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海路歴程 第十一回<下>/花村萬月

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 遣り取りをする相手がいなくなると、一日が長い。どのみち昼も夜もひたすら横たわっているのだが、伴助は昼間を嫌悪した。陽射しを避けて、顔まで含めて全身をむしろで覆って転がっている。
 日がかげると、筵を剝いで無窮の闇に瞬く星々にいつまでも眼差しを投げる。ひたすら独りで喋る。精神が分裂したかのように、一人二役で遣り取りする。
 その晩、ざわわと雨風が伴助を擽った。船乗りなので風の種類は肌が覚えている。降雨を直感したが、遅えよ──と伴助は胸中で苦々しく呟き、舌打ちを付け加えた。
 直後、ばらばらと降りはじめ、伴助は仰向けに転がって口を大きくひらいた。もっと早く降ってくれたなら、一人にならずにすんでいたかもしれない。うらみがましく、雨水を口に受ける。
 通り雨だった。
 やらかした、と伴助は顔をしかめた。雨水をまったく器に受けることなく、逃がしてしまったのだ。くぐもった咳払いをきっかけに、どこかに雨水がたまっていないか、だらだら調べた。
 船底に流れこんだ雨水は、海水と混じりあってしまい、飲めたものではない。空になった味噌桶に多少雨水がたまっていたが、まさに雀の涙だった。
 陽が昇り、沈み、昇る。心はともかく、軀は自然の時計に同調してはいるが、それらが無限に繰り返されているように感じ、気が遠くなっていた。
 おおむね陽のある方角からの風ばかり吹いてくるのだが、日方の風は厭な熱をはらんでいるので忌忌しく、ときに呪いの言葉を吐くこともあった。
 ある日、誰が貼りつけたのかわからぬ茶色く変色したぼろぼろの船霊ふなだまの神の札がはためくのを、ぼんやり見守っていた。なんの役にも立たねえ──と立腹気味だった。伴助の念を感じとったのか、はらりと船霊は千切れ、潮風に運ばれて消えた。
 その直後、眼前に磨きあげた鉄の地肌じみた青い塊が飛んできた。実際は傾いた船縁を滑りあがってきたのだが、伴助には飛来したように見えた。
 貞親の首を切開した脇差を手に、素早く動いた。三尺をはるかに超える魚だったので、狙いやすかった。切先を突き立てると、船体に固定してしまった。
 えらの下を刺し貫かれた魚は、大暴れした。委細かまわず背にみつく。肉を引き千切った。滋味が舌から喉に沁みた。脂の旨味と甘味がたまらない。
 魚は骨をあらわにされてしまっても、暴れ続けた。たいした命の力だった。感嘆しながら飽食して、いまさらながらに、こいつはぶりだと得心する。
 こんなうめえもんを食ったことがない、というのが伴助の実感で、それはもちろん空腹ゆえであるが、鰤肉を飽食して一息ついて、醬油まで言わねえ、梅がまさった煮きりでいいから、ひたして食いてえと、あらためて涎をたらした。
 血抜きもされていない鰤の魚体に直にむしゃぶりついて生で食うことを刺身というならば、じつに野趣に富んだ刺身だった。
 鰤は目玉をほじられ、背骨からすべての肉を前歯で削ぎとられ、それどころか伴助は腸や背骨近くに絡みついていた白く細い寄生虫まで包丁で丹念に叩いて食い尽くした。細いくせに、歯で咬み千切ろうとすると奇妙に硬く、じつに難儀させられたからだ。
 烏賊いかや鯖、鮭などに大量に潜んでいる細く小さく白い蚯蚓みみずじみた馴染みの虫だが、鰤にも寄生していることを伴助は初めて知った。このぶんだと、すべての魚の中に這入り込んで、くっついてんだろうな、と得心した。
 蝦夷地では包丁で烏賊の身を細く刻む。烏賊素麵にして、いっしょに寄生虫を切断して殺してしまうのだ。そうしないと七転八倒して死にたくなるような鳩尾みぞおちの痛みに襲われることを伴助は身をもって知っていた。もっとも五日ほどもすれば痛みは治まるのだが、この情況では願いさげだ。
