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新 戦国太平記 信玄 第七章 新波到来(しんぱとうらい)9 (上)/海道龍一朗

  八十七 

 永禄えいろく十年(一五六七)三月、みの城の在番を命じていたさな幸隆ゆきたかから朗報がもたらされる。
「先日、われら真田勢で西群馬郡の渋川しぶかわにありますしろ城を落としましてござりまする」
 使つかいばんとなった次男、真田昌輝まさてるが信玄に報告した。
 渋川には古くからくに街道の宿場町があり、交通の要衝となっている。
「さようか。相変わらず手際がよいな、一徳斎いっとくさいは」
「お誉めの言葉、そのまま父に伝えさせていただきまする。つきましては、次なる標的を厩橋まやばしおう城(総社そうじゃ城)と定めまして、かの城を攻略したいと申しておりまする。どうか、かた様の御裁可をお願いいたしまする」
「よかろう。一徳斎の采配に任せる」
「有り難き仕合わせにござりまする」
 真田昌輝は深々と頭を下げた。
「ところで、昌輝。そなたは、いくつになった?」
「本年でよわい二十四となりました」
「ならば、いつまでも父の使番というわけにもまいらぬな。どうだ、兄と一緒に余の下で侍大将として働いてみぬか」
「まことにござりまするか!?」
「そなたがよければ、一徳斎には余から話すが」
「是非に、お願いいたしまする!」
「そなたの弟の昌幸まさゆきは、勝頼かつよりのもとで役目に励んでいる。いずれ、あの者も侍大将となるゆえ、真田三兄弟のそろい踏みが見られるな」
 信玄はこのところ家中の人事刷新を図っていた。
「有り難き仕合わせにござりまする!」
 昌輝は両手をついて再び頭を下げる。
「では、配属については、追って沙汰する」
 信玄が笑顔で言い渡す。
 こうして真田信綱のぶつなと昌輝の兄弟は、新たな侍大将に任命されることになった。
 そして、白井城から出立した真田幸隆と信綱の軍勢が、四月十日に蒼海城(総社城)を落とした。
 続いて、意外なところから、もうひとつの朗報が舞い込んでくる。
 これまで上杉うえすぎ輝虎てるとら麾下きかに属していた常陸国ひたちのくにたけ義重よししげが、えちと縁を切って武田家とよしみを通じたいと申し入れてきたのである。
 申し入れを受けたこま政武まさたけが詳細を報告する。
「昨年、佐竹殿がしもつけのくに那須なす郡の武茂むも兼綱かねつなを攻め、この者を従属させたところ、越後の上杉輝虎が異議を唱え、関東管領かんれいの名で介入してきたそうにござりまする。それで嫌気がさした佐竹殿は上杉を見限り、箕輪城を落とした当方へなびいてきたようにござりまする」
「常陸の佐竹か。直近の戦いには使えそうにないが、景虎かげとら牽制けんせいするための駒として考えればよいか」
「佐竹殿はつのくにみね城の白河しらかわ義親よしちかを攻めたいそうで、もしも上杉輝虎が動いてきた場合はご加勢をお願いしたいとのこと」
「陸奥まで出張る気はさらさらないが、景虎を足止めする方法ならば、いくらでもある。佐竹に承知したと伝えてくれ」
かしこまりました」
「すでに景虎と戦う意味はないが、向こうが手出ししてくるならば、こちらも相応の対処をせねばなるまい。今さら難儀なことだが……」
 信玄は深く溜息ためいきをついた。
 暦が葉月に入り、家臣たちが新たに信玄への忠誠を誓ったしょうもんが揃う。これは前の諫諍かんそう騒動を完全に鎮めるためのものであった。
 八月七日、ちいさがた郡の生島足島いくしまたるしま神社に、総勢二百三十七名分の起請文が奉納された。
 そして、この月末に、わり織田おだ忠寬ただひろから長坂ながさか光堅みつかたに驚くべき一報がもたらされる。
 信長がついに美濃みのいなやま城を落とし、斎藤さいとう龍興たつおき伊勢いせ長島ながしまへ追いやったというのである。
ちょうかんさいいくさの詳しい経緯は聞いておるか?」
 信玄は長坂光堅に訊く。
「はい。実は、八月の初旬に、斎藤家の有力な家臣から内応の申し入れがあったと聞いておりまする」
