
「そうした思いをじっくりと確かめるためにも、ここへ来て、湯に浸かるとよい。きずも癒やせるしな。そなたも倅ができたならば、一緒に来るとよい」
「はい。兄上も……。あ、すみませぬ……」
 勝頼は言葉を詰まらせてうつむく。
 今の家中で、幽閉されている義信のことは禁句に近かった。
 誰も口にしようとはしない。それが現状だった。
 ――そういえば、義信とは一緒にここへ来たことがなかったか……。
 信玄はそう思いながら、両手で顔に湯をかける。
 ――もう少し、あ奴をかまってやるべきであったか……。
 じくたる思いは、己の胸の裡にもまだ渦巻いている。
 気を取り直したように、信玄が言う。
「勝頼、最後の褒美だ。そなたには近いうちに武田の姓を名乗ってもらう」
「父上……」
「その意味はわかるな」
「はい」
「そなたに子ができれば、武田信玄の孫となる。男子であれば、やがて武田を嗣ぐこともあり得るのだ。それを肝に銘じ、これからも精進せよ」
「有り難き仕合わせにござりまする!」
 勝頼は瞳を潤ませながら何度も頬を叩く。
「そろそろ上がるか。のぼせて鼻血が出てはかなわぬ」
 信玄は湯から上がる。
 勝頼も湯から出て、白布で軆を拭う。
「積翠寺で冷たい井戸水を呑もう」
 素襖を身につけた信玄が言った。
 信玄の隠された湧湯で、親子水入らずの時を過ごした二人は、胸に秘めた志を新たにしていた。

次回に続く)

【前回 】

プロフィール
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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