 船霊の神の御利益も一回こっきりだった。けれど季節が変わったのか、三日四日にいちど、雨が降る。伴助は全裸になり、あわせや綿入れなどの着衣に雨水を吸わせ、それをさらに啜る。筵などに染みた水も吸う。椀などに受けるよりも効率がよいからだ。
 陽が昇り、沈み、昇る。陽が昇り、沈み、昇る。陽が昇り、沈み、昇る。ときに雨が降り、また陽が昇り、沈み、昇る。
 嗚呼──と、吐息が洩れる。
 陽が昇り、沈み、昇る。陽が昇り、沈み、昇る。陽が昇り、沈み、昇る。無限の循環が伴助をさいなむ。
 もはや日にちの感覚がない。無限に続く管の中を、ひたすら落下していくかの気分で、気が遠くなる。落下していく管は、気色悪いことにばゆく光り輝いている。明るい嫌がらせだ。始末に負えない。
 ふと思い出したように目のあたりを触るのだが、ぐっと落ちくぼんで、目玉はずいぶん奥まったところにある。それでも、まだまだ歯はしっかりしていると自負している。
 じつは歯に強く力を入れると、ぐらつきが非道ひどい。そのあげく、抜けてしまいそうなので、恐るおそる指先で押して歯茎からにじむ血を舐め、様子を見る程度だから、自負もあてにならない。
 貞親は海水が流入して沈むと騒いだが、甲陽丸はぼろぼろになって左に大きく傾きながらも、健気に浮かんでいる。とはいえ船大工にあれこれ口うるさく指図して拵えた甲陽丸だが、見る影もない。
 それでも伴助は、ときおり原形をとどめぬ甲陽丸に向けて手を合わせる。神仏には手を合わせぬが、甲陽丸のおかげで命をつないでいることを悟っているからだ。
 通り雨の季節のおかげで伴助は、蘭引の火をおこすこともしなくなった。日がな一日薄く笑んで、夜さ来い、夜さ来い──と、よさこいを口ずさんでいる。
 よさこいは慥か薩摩のはやだったはずだ。
 薩摩。
 昆布。
 とんでもねえ目に遭ったなあ、と、他人事のように笑みを深くする。
 孤独も限界に達していたが、自分の声だけがともがらで、夜さ来い、夜さ来いという呪文が伴助を支えた。真の発狂を抑えこんだ。
 夜さ来い、夜さ来い。
 夜さ来い、夜さ来い。
 夜さ来い、夜さ来い。
 夜さ来い、夜さ来い。
 幾億繰り返したか。ついに言葉を忘れちまったと胸中で自嘲するのだが、ついに言葉を忘れちまったと呟いているのは自分で、それはとりもなおさず言葉を喪っていないということで──と、無限の堂々巡りに陥って、意識が遠くなっていく。
 夜さ来い、夜さ来い、夜さ来い、まてよ、この風、地べたの匂いがしやがるぞ。
 夜さ来い、夜さ来い、いや、夜がきたらまずい。気合い入れなおせ、よく見るんだ、風の方角を慥かめろ。
「山だ」
「ちがう、島だ!」
 自問自答というか、一人二役、自身の言葉に己で突っ込むことが当たり前になってしまっている伴助は、独りで遣り取りしながら、かすんでまともにひらかぬ目を叱咤して、瞼を指先で拡げて見やる。
 幻ではない。
「ありゃあ、麦畑じゃねえか?」
「そうだ、あの色は麦だ。じつにまばらで質素なもんだ。貧相と言い切らねえとこが俺の優しさだぜ」
「うるせえよ。麦が生えてるってことは、地面だってことだぞ」
 伝馬が残っていたら、即座に漕ぎだすところだが──。
「燃やしちまったよ」
「燃やした」
「──燃やせ」
 伴助は船首に行き、背を丸めて湿った筵に火を付けた。
 思惑通り派手に煙があがり、助かってもいないのに伴助は安堵した。一方で、唐に流されると殺されるという噂が頭をかすめ、狼煙のろしを消そうかと逡巡した。
「根も葉もねえ噂ってやつだ」
「その心は、唐人に殺されたなら、俺んとこに、そんな噂が伝わってくるはずもねえからだよ」
 己に言い聞かせて、さらに甲陽丸に言い聞かせる。
「いいか、甲陽丸てめえ、最後の御奉公だぜ。燃えろ、燃えろ、派手に燃えちまえ。おかから見えるように、赤々と燃えろ」
 筵からの延焼を当然のように受け容れて、甲陽丸の船首が炎に包まれるのを引いて見守る。潮水が沁みているから火付きはよくなかったが、焰が背丈を伸ばすと、もはや手のつけられぬ荒くれぶりだ。
「泳いで渡れるかな」
「いまのてめえじゃ、無理さ」
「だよな。島の奴ら気付いてくれるかな」
「祈るか?」
「やなこった」
「少しくらい祈ったって罰は当たらねえぜ」
