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おかえり ~虹の橋からきた犬~ 第十話/新堂冬樹

【前回】

 菜々子は小武蔵にハーネスを装着し、財布とスマートフォンをトートバッグに入れた。
「小武蔵、行くよ!」
 菜々子は小武蔵を抱っこし、外に出た。
 小武蔵を地面に下ろすと、ダッシュした。菜々子も駆け出し、あとを追った。
 子宮頸がんになったことが嘘のように、菜々子の体調はよかった。
 放射線治療を始めて半月が経った。
 菜々子に大きな副作用は見られず、「セカンドライフ」を休むこともなかった。
 二、三十メートル走ったあたりで、菜々子は突然、眩暈めまいに襲われた。
 菜々子は立ち止まり、前屈みになった。視界がゆがみ、立ち上がれなかった。
 駆け寄ってきた小武蔵が、心配そうに菜々子の顔をのぞき込んできた。
 急に、どうしたのだろうか?
 体に力が入らず、意識が遠のきそうになった。
 小武蔵が吠えながら、駆け出した。
「どこに……行くの……危ないから……駄目よ……」
 菜々子は眩暈にあらがいながら、小武蔵に声をかけた。
 小武蔵の背中が、どんどん遠くなってゆく……遠くなってゆく……。
 菜々子の全身から、すぅっと血の気が引いた。
 視界がぼやけ、やがて闇に包まれた。
 
     ☆
 
 小鳥のさえずりが聞こえた。
 菜々子は眼を開けた。
 目の前に青ペンキで塗ったような青空が広がった。
 菜々子は上体を起こした。
 息をんだ。
 果てしなく広がる草原に咲き誇るピンク、レッド、イエロー、ブルーの花々。
 草原を駆け回る犬達、なたぼっこする猫達、跳ね回るウサギ達、木の枝の上で木の実を頬張るリス達、大空を舞う小鳥達。
 ここはいったい?
 かるざわかどこかの高原?
 いや、そんなはずはない。
 菜々子は「セカンドライフ」に向かう途中だったのだ。
 ならば夢か?
 それもない。
 目覚めて、支度して、家を出たことをはっきり覚えている。
 じゃあ、ここはいったい……。
 走り回る犬の群れから一頭が、菜々子に向かって走ってきた。
 茶色の被毛の鼻の周りが黒い雑種の中型犬……。
「え……」
 駆け寄ってくる中型犬を見て、菜々子は息を呑んだ。
 近寄ってくる中型犬の右頬……ハート形の白い斑。
「まさか……」
 中型犬……茶々丸が、菜々子の胸に飛び込んできた。
「茶々丸……どうして?」
 問いかける菜々子の顔を、茶々丸がペロペロと舐めた。
「会いたかった……」
 菜々子は茶々丸を抱きしめた。
 茶々丸の懐かしい匂い、懐かしい舌の感触、懐かしい被毛の手触り……。
「ごめんね、最後のときに一緒にいてあげられなくて……」
 菜々子は嗚咽おえつ交じりに言った。
「寂しかったでしょう……本当にごめん……」
 頬を伝う涙が、茶々丸の被毛をらした。
 茶々丸を抱きしめる腕が震えた……心が震えた。
 茶々丸の鼓動を感じた。
 菜々子の鼓動と重なってゆく……。
 二人が一体になれた気がした。
 いや、昔から一体だった。
 そんな茶々丸を一人で旅立たせたのは……。
 
 そんなふうに思わないで。
 
 声がしたような気がした。
 空耳か?
 
 僕は寂しくなかったよ。ママは帰ってきてくれたでしょう? それに、おか先生のところに抱っこして連れて行ってくれたし。
 
 間違いない。
 たしかに声が聞こえた。
 もしかして、茶々丸の声なのか?
「でも、そのときあなたはもう……」
 
 僕はママと、ずっと一緒にいたよ。あのときも、いまも。
 
 声が菜々子の言葉を遮った。
「いまも?」
 
 そう、いまも。そしてこれからも。
 
 声が優しく答えた。
「あなたは、ここで暮らしているんでしょう? ここは、虹の橋のたもと?」
 菜々子は訊ねてから気づいた。
 ここが虹の橋のたもとということは、死んでしまったのか?
 
 僕のことは心配しないでいいから、ママは早く戻らなきゃ。
 
「戻る? どこに?」
 
 ママのいる場所だよ。ママはまだ、ここにくるときじゃない。
 
「あなたと別れたくない! 茶々丸、一緒に戻ろう!」
 
 僕は、もう戻ってるよ。
 
「え? なにを言ってるの? あなたはここにいるじゃない?」
 
 早く僕を探して。じゃなきゃ、今度は本当のお別れになるから。
 
 茶々丸は言い残し、犬達の群れのもとに駆け戻った。
「あなたを探す? それは、どういう意味? 待って!」
 菜々子は立ち上がり、茶々丸のあとを追いかけようとした。
 靴底に強力な接着剤を塗られたように、足が動かなかった。
「茶々丸っ、待って!」
 
