おかえり ~虹の橋からきた犬~ 第十一話/新堂冬樹
「小武蔵ー! 小武蔵ー!」
小武蔵の名前を呼びながら、菜々子は首を巡らせた。
既に池尻大橋の商店街を二往復していた。路地裏まで探したが、小武蔵の姿は見当たらなかった。
商店街の道行く人々に訊ねたが、誰も小武蔵を見かけた者はいなかった。
ヒューヒューという笛のような音……呼吸から漏れる息の音が聞こえた。
菜々子は商店街を抜けて、山手通りを渋谷方面に走った。
視界の端を流れる景色が、かなり遅くなった。
放射線治療で炎症を起こしている子宮に痛みを感じた。それでも菜々子は、足を止めなかった。
大通りに出てしまったら、車に撥ねられる可能性が高くなる。もしものことが起こる前に、小武蔵を見つけ出さなければならない。
自分のせいだ。気を失ったりしなければ、こんなことにはならなかった。
押し寄せる罪悪感を、菜々子は心から打ち払った。
いまは、罪の意識に囚われている場合ではない。
一刻も早く小武蔵を……。
臀部にスマートフォンの振動が伝わった。
菜々子は足を止め、スマートフォンを手にした。ディスプレイに表示される名前を見て、菜々子はスマートフォンの通話ボタンをタップした。
『小谷さん、いま、どこですか⁉ 真岡先生から連絡が入りました。小武蔵君は見つかりましたか⁉』
受話口から、瀬戸の声が流れてきた。
「いえ……まだです。いま……池尻大橋から……渋谷方面を探しています」
菜々子は、息を切らせながら言った。
『道で倒れて運び込まれてきたと聞きましたが、体は大丈夫ですか⁉ 呼吸が苦しそうですけど……』
瀬戸が心配そうに訊ねてきた。
「私は……大丈夫です。息が切れてるのは……小武蔵を探して……走っていたからです」
スマートフォンを耳に当てながら、菜々子は視線を巡らせた。
『小谷さんがまた倒れたら大変なので、僕が合流するまでそこで待っててもらえますか?』
「いえ、その間に小武蔵が遠くに行ってしまいます。私は渋谷周辺を探しますから、もしお願いできるなら、瀬戸さんは別のところを探してください」
瀬戸に頼むのは気が引けたが、一人より二人で探したほうが小武蔵を発見できる確率が高くなる。
『わかりました。これから探します。でも、本当に無理をしないでくださいね』
「ありがとうございます。では、これで」
菜々子は電話を切ると、ふたたび走り出した。
荒い呼吸……あのときと同じだ。
血塗れになる素足、破れそうな肺……五年前に巻き戻る記憶。
冷たくなった茶々丸を抱き締め、夜の商店街を走るあのときの自分にいまの自分が重なった。
神様……今度こそ、お願いします! 小武蔵を連れて行かないでください!
茶々丸……小武蔵を守って!
☆
目黒区の「西郷山公園」のベンチに、菜々子は倒れ込むように座った。
小武蔵を探し始めて三時間が過ぎた。池尻大橋、渋谷、代官山を回ったが、小武蔵は見つからなかった。
途中、瀬戸から何度か連絡が入ったが結果は同じだった。
LINEの通知音が鳴った。
菜々子は、弾かれたようにディスプレイに視線を落とした。麻美のアイコンをタップすると、小武蔵の画像が添付されていた。
名前 小武蔵
犬種 柴犬
体重 9キロ~10キロ
性格 陽気で人懐っこい子です。
☆池尻大橋の商店街の「真岡動物病院」の前でいなくなりました。
見かけた方は、下記の番号にご連絡ください。
兄から聞きました。小武蔵君のチラシを愛犬家のインスタやツイッターに拡散します。
「セカンドライフ」の電話番号以外に、菜々子さんと兄の携帯番号を掲載しておきましたから、情報が入ると思います!
私も、手があいたら近所を探しますから気を落とさないでください!