 光堅が織田忠寬から知らされた稲葉山城での戦いについて話し始める。
 斎藤家の有力な家臣とは、いわゆる西美濃三人衆と呼ばれるいな良通よしみち一鉄いってつ)、安藤あんどう守就もりなり道足どうそく)、氏家うじいえ直元なおもと卜全ぼくぜん)のことだった。
 この西美濃三人衆が「織田家にくらえしたいので、人質を受け取ってほしい」と申し入れてきたという。
 これを好機と見た織田信長のぶながは、むら貞勝さだかつしま秀満ひでみつを人質の受け取りに向かわせ、まき城の将兵をまとめてすぐに美濃へ攻め込み、くちやまとは尾根続きのずいりょうやまへ陣取る。
 これを知った斎藤龍興がまごついている間に、信長は城下の井ノ口まで兵を寄せ、この日の強風を利用し、城下町を焼き討ちした。
 これにより、稲葉山城は完全に孤立し、裸城となってしまった。
 八月十五日には、城方の斎藤勢が降参し、斎藤龍興は城の裏手にあるかくれみちを使ってなががわまで逃げたという。
 ここで鵜飼うかい用の舟を借り、長良川を下って伊勢の長島まで落ち延びた。
「信長殿は今、斎藤龍興追討のため、伊勢攻略の支度にかかっておられるということにござりまする」
 長坂光堅の話を聞き、信玄が眉をひそめる。
「……縁組の話が持ち上がってから、わずか一年か。思うたよりも早かったな」
 信玄の胸中は複雑だった。
 己の見込みよりも、ずいぶんと早く織田信長が美濃を制してしまったからである。
 ――義元よしもと殿を討ち破った勢いは、本物だったということか……。美濃と尾張を手に入れたならば、次はおうか?
「御屋形様、信長殿は美濃井ノ口の名を変えるそうにござりまする。織田家から当家へ遣いとして来たせいしゅう沢彦たくげん宗恩そうおんの発案であるとか」
「何という名か?」
「岐阜、と聞いておりまする」
 長坂光堅が答える。
 沢彦宗恩は、いんしゅうの王朝へと移り変わる時に鳳凰ほうおうが舞い降りたざんの「岐」の字と、こうが誕生した村落があったこくの首府にして、じゅがく発祥の地であるきょくの「阜」の字をもって「岐阜」という名にすべきと提案した。
 織田信長はこれを気に入り、己が焼いてしまった井ノ口を「太平と学問の地」という意味を持つ岐阜と改めた。
ざかしい真似を……」
 信玄がつぶやく。
「……されど、あの沢彦という坊主は、見た目以上に策士のようだな。三郎さぶろううつけ者と聞いていたが、まんざら教養がないというわけではないらしい。己の体面を保つすべも知っておる。存外、頭が切れるのやもしれぬ」
「御屋形様、織田家に何か祝いの品を贈っておきまするか?」
「それならば、勝頼の名義で送るがよい」
「承知いたしました」
 長坂光堅は戦勝祝いの手配りに向かった。
 ――好むと好まざるとに拘わらず、この大乱世において周囲の状況は大きく動き、刻々と変わっていく。それを見極め、臨機応変に動かねばならぬ。義信よしのぶにそれが呑み込めるようならば、何とかゆるす方法も考えられるのだが……。
 信玄はのうの片隅で、幽閉されても意地を張り続ける長男を案じていた。
 しばらくすると、伊那いな高遠たかとお城から長坂光堅が戻ってくる。
「御屋形様、ご報告がござりまする」
「何であるか、釣閑斎」
「織田家に勝頼様名義の戦勝祝いを贈りましたところ、信長殿がたいそう喜ばれたそうで、織田忠寬殿から新しき話を持ちかけられましてござりまする。信長殿には齢十一になる御嫡男がおられるそうで、そのみょうまる殿に武田家から嫁をもらえないかと」
「奇妙丸?」
「あ、はい……」
「それが嫡男の幼名か?」
「さようにござりまする」
「織田信長というおとこも酔狂な真似をしよる。嫡男が、奇妙か」
「確かに変わってはおりまするが……」
「その嫡男は齢十一と申したな」
「はい」
「ならば、婚儀は先の話で、とりあえず婚約を取り交わすということか?」
「おそらく、次は武田家と織田家の縁組をという含みがあるのではないかと」
「美濃を制し、京の都が見えてきたゆえ、当家との連衡から盟約への格上げを望んだか」
 信玄は薄く笑う。