「だよなぁ。けど、神も仏もほんとにつらいときは無視しやがるんだよ。大切なときは頰被ほおかむりだ」
「まあな。奴らの遣り口は身に沁みてる」
「おい、船が──」
「おお、船だ。けど小舟だな」
「ああ、じつに頼りねえ」
「なんでもいい、こっちに来るぞ」
「やべえな、あの小舟が着く前に、甲陽丸は燃え落ちてしまうぞ」
「ははは、てめえで火を付けて、居場所をなくしてやがる。わはは、沈むぞ、沈むぞ」
「笑うとこじゃねえだろう」
「まて、なんか光ったぞ」
「ありゃあ、槍だ。槍の穂先だ」
「まじいな」
「ああ、まじい」
「じつにまじい」
「どーすんだよ」
「どーしようもねえよ」
「あれ? 変な笠、かぶってるぜ」
「唐人笠ってやつかな」
「てことは、唐まで流されたのか」
「御苦労なこった」
 小舟は燃え落ちる寸前の甲陽丸を避け、間近で様子見にはいった。相手が唐人だとしたら言葉が通じるはずもないが、伴助は下肚したばらに力を込めて、怒鳴った。
「俺を殺すか」
 ずいぶん間をおいて、洋上を返答が流れてきた。
「殺さぬ」
「あれ、通じてるじゃねえか」
 安堵した直後、燃え盛る焰が背中をあぶってきた。甲陽丸の別れの挨拶だった。あち、あちち──と剽軽な声をあげ、伴助は海に飛びこんだ。
 足で一搔きしたとたんにった。がぼがぼ沈んで、しこたま海水を飲んだ。息を肺臓にためていなかったので、ひたすら沈む。陽射しが届かぬ深さにまで沈んだせいで、耳の奥が痛んだ。
 目の前が閉ざされるようにくらくなって、人生なんて、こんなもんだよな──と諦めた瞬間、引きあげられた。
 刳舟くりぶねに横たえられた。腹を押されて派手に海水を吐いた。若者の着衣は濡れている。おそらくはこの若者が潜って伴助を救ってくれたのだろう。
 どうにか息がもどって、なにげなく鼻に触れると、途轍もない大きさの鼻屎はなくそが鼻の穴から中途半端にでていた。伴助は引きずりだして刳舟の側面になすりつけた。若者のとがめる眼差しに、薄笑いをうかべて言った。
「たかが丸木舟じゃねえか」
「てめえ、なんてことを吐かしやがる。命の恩人だぞ」
「けど、いくら恩人だって、これを千石船って言えるわけもねえ」
「礼儀ってもんがあるだろ」
「そりゃそうだ。ありがとよ」
 若者以下、独りで遣り取りする伴助を呆気にとられた眼差しで見つめていた。伴助は大きく顔を歪めた。
「ずっと独りだった」
 若者が頷いてくれた。
 伴助は目尻に涙がにじむのを他人事のように感じて、心底からの安堵の息をついた。もう、独りで遣り取りしなくていい──。
 息を整えて、訊く。
「ここは?」
「伊良部」
「いらぶ──。島の名か?」
「伊良部島」
「わからん」
「琉球のうち、伊良部島」
「琉球か!」
 若者が頷く。あわせびんだが、銀としんちゅうかんざしで元結をまとめているところが異国の風情だ。若者が尋ねてきた。
「大和人か」
「やまとんちゅう?」
「大和人か」
「ああ。やまとじんだ。たぶん、そこいらへんだ」
 操船の巧みさもあるのだろうが、刳舟は意外な速さで浜の貧相な船着き場に入った。
 地に立った感慨を押しのけて、真っ先に水と食い物を──と頼むと、若者が女たちに指図した。まず水を飲ませてくれた。一気に飲んではいけないと諭されるのを無視して、ますに八杯飲み干した。
 塩味のする濁りが強く質の悪い水だった。島の井戸によくある味だが、こいつらはこんな水を飲んでやがるのか──と伴助は胸中で独りごち、文句を言えた義理ではないと水の世話をしてくれた女に笑いかけた。
 女は頰をあからめて逃げだした。女の大きなしりの残像が刻まれた。骨格のしっかりした美しい顔立ちだった。伴助の軀が、ずきんと疼いた。己にこのような力が残っていることに呆れつつ、硬直を悟られぬように若干前屈みで、ことさらな笑みを撒き散らす。
 見たこともない固形物を朱塗りの皿に盛って、水を世話してくれた女が上目遣いで伴助の前に置いた。目で訊くと、女は頰笑んで口に運ぶ仕種をして言った。
「マミノムノリ」
 伴助は口中でマミノムノリと復唱し、横柄に頷き、口に抛り込んだ。
 甘い!