菜々子は麻美に電話をかけた。
『菜々子さん、体は大丈夫ですか?』
電話に出るなり、麻美が心配そうに訊ねてきた。
「体のほうはなんともありません。心配をかけてすみません。チラシ、ありがとうございます」
菜々子は礼を言った。
『水臭いこと言わないでください。小武蔵君は私達にとっても家族ですから。菜々子さん、少し休んだほうがいいですよ。体調を崩したら、放射線治療を受けられなくなりますから』
「明日、明後日は土日なので大丈夫です。それに、小武蔵が見つからないのに、私だけ休んでなんかいられません……」
スマートフォンを持つ手が震え、太腿に涙が落ちて弾けた。
放射線治療など、どうでもいい。体調が悪くなっても構わない。
小武蔵の身になにかあったら……茶々丸のときの二の舞になってしまったら、今度こそ、生きてゆけない。
『気持ちはわかりますけど、菜々子さんにもしものことがあったら小武蔵君が哀しみます。少しだけでも、休んでください。SNSの拡散力には凄いものがありますし、愛犬家の人達の結束力は強いですから、小武蔵君は必ず見つかりますよ』
麻美の気持ちはありがたかった。だが、いまの菜々子には自分の身を気遣う余裕はなかった。
「もう少し探したら休みます。それじゃあ、なにかわかったら連絡ください」
菜々子は電話を切るとベンチから腰を上げ、園内を駆けた。
麻美には申し訳ないが、休む気はなかった。
菜々子は、雑木林に足を踏み入れた。
「痛っ……」
木の枝で腕を切った。
――放射線治療で免疫力が下がっているので、口にするものや怪我には気をつけてください。細菌やウイルスに感染したら、治療を中断しなければならなくなりますから。
松島医師の言葉が脳裏に蘇った。
放射線治療の中断がなにを意味するのか、もちろんわかっていた。
わかっていたが、菜々子にとってなによりも大切なことは小武蔵を見つけ出すことだ。
「小武蔵ー! どこなの⁉ 小武蔵ー!」
菜々子は大声で小武蔵の名を呼びながら、雑木林を探し回った。
顔に絡んできた蜘蛛の巣を払い除けた。蜘蛛が大嫌いな菜々子は、いつもなら悲鳴をあげていたところだ。
「小武蔵……」
掌の中で震えるスマートフォン。
菜々子はディスプレイに視線を落とした。
瀬戸からだった。
「小武蔵は見つかりましたか⁉」
通話ボタンをタップするなり、菜々子は訊ねた。
『いえ、でも、真岡先生から小武蔵君の情報が入りました』
「真岡先生が、小武蔵を見つけたんですか⁉」
菜々子は、スマートフォンを耳に当てたまま身を乗り出した。
『小谷さん、落ち着いて聞いてください』
瀬戸の硬い声が、菜々子を不安にさせた。
「小武蔵になにかあったんですか⁉ まさか……車に撥ねられたんですか⁉」
菜々子は矢継ぎ早に訊ねた。
スマートフォンを持つ手が汗ばみ、小刻みに震えた。
『事故ではありません』
「よかった……」
菜々子は胸を撫で下ろした。
『小武蔵君は、連れ去られたようです』
「え……」
瞬間、菜々子の思考が停止した。
頭の中が真っ白に染まった。
「連れ去られたって……どういうことですか⁉」
我に返った菜々子は、問い詰めるような口調で瀬戸に訊ねた。
『真岡動物病院の隣の歯医者さんの防犯カメラに、小武蔵君が連れ去られるところが映っていたそうです』
「誰が小武蔵を連れ去ったんですか⁉」
菜々子は、思わず大声を出していた。
『いま、どこですか?』
「『西郷山公園』の雑木林ですけど……あの、小武蔵は誰が連れ去ったんですか⁉」
『十分以内にそちらに行きます。出口近くのベンチで待っててください。話の続きは、会ってからします』
瀬戸は一方的に言い残し、電話を切った。
「もしもし⁉ 社長⁉ もしもし⁉」
菜々子はすぐに電話をかけ直したが、瀬戸は出なかった。
「誰が小武蔵を誘拐したのよ!」
菜々子は叫びながら、雑木林を出て瀬戸に指定されたベンチに向かった。
「小武蔵を無事に返してください……私は小武蔵と暮らせるだけの命があれば十分です! どうか、小武蔵を……小武蔵を守ってください! お願いします、お願いしますっ、お願いします!」