「歳の頃から考えるならば、こちらはまつがふさわしいか」
 四女の松姫は、今年で齢七となっていた。
 この娘は信玄とあぶらかわ殿との間にできた子である。
「なるほど、松姫様と。御裳着おもぎまで七、八年になりまするな」
「於松が十五になる時、奇妙丸は齢十九か。元服も済んでいるな。織田はそのぐらいの盟約を望んでいるのであろうて。まずは形だけで構わぬ。話を進めてくれ、釣閑斎」
「畏まりましてござりまする」
 長坂光堅は嬉しそうにうなずく。
 降って湧いたような婚約の話だったが、年末に向けて進められることになった。
 信玄はそれだけ美濃を制した織田信長の手腕を買っていたということである。
 だが、人の口に戸は立てられず、やがてこの話は東光とうこうに幽閉された義信の耳にも入ってしまう。
 ――なんということだ、再び織田と縁組とは……。父上はこの身の切なる思いをまったく顧みてくださらなかったということか。
 義信は一人で憂悶する。
 ――父上は最初から、それがしの話など聞く耳を持っておられなかった。今川家を滅ぼしてでも、東海道へ出て行くつもりであろう。あろうことか、さようなことひとつ止められぬまま、飯富おぶや他の家臣たちを無駄死にさせてしまったというのか……。
 座敷牢の中で絶望のきわみに達してしまった。
 そして、義信は東光寺で自害を決意する。
 ――この一命をもって、父上に最後のおいさめを行う。それがしがこれまで言い続けたことに間違いはないと信じている。織田との野合は、必ず当家に奇禍をもたらす。
 刀の類を与えられていなかった義信は、ゆうの膳で出された箸二本を己の喉元に突き立てる。
 辞世の句も残さず、己の意地を最後まで通す壮絶な自死であった。
 その話はすぐに躑躅つつじさき館にも報告される。
 ――なんという早まったことを……。そこまで今川との関係にこだわっていたというのか……。
 信玄は呆然ぼうぜんと立ちすくむしかなかった。
 将来を嘱望された武田家の嫡男は、永禄十年(一五六七)十月十九日に享年二十九でまかった。
 義信の自害は父親だけでなく、家臣たちにも衝撃を与え、大きな動揺を誘う。
 ――いずれは若君も許されるであろう。
 そんな思いを、家中の者たち誰もが秘めていたからである。
 しかし、現実は違った。
 この一件を知り、最も落ち込んだのは、諫諍騒動を未然に防ぐ働きをした山縣やまがた昌景まさかげ武藤むとう(真田)昌幸だった。
 だが、この一件で起こった動揺は、武田家中だけに留まらなかった。
 話を聞きつけた今川氏真うじざねはすぐに使者を送り、義信自害の真偽を確かめようとする。
 それが事実だとわかると、氏真の妹で義信に嫁いでいたれいしょういん駿すんへ戻すよう、信玄に要求した。
 そして、義信の四十九日も済んでいない十一月十九日に、嶺松院が駿するへと送り返された。
 今川氏真はこの一件の報復として、甲斐への塩止めを強行する。
 これは事実上、同盟のたんを意味した。
 そんな中、諏訪勝頼に嫁いだりゅうしょういんが、高遠城でひっそりと出産する。それが去る十一月一日のことだった。
 生まれたのは男子であり、信玄の命名で幼名を王丸おうまると名付けられる。
 しかし、義信と嶺松院の一件があったため、勝頼は大きな祝事とせず、織田家だけに知らせを届けた。
 年末を迎え、信玄は馬場ばば信春のぶはるを呼び、あることを告げる。
みん、そなたのくろぞなえ衆に新たな侍大将を加えてみぬか」
「誰にござりまするか?」
「真田信綱と昌輝の兄弟だ」
「おお、あの屈強な兄弟ならば、願ってもござりませぬ。是非、わが黒備衆にくださりませ」
「一徳斎には話を通してある。せがれが黒備の先陣を担うことを喜んでおった。二人とも百五十騎持ちでどうか?」
 若い侍大将で百五十騎持ちは異例の抜擢ばってきだった。
「よろしかろうと存じまする」
「さようか。では、両人に伝えておく。さて、本題はここからだ」
 信玄の顔つきが変わる。
「今川氏真が塩止めをしてきたということは、当家と手切になってもよいと受けとった。ならば、われらも手をこまぬいているわけにはいかぬ。とおとうみと駿河を攻めるぞ」