 眼を開けた。
 茶々丸が消えた。
 ほかの動物達も、草原も消えた。
「目覚めたかい?」
 聞き覚えのある声がした。
 菜々子は朦朧もうろうとした意識のまま、声のほうに顔を向けた。
 デスクチェアに座っていた初老の男性……真岡が立ち上がり、菜々子のほうに歩み寄ってきた。
 菜々子は視線を巡らせた。
「真岡動物病院」の診療室のソファに、菜々子は寝ていた。
「私、どうしてここに?」
 菜々子は上半身を起こしながら真岡に訊ねた。
なかさんが、おぶって運んできてくれたんだよ」
 真岡が言った。
「田中のおじさんが? どうしてですか?」
 田中は、「真岡動物病院」から三十メートルほど離れた場所で営業する青果店のあるじだった。
「なんにも覚えてないのかい? 菜々子ちゃんは、商店街で倒れていたんだよ。おそらく、貧血だと思う」
 真岡の言葉に、菜々子の記憶の扉が開いた。
「セカンドライフ」に向かう途中に、菜々子は突然眩暈に襲われて立ち上がれなくなったのだ。
 そのまま気を失い……。
「どうして、田中のおじさんは私をここに連れてきたんですか?」
 菜々子は訊ねた。
「動物病院だけど、一応医者だから私のところに連れてゆけばなんとかなると思ったんだろう」
 吠えながら駆け出す小武蔵の姿が、不意に菜々子の脳裏に蘇った。
「小武蔵……小武蔵はどこですか!?」
 菜々子は訊ねた。
「小武蔵も一緒だったのかい? 田中さんは、なにも言ってなかったな……」
 真岡がげんそうに言った。
 菜々子はベッドから降り、診療室を飛び出した。
「どこに行くんだい!? まだ無理しちゃ……」
 背中を追ってくる真岡の声がフェードアウトした。
「真岡動物病院」を出た菜々子は、全力疾走した。
 さっきも、小武蔵と急に走り出したことが原因で貧血を起こしたのかもしれない。
 もしかしたら副作用の一種かもしれない。
 だが、関係なかった。自らの体のことより、小武蔵の安否が気になった。
「田中青果店」に向かって走りながら、小武蔵を探した。
「おじさーん! おじさーん!」
 菜々子は二十メートルほど手前から、店先に立つ田中に声をかけた。
「お、菜々子ちゃんじゃないか!? そんなに走って大丈夫か!?」
 田中がびっくりした顔で、菜々子に駆け寄ってきた。
「そんなことより、小武蔵はどうしました!?」
 菜々子は、息急き切って田中に訊ねた。
「小武蔵? なんだいそれは?」
 田中が怪訝な顔で首をかしげた。
柴犬しばいぬです!」
「あ! あのワンコロか!」
 田中が手をたたき、大声を張り上げた。
「小武蔵に会ったんですね!?」
「ああ、店に戻ろうと歩いていたらワンコロがワンワン吠えてきて、急に向きを変えて走り出すからついていったら、菜々子ちゃんが倒れてたんだよ」
「それからどうしたんですか!? 小武蔵はどこに行ったんですか!?」
 菜々子は矢継ぎ早に訊ねた。
「菜々子ちゃんをおぶると、ワンコロが俺の前掛けの裾をんで引っ張るから、ついて行ったら真岡先生の病院だったのさ。動物の先生でも医者は医者だから、菜々子ちゃんを運び込んだってわけだ。菜々子ちゃんのことで頭が一杯で、ワンコロのことはすっかり忘れてたよ」
 田中が、しお頭をむしりながら言った。
「忘れてたって……小武蔵は一緒に動物病院に入らなかったんですか!?」
 菜々子はとがめる口調になっていた。
「一刻も早く菜々子ちゃんを真岡先生に見せなきゃと気が急いて、ワンコロを中に入れるのを忘れ……」
「外に出たときに、小武蔵はいなかったんですか!?」
 菜々子は田中を遮り、大声で問い詰めた。
「あ、ああ……いなかったよ。いたら、ワンコロのことを忘れていねえし……」
 田中がしどろもどろに言った。
「そんな……」
 菜々子の頭の中は真っ白になった。
 小武蔵が菜々子を助けるために田中を呼んできてくれた……「真岡動物病院」に田中を案内してくれた。
 なのに、小武蔵は……。
「小武蔵は……どこ?」
 菜々子は放心状態で呟いた。
「小武蔵! 小武蔵! 小武蔵!」
 我に返った菜々子は、小武蔵の名前を連呼しながら商店街を駆けた。
 
 あなたと別れたくない! 茶々丸、一緒に戻ろう!
 
 僕は、もう戻ってるよ。
 
 え? なにを言ってるの? あなたはここにいるじゃない?
 
 早く僕を探して。じゃなきゃ、今度は本当のお別れになるから。
 
 さっき見た夢での茶々丸との会話が、菜々子の脳裏に蘇った。
 夢……あれは、本当に夢だったのか?
 早く僕を探してとは、小武蔵のことなのか?
 今度は本当のお別れになるとは、いったい、どういうことなのか?
 菜々子は頭を振った。
 いまは、そんなことを考えている場合ではない。
「小武蔵……返事して! どこなの!? 小武蔵ぃーっ!」
 菜々子は絶叫しながら、商店街を駆け続けた。

第十一話に続く)

プロフィール
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
小説家。実業家。映画監督。98年に『血塗られた神話』で第7回メフィスト賞を受賞し、デビュー。“黒新堂”と呼ばれる暗黒小説から、“白新堂”と呼ばれる純愛小説まで幅広い作風が特徴。『ASK トップタレントの「値段」(上・下)』『枕アイドル』『極悪児童文学 犬義なき闘い』『虹の橋からきた犬』(全て集英社文庫)など、著書多数。芸能プロダクション「新堂プロ」も経営し、その活動は多岐にわたる。

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