菜々子は天を見上げ、祈り続けた。
遊んでいる子供達、子供達の母親、デート中のカップル……みなの好奇の視線が集まった。
構わず祈り続けた。祈り続ければ、小武蔵に危害が加えられないと信じて……。
「小谷さん」
菜々子が振り返ると、瀬戸が立っていた。
「社長っ、誰が小武蔵を……」
「これから、犯人のところに行きます」
瀬戸が菜々子を遮り言った。
「え⁉ 小武蔵の居場所がわかったんですか⁉」
「小武蔵君がそこにいるかはわかりませんが、犯人はいるはずです。タクシーを待たせているので、急ぎましょう」
瀬戸は菜々子を促し公園を出ると、路肩に停まっていたタクシーに乗った。
菜々子も瀬戸のあとに続き、後部座席に乗った。
「社長、どこに行くんですか?」
「小武蔵君の、元の飼い主のところです」
瀬戸が厳しい表情で言った。
「えっ! まさか……」
菜々子は絶句した。
誘拐犯は、小武蔵を虐待していた佐久間……。
「小武蔵が……小武蔵が危険です! 運転手さん、急いでください!」
菜々子は叫んだ。
早くしなければ、小武蔵がひどい目にあってしまう。早く、早く……。
「急いでくださいって、まだ行き先を……」
「早く車を出してください!」
菜々子は理性を失っていた。
一秒でも早く、小武蔵を救い出すことしか頭になかった。
「赤坂の『葵銀行』までお願いします」
瀬戸が行き先を告げると、運転手が舌を鳴らしながら車を発進させた。
「佐久間には僕が話をしますので、任せてください。感情的になって話がこじれたら厄介ですからね。速やかに小武蔵君を取り戻すことを最優先に考えましょう」
瀬戸が諭すように言った。
「小武蔵を連れ去ったのは、あの男に間違いないんですよね?」
菜々子は訊ねた。
画質の粗い防犯カメラの映像だと、見間違いという可能性もある。
「転送してもらった映像です」
瀬戸が言いながら、スマートフォンのディスプレイを菜々子に向けた。
抵抗する小武蔵を強引に抱き上げ、クレートに入れるスーツ姿の男性……佐久間の顔がはっきりと映っていた。
「ひどい……小武蔵になんてことを!」
菜々子の怒声が、車内に響き渡った。
「クレートを用意していたということは、計画的な犯行でしょう。どこで小谷さんと小武蔵君を見かけたかはわかりませんが、佐久間が犯人なのは間違いありません」
「証拠があるなら、警察に通報しましょう!」
「待ってください」
スマートフォンを取り出そうとした菜々子の手を、瀬戸が押さえた。
「通報しないんですか⁉」
「いえ。事を荒立てて自棄になられたら、小武蔵君に危害が及ぶかもしれません。通報は小武蔵君を救出してからにしましょう」
たしかに、瀬戸の言う通りだった。
小武蔵を連れ戻しにきたときの佐久間の粗暴な振る舞いを見ていると、なにをしでかすかわからない。
「彼には立場があります。職場で話をすれば、ほかの行員の眼もあるので無謀な真似はできないはずです。行員にとってトラブルは命取りです。とくに、彼は課長ですから今回のことがバレたら、降格どころか解雇でしょうね」
瀬戸が冷静な口調で言った。
感情がすぐに出てしまい失敗を重ねてきた菜々子にとって、冷静沈着な瀬戸は頼もしい存在だった。
「わかりました。社長にお任せします」
小武蔵を虐待し、捨て、誘拐し……絶対に許せなかった。
いままでの菜々子なら、佐久間と顔を合わせるなり掴みかかってしまうだろう。
だが、今回は耐えなければならない。広告代理店やアロマショップで、クライアントを怒らせてトラブルになったのとは次元が違う。
小武蔵を無事に救出するために、感情のまま動くことはできない。
菜々子は眼を閉じ、逸る気持ちを抑えた。
☆
「すみません。佐久間課長はいらっしゃいますか?」
瀬戸が案内係の女性スタッフに訊ねた。
「アポイントは、お取りになっておられますでしょうか?」
「いいえ」
「申し訳ございません。アポイントのないお客様とは……」
「佐久間課長に、飼い犬の情報が入ったらすぐに報せてくださいと言われていましたので」
瀬戸が女性スタッフを遮り、でたらめを並べた。