「まことにござりまするか!?」
 馬場信春は少なからず驚きを見せる。
「まことだ。まずは遠江だが、総大将をそなたに任せたい。民部、好きなように出師表を考えるがよい」
「有り難き仕合わせにござりまする」
「遠江に出て行くとなれば、かわまつだいら党がいらぬ手出しをせぬようにしなければならぬ。まずは織田家を通じて調整するが、信君のぶただを使者とし、年明けに松平家康いえやすのところへ行かせようと思うておる」
 信玄は穴山あなやま信君を松平党への使者に指名する。
「民部、そなたも信君と細かく連絡を取り合ってくれ」
「承知いたしました」
「年明け早々から忙しくなるぞ。余計な感傷に浸っている暇などない」
 信玄が自嘲気味に呟く。
 暮れも押し詰まった頃、真田信綱と昌輝の兄弟が揃って黒備衆に配属された。
 そして、武田義信の自害に揺れた永禄十年(一五六七)が終わった。
 年明けから、信玄は精力的に動き始める。
 これまで協力関係を保ってきた陸奥むつあし盛氏もりうじと連絡を取り、蘆名と敵対してきた常陸の佐竹義重との和睦仲介を申し出る。
 その見返りに、蘆名盛氏の家臣で越後のあかたに城々主のぎり盛昭もりあきに、上杉輝虎の領地に乱入するよう依頼した。
 蘆名と佐竹は信玄の仲介で和睦し、小田切盛昭は上杉領を脅かした。
 さらに、美濃に入っていた織田信長に書状を送り、三河の松平党と同盟の折衝ができるように仲介を依頼する。
 信長はこれを快く承諾し、松平家康と話ができるように手配りしてくれた。
 かくして、信玄の密命を受けた穴山信君が、三河よし城のさか忠次ただつぐを訪ねることになった。
 酒井忠次は松平党の家老であり、家康が己が右腕と賞賛する側近の筆頭である。
 この漢が武田とのもうしつぎ役に任命された。
 穴山信君は府中を出立し、伊那の高遠城といい城を経由し、三河の吉田城へ到着する。
 出迎えた酒井忠次は齢四十一であり、この年で齢二十七となった穴山信君とは、一廻り以上の歳の差があった。
「武田信玄が家臣、穴山玄蕃頭げんばのかみ、信君と申しまする。お出迎え、有り難く存じまする」
「松平家康がさい、酒井もんのかみ、忠次にござる。遠路旁々かたがた、ご足労いただき、まことに有り難うござりまする。ささ、こちらへどうぞ」
 酒井忠次が穴山信君を城内へ導く。
 二人はお互いの家臣数名を交えて広間で対座した。
「穴山殿は武田家では、御一門衆であらせられるとお聞きしましたが」
 酒井忠次が口火を切る。
「はい。宗家との婚姻関係もあり、親族であることに相違ありませぬ」
「ずいぶんとお若く見えるが、おいくつにござるか?」
「今年で齢二十七となりまする。若輩者で申し訳ござりませぬ。本来ならば、わが父が来るべきであったかもしれませぬが、このところ体調が優れぬことに加え、今川家との申次役でありますゆえ、こたびの話には不向きかと」
「いやいや、さような意味で申したわけでは……。お若いのに、かような大役を任されるとは、御主君の信頼も相当に厚いのでありましょうて」
 酒井忠次が世辞を言ってごまかす。
「では、本題をお伺いいたしましょう」
「ご存じの通り、当家と駿河の今川家は長きにわたる盟友関係にありましたが、昨年末から今川氏真殿の塩止めが始まり、ほぼ手切れ同然の状態となっておりまする。当家としては、これを由々しき事態と考えまして、塩を欲する内陸の民のためにも、今川家の行いを看過するわけにはまいりませぬ。おそらく、駿河と遠江へ攻め入ることになるであろうと思いまする」
「なるほど、今川の塩止めの話はまことでありましたか。三河の沿岸でも塩が採れますゆえ、必要な分はお送りすることができまする」
「有り難うござりまする。そういったことも含めまして、松平党と当家の間で遠江に関する連衡ができぬかという件が、わが主君の意向にござりまする」
「遠江で共闘ということにござりまするか?」
「共闘も含め、遠江で戦う時は、互いがぶつからぬよう連絡を密にしたいと考えておりまする」