 すっげー甘い。
 甘えもんは好きじゃねえんだよ。
 苦々しい顔をつくったつもりだったが、女がそっと手をのばし、伴助の涙を拭ってくれた。心ひそかに、女房にするならこんな女がいいなと憧憬の眼差しを注ぐ。
 伴助はときおり溜息をつきながら、すべて食い尽くした。腹が膨らむと、いまだかつて感じたことのない恍惚が、全身を駆けめぐって逆に動けなくなった。
 どうやら甘藷かんしょと小豆を混ぜてすりつぶして固めたものらしかったが、あまり口にしたことがないので断言できないが、砂糖の甘味であると判じた。一直線といった言葉が泛ぶほどの、すばらしい甘さだった。
 島では唐から渡来した砂糖きびがたくさん獲れることなど、知る由もない。マミノムノリと復唱したくせに、伴助はもう食したものの名を忘れていた。女がさがってしまったので落胆しつつ、じっと見守っていてくれた若者に問う。
「ここは、どのあたりだ?」
「西方、四十八里先によなくり﹅﹅﹅﹅島、さらに四十八里先にたかさご﹅﹅﹅﹅がある」
 よなくり島は与那国島で、たかさごは台湾のことである。さらに若者は三里先のみやこじまには米があると囁くように教えてくれた。伴助が雑に頷くと、矢立をとりだし、地図を描いてくれた。
 大和人の土地、たとえば薩摩が描かれていないこともあって、伴助は、結局は位置関係その他を理解把握できなかった。
 それでも骨折りを惜しまぬ若者に好意をもった。胸の裡で、米があるのが都島──と呟いて絵図を見つめる。ここ伊良部にごく近い大きな島らしい。もちろん正しい表記は宮古島である。
 若者とは遣り取りができたが、女たちをはじめ他の者が喋る言葉は、まったく聞きとれず、理解できなかった。どうやら若者は下役らしかった。
 数日で伴助はずいぶん体力がもどった。若者が上役を連れてきた。役人は大嫌いだが、大和人の役人とちがって威圧的に振る舞うことはなかった。仕事なので、ということで口書=調書をとられた。
 当然ながら伴助は薩摩に昆布といったことは秘し、当たり障りのない事柄に終始して、ゆるい取調を終え、誤りなし、と事実を認めた証しとして爪印をした。
「足軽や百姓町人は口書でよ、さむれえは口上書ってえ御大層な名前に格上げさ」
 若者は肩をすくめただけだった。
「そうか。そういえば、おめえは役人の端くれだもんな」
 若者は、また肩をすくめた。上役から都島に移せと命じられたと、思い出したかのように言う。
「米がある島だな!」
 若者は笑んだ。明日朝、船をだすという。このあたりの潮の流れのことはとんとわからぬから泳ぎ渡れるかどうか確信がもてないが、浜に出れば都島はごく間近に見える。

              〈以下次号〉

(次回に続く)

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【第五回】  【第六回】  【第七回】  【第八回】
【第九回】  【第十回】  【第十一回<上>】

花村萬月 はなむら・まんげつ
1955年東京都生まれ。89年『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年『皆月』で第19回吉川英治文学新人賞、「ゲルマニウムの夜」で第119回芥川賞、2017年『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『風転』『虹列車・雛列車』『錏娥哢奼』『帝国』『ヒカリ』『花折』『対になる人』『ハイドロサルファイト・コンク』『姫』『槇ノ原戦記』など著書多数。

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