「佐久間課長の飼い犬……ですか?」
女性スタッフが、怪訝そうに訊ね返してきた。
「私は、保護犬施設『セカンドライフ』の代表を務めている瀬戸と申します。佐久間課長の飼い犬の小武蔵君が、行方不明になり依頼を受けていました。小武蔵君らしき柴犬の居場所がわかりましたので、佐久間課長に確認していただこうと思いまして」
「いま、佐久間に伝えてきますので、こちらでお待ちください」
女性スタッフが、瀬戸と菜々子をベンチチェアに促し踵を返した。
「僕を嘘吐きだと思わないでくださいね」
瀬戸が、冗談とも本気ともつかない口調で言った。
「思いませんよ。でも、意外でした。瀬戸さんは嘘が下手な人だというイメージがありましたから」
菜々子は、率直な思いを口にした。
「昔は、そうでした。でも、いまの仕事を始めるようになってわかったんです。あの子達を虐げたり飼育放棄したりするような人達を相手にするには、ときには嘘を吐く必要もあるって。愛情だけでは、あの子達を守ることはできないって」
瀬戸の言葉が、菜々子の胸に刺さった。
瀬戸の言う通りだ。
佐久間みたいな非道な男と渡り合うには、正直であることはマイナスにしかならない。
「でも、あの男は出てきますかね?」
菜々子は、行員フロアに視線を向けながら言った。
女性スタッフは、フロアの奥のドアの向こう側へと消えた。
恐らく、奥の部屋に違いない。
「小武蔵君を連れ去ったことが僕達にバレたとわかった以上、無視はできないはずです。職場で騒ぎになれば、困るのは……ほら、噂をすればなんとやらです」
瀬戸の視線を菜々子は追った。
行員フロアから佐久間が現れ、菜々子たちのもとに歩み寄ってきた。
「佐久間です。飼い犬の件と聞きましたが、どのようなことでしょう?」
周囲の眼を気にしているのだろう、佐久間の物腰は「セカンドライフ」で菜々子に暴言を吐いた男と同一人物とは思えなかった。
「小武蔵君の件ですよ」
ベンチチェアから立ち上がり、瀬戸が言った。
「そのワンちゃんは、お客様達が飼っていらっしゃる子ですよね?」
佐久間が柔和な笑顔で、白々しく訊ねてきた。
小武蔵を連れ去ったことが、バレていないと思っているのだろう。
「あなたと言葉遊びをするつもりはありません。単刀直入に言います。小武蔵君を返してください」
瀬戸が抑揚のない口調で言った。
「冗談はやめてください。小武蔵君とかいうワンちゃんが、ウチにいるわけはないでしょう?」
佐久間は笑顔を絶やさずに、シラを切り続けた。
佐久間は、小武蔵を虐待するために連れ去ったに違いない。
早く小武蔵を助けなければ……。
込み上げる焦燥――堪えた。
込み上げる激憤――堪えた。
菜々子は奥歯を噛みしめ、平常心を搔き集めた。
「この動画を見ても、同じ言葉を繰り返しますか?」
瀬戸が、佐久間の顔の前にスマートフォンを突きつけた。
「えっ……」
佐久間が絶句した。
「防犯カメラの映像です。小武蔵君を連れ去っている男性は、間違いなく佐久間さんですよね?」
「お、お客様、お話の続きはこちらで……」
動揺に強張った顔で、佐久間が瀬戸を外に促した。
菜々子は立ち上がり、二人に続いて外に出た。
銀行から十メートルほど離れた路地裏で、佐久間は足を止めた。
「お前ら、職場にまで乗り込んできて、どういうつもりだ!」
行内にいるときとは打って変わった表情と口調で、佐久間が瀬戸と菜々子に食ってかかってきた。
「その言葉、あなたにそっくり返します。どうして、小武蔵君を連れ去ったのですか?」
対照的に、瀬戸は冷静な口調で訊ねた。
「俺はそんなことしてねえ! その動画に映ってる男は、俺に似ているが別人だ」
佐久間が開き直りシラを切った。
「おかしいですね。どう見ても、映像の人物は佐久間さんなんですけどね。わかりました。では、佐久間さんといつも会っている部下の人達に確認してもらいます」
瀬戸は一方的に言うと、きた道を引き返した。
「ちょ……ちょっと待てよ!」
佐久間が瀬戸の腕を掴んだ。
「どうしてです? 映像の人物があなたじゃなければ、見せても平気でしょう?」