「ならば、それは武田家とわれらの同盟までを含むと考えてもよろしかろうか?」
 酒井忠次が鋭い問いを発する。
「連衡同盟とお考えいただいて結構にござりまする」
「であれば、当方と武田家、さらに織田家が二重に結ばれるということになりまするな。それは素晴らしい。松平党としても、偉大なる武田家と同盟が結べるのならば、これ以上の喜びはありませぬ。こたびの申し入れを、すぐに主君へ報告し、御裁可を願いまする」
「有り難うござりまする。酒井殿のお言葉をすぐに主君へ伝えまする」
「穴山殿、別室に席を設けてありますゆえ、一献酌み交わしましょう。そなたとはもっと深く語り合いたい」
「若輩者に過分なご配慮をいただき、重ねて、お礼申し上げまする」
「硬い、硬い。今宵は、無礼講とまいりましょうぞ」
 酒井忠次は嬉しそうに穴山信君を宴席へと案内する。
 二人は酒を酌み交わしながら夜更けまで話をし、かなり打ち解けた。
 三河から戻った穴山信君は、松平党との話がうまく進んだことを報告する。
「松平党はより強いきずなを求め、同盟を望んでおりまする」
「同盟か。それもよかろう。ただし、遠江は互いの切り取り放題というわけにはいかぬゆえ、どこかで線引きをせねばなるまい。信君、引き続き交渉を進めてくれ」
「承知いたしました」
「織田信長が信頼して三河を預けた松平家康という漢に、一度会っておくべきかもしれぬな」
 信玄はひとりごとのように呟いた。
 二月の終わりに、織田信長から北伊勢を平定したという知らせが届く。
 稲葉山城を追われた斎藤龍興は北伊勢の河内かわうち郡長島へ逃げ込んでいた。
 この長島は尾張と伊勢の国境を形成する木曽きそがわ揖斐いびがわ、長良川の河口にあるじゅうであり、幾筋にも枝分かれした木曽川の流れによって陸地から隔絶された土地だった。
 そして、長島いっこういっの衆が籠もる拠点でもある。
 織田信長は斎藤龍興を追い、北伊勢へ侵攻して長島を攻撃する。
 その戦いを通して周囲の国人こくじん衆たちを服属させたが、長島一向一揆の中に逃げ込んだ斎藤龍興を討ち取るまでには至らなかったという。
 ――三郎は龍興の追討を名目として、まんまと北伊勢を手に入れたか。こうなると、わざと龍興を生かし、長島に火種を残したのではないかと勘繰りたくなる。そうだとしたならば、なかなか喰えぬ漢よ。
 信玄の織田信長に対する見方が徐々に変化していた。
 三月に入ると、不思議な場所から信玄にぎょうしょが届けられる。
 差出人は足利あしかが義昭よしあきの名義になっており、えちぜんのくにいちじょうだにからだった。
 内容は信玄に越後の上杉輝虎と和睦し、足利義昭の入洛じゅらくを手助けしてもらえないかというものだった。
 近臣の細川ほそかわ藤孝ふじたかからの添状によると、足利義昭は三年前にしいぎゃくされた足利義輝よしてるの弟であり、ぼうの正統をぐはずだったが、よし三人衆の妨害により京の都へ戻れないでいるという。
 その流転の有様が、詳しく記されていた。
 兄が第十三代の公方になった当時、足利義昭は仏門に入って覚慶かくけいと名乗り、いちじょういん門跡となった。
 しかし、足利義輝が暗殺されると、松永まつなが久秀ひさひでによってこうふく一乗院に幽閉される。
 細川藤孝と一色いっしき藤長ふじながら義輝の遺臣たちが一計を案じ、こめ求政もとまさくすとして一乗院に出入りすることで覚慶に近づき、ある夜、番兵を酒で酔いつぶしてから覚慶を脱出させた。
 覚慶と細川藤孝らの一行は、南都から木津きづがわを遡り、伊賀いがかみ柘植つげ村を経由し、翌日には近江国こう郡の和田わだに到着する。
 この地で義輝の奉公ほうこう衆であった和田惟政これまさに助けを求め、一行は和田城にひとまず身を置いた。
 覚慶は和田城で還俗げんぞくし、足利義秋よしあきと名乗り、新たな公方として各地の大名に内書ないしょを送った。
 これに義秋の妹婿であるわかの武田義統よしずみ、近江のきょうごく高成たかなり、伊賀のにつ義広よしひろが応じ、足利義輝の遺臣、三淵みつぶち藤英ふじひで大舘おおだて晴忠はるただうえ秀政ひでまさ、上野信忠のぶただ曽我そが助乗すけのりが和田城に参集した。
 さらに、関東管領の上杉輝虎には上洛して室町幕府を再興してくれるよう依頼し、安芸あきもう元就もとなり肥後ひごさがよし能登のとはたけやま義綱よしつならにも御教書を出して三好三人衆の討伐を願う。
 和田惟政も各地に書状を送り、越前の朝倉あさくら義景よしかげ、河内の畠山尚誠ひさまさ、三河の松平家康より、協力したいという旨の返書があった。
 しかし、三好三人衆による和田城襲撃の計画が発覚したことから、足利義秋は近江国を脱出し、越前一乗谷の朝倉義景のもとに身を寄せる。
 ここで義秋の「秋」の字が不吉ということで、「義昭」に改名した。
 足利義昭は朝倉義景に上洛の供奉ぐぶを求めたが、加賀の一向一揆と敵対していたため、身動きがとれなかった。
 そこで新たな御教書を発し、信玄に助けを求めてきたのである。
 ――確か、三好どもが担ぎ上げた公方がいたはずだが……。
 三好三人衆が阿波あわの宿老、篠原しのはら長房ながふさと計って義輝の後継に担ぎ上げたのが、足利義栄よしひでだった。
 義栄は、さかい公方、あるいは平島ひらじま公方と呼ばれた足利義維よしつなの長男として阿波国の平島荘で誕生している。足利義輝が存命中は上洛したこともなく、足利義栄は阿波で逼塞ひっそくして暮らし続けると目されていた。
 しかし、三好三人衆と篠原長房ら阿波の国人衆の悲願によって第十四代公方に押し上げられたのである。
 ――共に入洛できぬ公方が二人とはな。されど、義輝殿の側近筆頭であった細川藤孝殿が足利義昭の側についているということは、そちらが正統なのやもしれぬ。
 足利義輝の申次役として細川藤孝は、信玄と何度か書状のやり取りをしていた。
 その端正な文面から、この漢を信頼するようになった。
 ――わざわざ越前まで出向いて入洛の供奉をすることはできぬ。さりとて、この御教書を無視するというわけにもいくまい。
 信玄はそう考え、駒井政武を呼ぶ。
「越前の朝倉家に身を寄せている足利義昭に、御教書の返礼を送っておいてくれ。側近の細川藤孝殿にも何か役に立つ進物を頼む」
「承知いたしました」
「都に入れぬ二人の公方か。何やら不穏な雲行きになってきたな。どちらが先に入洛するかで、勝負の行方が変わるやもしれぬ。かような時は、この不穏な雲行きが諸国に広がりやすいものだ。何か起こる前兆としてな」
 信玄は半眼の相で虚空をにらむ。
 その予想通り、三月に入ると、今度は越後で大きな動きがあった。
 上杉輝虎の属将、ほんじょう繁長しげながが武田家に内応を持ちかけてきたのである。
 この漢は越後国岩船いわふねいずみのしょうを本領とし、本庄城を本拠としている。
 本庄家は越後の中で、いわゆる揚北あがきた衆と呼ばれる国人であり、きわめて自立の志向が高かった。
 昔から何度も越後守護職や守護代と対立し、味方になっては敵に変わったりと親和と離反を繰り返してきた。
 この年、本庄繁長は上杉輝虎の命を受け、長尾藤景ふじかげ景治かげはるの兄弟をちゅうさつしたが、この働きに対して、まったく恩賞がなかったという。
 輝虎は忠臣として当然の行いとし、本庄繁長の不満を意に介さなかった。
 これに激怒した本庄繁長は、上杉家からの独立を画策し、信玄に「後盾になってほしい」と申し入れてきたのである。
 ――本庄繁長は当家が後盾となるならば、出羽でわうら城々主、大宝だいほう義増よしますと結んで挙兵すると申している。揚北の本庄城と出羽の尾浦城では少々遠いが、景虎を越後に釘付けにするのには充分であろう。陸奥の蘆名盛氏と赤谷城の小田切盛昭とも連係させ、越後の北側で一波乱起こしてくれようぞ。
 信玄は本庄繁長の申し入れを承諾し、この機会に越後の北で上杉輝虎の包囲網を作ろうとした。
 約束通り、本庄繁長と大宝寺義増は兵を挙げ、上杉輝虎にはんを翻す。
 信玄は蘆名盛氏に連絡を取り、この二人を援護してくれるよう依頼する。
 さらに、かい城の香坂こうさか昌信まさのぶを呼び、しな飯山いいやま城への攻撃を命じた。