瀬戸が振り返り、佐久間を試すように見据えた。
「この野郎……人の足元を見やがってっ」
佐久間が舌打ちをして吐き捨てた。
「言いたいことがそれだけなら、銀行に……」
「わかったわかった! わかったから待て!」
足を踏み出そうとした瀬戸に、佐久間がやけくそ気味に言った。
「あなたが小武蔵君を連れ去ったことを認めるんですね?」
間髪容れずに瀬戸が訊ねた。
「ああ、そうだよ」
不貞腐れた顔で佐久間が認めた。
「小武蔵を傷つけてないでしょうね!」
それまで口を出さなかった菜々子だが、たまらず佐久間に詰め寄った。
「傷つけてねえよ! 人聞きの悪いことを言うなっ」
佐久間が、逆ギレ気味に言った。
「あなたは小武蔵を虐待していた人でしょう! 疑われて当然だわ! もし、小武蔵の身になにかあったら……」
「小谷さん」
瀬戸が菜々子を遮り、小さく首を横に振った。
瀬戸が、菜々子の失いかけていた平常心を取り戻してくれた。
佐久間が小武蔵を連れ去ったことを認めても、それで終わりではない。
小武蔵を無事に連れ戻さないかぎり、安心はできないのだ。
「どうして、そんなことをしたんですか? これは犯罪ですよ」
瀬戸が質問を再開した。
「どうしてって、あれは元々俺の犬だ。俺が俺の犬を取り戻すことが犯罪になるのか⁉」
ふたたび、佐久間が開き直った。
「いまから銀行に戻って行員たちにすべてを話しても、同じことが言えますか?」
瀬戸の言葉に、佐久間が表情を失った。
「佐久間さん、これが最後のチャンスです。速やかに小武蔵君を返せば、銀行にはなにも言いません。ですが、あくまでも小武蔵君を返さないというのなら、『葵銀行』の頭取にこの動画を……」
「悪かった! この通りだ! 許してくれ!」
佐久間が頭を下げた。
「謝罪より、小武蔵君を返してください」
瀬戸が淡々とした口調で言った。
「それが……」
頭を上げた佐久間の顔は蒼白だった。
「それが……どうしたの⁉」
菜々子は佐久間に詰め寄った。
「いなくなった……」
佐久間が消え入りそうな声で言った。
「いなくなった⁉ いなくなったって、どういう意味よ⁉」
菜々子は佐久間のスーツの襟元を掴んだ。
とてつもない胸騒ぎがした。
「家に着いて車からクレートを運ぼうとしたときに扉のカギが開いてて、それで……」
言い淀む佐久間――胸騒ぎに拍車がかかった。
「それで、どうしたのよ⁉」
菜々子は叫んだ。
「逃げたよ……」
「逃げたってどこに⁉ どこに逃げたのよ⁉」
菜々子は、佐久間のスーツの襟元を掴んだ腕を激しく前後に動かした。
「逃げちまったんだから、知るわけないだろ……」
「どこに逃げたか……」
「小谷さん、僕に任せてください」
瀬戸が菜々子の手を佐久間の襟元から離しながら言った。
「免許証を出してください。逃げ出した場所から探します」
瀬戸が言うと、佐久間が財布を取り出し運転免許証を差し出した。
「港区の高輪で、小武蔵君は逃げ出したんですね?」
瀬戸は運転免許証をスマートフォンのカメラで撮影すると、佐久間に返しながら確認した。
「そうだ。なあ、正直に話したから、銀行のほうには内密にしてくれよ。犬コロのことでクビになったら、洒落にならない……」
菜々子は、佐久間の頬を張った。
「お前っ、なにする……」
「あなたっ、自分が小武蔵になにをしたかわかってるの!」
菜々子は佐久間に激しく詰め寄った。
「小谷さん、こんな男を相手にしている暇はありません。小武蔵君を探しに行きましょう!」
瀬戸が菜々子の手を引き、大通りに向かった。
ほどなくすると、空車のタクシーが現れた。
☆
「セカンドライフ」のロゴの入ったバンは、邸宅が建ち並ぶ高輪の住宅街を走っていた。「葵銀行」の前からタクシーを拾い「セカンドライフ」に戻り、バンに乗り換えた菜々子と瀬戸は佐久間の自宅マンションのある高輪四丁目方面に向かった。
「小武蔵ぃー! 小武蔵ぃー!」
菜々子は助手席の窓から顔を出し、小武蔵を探した。
五時を過ぎ、あたりは薄暗くなってきた。日が暮れる前に小武蔵を見つけなければ……。