 この飯山城は信濃で最後に残った越後方、高梨たかなし政頼まさよりの拠点である。
 越後の南北で戦いを起こし、上杉勢の兵力を分散させ、当の輝虎を春日山城から動けなくする策だった。
 信玄の動きは、これだけに留まらない。
 五月には、今川氏真に塩止めに対する抗議の使者を出す。
 単なる抗議だけではなく、使者を務めた鹿じか信昌のぶまさに「遠江の割譲」を勧告させたのである。
「元々、あき街道のまえざきは伊那街道の塩尻しおじりと通ずる公の塩の道にござりまする。これは何人たりとも止めることは許されず、当家としても看過することはできませぬ。よって、今川家はすぐに秋葉街道一帯の遠江宿場町を当家に割譲すべきと勧告いたしまする」
 剛胆な初鹿野信昌は並みいる今川家々臣を前にして平然と言い放った。
「割譲だと。莫迦莫迦ばかばかしいにもほどがある。当家が断ったならば、いかがいたす?」
 怒りをにじませ、吉良きら氏朝うじともが訊く。
「お断りになられた場合、当家と今川家は完全なぎりになると存じまする。当家はすぐに伊那から兵を出し、秋葉街道を南下し、御前崎まで進む所存にござりまする。万が一、今川家からの妨害があった場合、一切の容赦はいたしませぬ」
「……お、おどしか」
「いかように受けとられても結構にござりまする。ご返答の期限は、来月の末とさせていただきまする。どうか、御主君にこの件をお伝えし、賢明なるご返答をお待ち申し上げておりまする」
 初鹿野信昌はそれだけを述べて、駿府を後にした。
 しかし、一ヶ月を過ぎても今川家からの返答はなかった。
 実はこの時、今川氏真は越後との同盟を模索し、上杉輝虎にしゅうを送っていたのである。
 ちょうど、上杉輝虎も本庄繁長の叛乱や飯山城への侵攻などで、武田家が動き始めたことに危惧を抱いていた。
 松倉まつくら城のしい康胤やすたねが本庄繁長に呼応して上杉家から離反し、越中でも一向一揆が動き始め、首魁しゅかいしょうこう顕栄けんえいが同調する。
 ――これらすべての裏に、武田信玄がいることは間違いない!
 上杉輝虎はそのように確信していた。
 今川氏真からの申し入れを受けとり、輝虎は真剣に駿すんえつ和与わよについて考え始めた。
 そんな動きをものともせず、信玄は飯山城を制した香坂昌信にさらなる侵攻を命じる。
 信濃の長沼ながぬま城へ入った昌信は、城将のはら勝重かつしげ市川いちかわとうちょうに命じてみょう高山こうさんにあった越後の関山せきやま城を攻め始める。
 これは越後の北側での叛乱を利用し、上杉輝虎と信濃での戦いを終わらせるための最後の手段だった。
 ――おそらく、景虎は足利義昭からの御教書を受け取り、押っ取り刀で上洛しようとでもしていたのであろう。そうはさせるまじ。
 信玄はすべての動きを連動させ、硬軟取り混ぜた策で上杉輝虎を押さえ込みにかかった。
 そんな中、美濃の岐阜城(稲葉山城)に入っていた織田信長から一通の書状が届けられる。
 その文面を読んだ信玄は、驚きで絶句する。
 そこには織田信長が朝倉義景から足利義昭を引き取り、「入洛に供奉する」と書かれていた。そのために武田家と同盟を結んだことも、公方と朝倉義景へ伝えたというのである。
 ――三郎は本気なのか!?
 それが正直な感想だった。
 ――されど、これがまことだとすれば、天下が大きく動くであろう。先を越されたか……。
 信玄はどこか嫉妬めいた感情を抱いていた。
 織田信長が上洛の誘いをかけてくるならまだしも、単独で足利義昭の入洛に供奉するとは思ってもいなかったからである。
 ――いったい三郎と公方殿の間で、何があったのだ?……どうしても詳しい経緯が知りたい。
 過激な決断を成し遂げた織田信長に、さすがの信玄も動揺を隠せなかった。 

次回に続く)

【前回 】

プロフィール
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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