背筋を這い上がる焦燥感……菜々子は、涙を堪えた。泣くのは、小武蔵の身になにかが起こったときだ。
小武蔵は無事に探し出せる……だから、泣く必要はない。
「佐久間の話が本当なら、小武蔵が脱走して五時間以上が経ちます。もう、この近所にはいない可能性がありますね。四丁目を離れて周辺を流しましょう」
瀬戸が言った。
三丁目、二丁目、一丁目……大通りや路地の隅々までバンを走らせているうちに、二時間が過ぎた。
菜々子はスマートフォンを取り出し、バンに乗ってから五度目の電話を麻美にかけた。
「なにか情報は入りましたか?」
電話が通じるなり、菜々子は訊ねた。
『残念ですけど、まだです』
予想通りの答えが返ってきた。
小武蔵の情報が入ったなら、麻美のほうから連絡があるはずだ。わかってはいたが、なにかをしなければどうにかなってしまいそうだった。
「そうですか……忙しいときに、何度もすみません」
『謝らないでください。家族を探すのは当然のことです。菜々子さん、気を落とさないでくださいね。離れていても、小武蔵君に気持ちが伝わってしまいますから。じゃあ、いったん切りますね』
菜々子は、しばらくスマートフォンに視線を落としていた。
麻美の言う通りだ。小武蔵は菜々子よりももっと不安な状態のはずなのに、一人で頑張っているのだ。
ディスプレイに真岡の名前が表示された。
真岡には、佐久間の自宅マンションの周辺を探すと伝えてあった。
菜々子は電話に出た。
『また、会えるよ』
開口一番、真岡が言った。
「え? なにか情報が入ったんですか⁉」
菜々子は、スマートフォンを耳に当てたまま身を乗り出した。
『いや、まだなにも』
真岡の言葉に、菜々子はため息を吐いた。
『がっかりさせたみたいだね。でも、気休めで言ったんじゃないよ。また、必ず会えるから』
「どうして、そう言い切れるんですか⁉」
思わず語気が強くなり、瀬戸が驚いた顔を向けた。
「あ、すみません……私、動転していたので真岡先生に八つ当たりしちゃって……」
『いいんだよ。大切な家族が行方不明になったんだから、動転するのも仕方のないことだ』
気を悪くしたふうもなく、真岡が言った。
「あの、また、必ず会えるっていうのは……」
『小武蔵は、菜々子ちゃんを守るために生まれてきた。いや、生まれ変わってきた。私は、そう信じているから』
菜々子のスマートフォンを持つ手が震えた。
『それなのに、君を残したままいなくなるわけないだろう?』
真岡の優しい声が、菜々子の胸に染みた。
「ありがとう……先生」
菜々子は、掠れた声を絞り出した。
小武蔵は茶々丸の生まれ変わり……。
そうかもしれないと思うたびに、違うと言い聞かせてきた。
そうだと認めたら、孤独に逝かせた茶々丸に申し訳ないと思っていた。
そうだと認めたら、罪の意識から逃げることになると思っていた。
『そんな気分ではないだろうが、今夜は帰って休みなさい。知り合いのペット探偵にも頼んであるし、また、明日、朝から探せばいい。小武蔵のためにも、君が倒れるわけにはいかないからね』
「……本当に、ありがとうございます」
『じゃあ、これで』
真岡が電話を切った途端に、涙が溢れてきた。
「どうしたんですか?」
瀬戸が心配そうに訊ねながら、バンを路肩に寄せて停めた。
「すみません……大丈夫です」
瀬戸に心配をかけてしまうから、泣いてはいけない。わかってはいたが、涙が止まらなかった。
「小武蔵君は必ず見つかりますから」
瀬戸の気遣いの言葉が、菜々子の固く閉ざしていた心の鍵を壊した。
「私のせいで……茶々丸は死んだんです! 小武蔵に、もしものことがあったら……私は……どうすれば!」
車内に菜々子の叫び声が響き渡った。
感情を抑えきれなかった。
「茶々丸君は前に飼っていた子だね?」
菜々子とは対照的に、瀬戸が物静かな声で訊ねてきた。
「そうです……茶々丸が苦しんでいるときに、私は呑気に会食に出席していたんです!」
菜々子は封印していた感情のすべてをさらけ出した。
「もしよければ、僕に茶々丸君のことを教えていただけますか?」
菜々子は、五年前の悪夢を瀬戸に話した。
茶々丸を一人で旅立たせてしまった後悔、抜け殻の五年間、小武蔵との運命的な再会……菜々子の話を、瀬戸は眼を閉じて聞いていた。
「それは、つらい思い出ですね」
瀬戸が眼を閉じたまま言った。
「え?」
菜々子は、瀬戸の思い出という表現に違和感を覚えた。
菜々子にとってあの日の出来事は忘れてはならない記憶であり、思い出と呼ぶには残酷過ぎた。
「小谷さんは茶々丸君を大切に想っていた。茶々丸君も小谷さんを大切に想っていた。互いを想い合う二人の間に起こった出来事は、楽しいこともつらいこともすべて大切な思い出ですよ」
瀬戸が眼を開け、菜々子を見つめ微笑んだ。
「すべて大切な思い出……」
菜々子は瀬戸の言葉を繰り返した。
「あ、なんか、ドラマの俳優みたいに格好をつけたことを言いましたね」
瀬戸が照れ臭そうに笑った。
「ついでに、もう少し格好をつけさせてください。茶々丸君の最期を看取れなかったことを悔いるのは……」
「わかってます。だから、それ以上は言わないでください」
菜々子は瀬戸を遮った。
それが正しいことかどうかはわからないが、茶々丸を忘れることも、ましてや自分を許すことなどできなかった。
「いえ、言います。悔いるのは、やめなくてもいいと思います」
菜々子は俯いていた顔を、弾かれたように瀬戸に向けた。
「僕も、過去に何度か同じような経験をしています。最期を看取ってあげられなかった子達のことは、いまでも思い出すと胸が痛みます。だから、後悔を無理にやめようとする必要はないと思います。それだけ、茶々丸君への愛情が深かった証です。気が済むまで、哀しんでください。でも、これだけは忘れないでほしいんです。茶々丸君も僕が看取れなかった子達も、楽しい思い出だけを胸に旅立っています。あの子達は、僕達人間にとって天使のような存在ですから」
瀬戸が微笑み、頷いた。
ふたたび、涙が頬を伝った。
今度は、哀しみではなく感動の涙が……。
「あ、それから、小武蔵君に茶々丸君と同じ思いをさせたくない……そんなふうに思う必要はありませんよ」
「どうしてですか? さっき、茶々丸にたいしての罪悪感を無理に捨てる必要はないって……」
「ええ、言いましたよ。小谷さんには、僕の言葉の意味がわかっているはずです」
瀬戸が意味深な口調で言った。
――小武蔵は、菜々子ちゃんを守るために生まれてきた。いや、生まれ変わってきた。私は、そう信じているから。
不意に、真岡の言葉が蘇った。
「それは……」
菜々子のスマートフォンが振動した。
「麻美さんからです」
菜々子は瀬戸に告げると、通話ボタンをタップした。
『菜々子さん! 小武蔵君の情報が入りました!』
興奮した麻美の大声が、受話口から流れてきた。
「え⁉ どこですか⁉」
菜々子も、負けないくらいの大声で訊ねた。
『赤坂見附駅近くの焼肉店の店員さんが、裏口に野良猫用に置いていたタッパーの水を飲んでいた柴犬を、保護してくれたそうですっ。SNSの迷い犬情報を見てくれていたみたいで、写真を送ってくれました! いま送ったので、確認してくださいっ。黄色いハーネスとリードをつけているので、小武蔵君に間違いないと思います! 焼肉屋さんの住所もLINEしておきましたから、確認したら迎えに行ってあげてください』
「わかりました! また、電話しますね! 小武蔵が赤坂の焼肉店の店員さんに保護されたそうです!」
電話を切った菜々子は興奮した口調で瀬戸に伝えながら、麻美のLINEのアイコンを開いた。
店員らしき男性に黄色いリードを握られた柴犬……体が汚れて顔に覇気がないが、間違いなく小武蔵だった。
「小武蔵! 小武蔵が無事でした!」
菜々子は涙声で叫びながら、スマートフォンに表示された画像を瀬戸に向けた。
「住所を教えてください。赤坂に急ぎましょう!」
瀬戸がバンを発進させた。
もう少しの辛抱よ! 待っててね!
菜々子は小武蔵……茶々丸に心で語りかけた。
(第十二話に続く)
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