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本バカ一代記  ――花の版元・蔦屋重三郎――/吉川 永青

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江戸随一の出版バカ・蔦屋重三郎の生涯を描く、著者渾身の時代小説!
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本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第七話(下)

【前回】          *  天明七年(一七八七)の五月二十日、重三郎は吉原五十間道の見世にあった。次の細見の版下が仕上がったと報せを受け、不備がないかどうか目を通すためである。  それを終えた夕刻、通油町へ戻るに当たって、お甲が見世先まで見送りに出た。 「おまえさん、またね。七月に新しいのを売り出す時ゃ、様子を見に来るんだろ?」 「来るよ。でも、こっちの見世はねえ」  飢饉になってからというもの、吉原からはすっかり客足が遠退いている。通油町で二十文かそこらの本を

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第七話(中)

【前回】          *  米の値はいつまでも下がらず、そろそろ飢饉になると囁かれている。斯様な折、吉原遊里は振るわないのが常だ。昨今では客足も遠退き、どの妓楼も商売が三分目、二分目まで落ち込んでいるのだとか。  然るに今宵、ここ扇屋は賑やかであった。  重三郎は階段を上り、座敷の前に立って「やれやれ」と溜息をつく。そして障子の向こうへ声をかけた。 「もし。蔦屋ですけど」  と、座敷の内に鳴っていた三味線が止み、如何にも上機嫌といった声が返ってきた。 「こりゃ驚い

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第七話(上)

 年が明けて松も取れ、天明四年(一七八四)一月も終わろうとしている。その日の朝一番、耕書堂の前に大八車が止まった。 「毎度どうも。刷り増しの二千、お届けです」  荷運びの男が暖簾をくぐり、威勢の良い声を寄越す。帳場にいた重三郎は「お」と笑みを浮かべた。 「ずいぶん早いね。注文して十日も経っちゃいないのに」  荷運びは「そりゃあね」と軽く笑った。 「遅くなっちゃあ職人の名折れだって、皆しゃかりきになってんでさあ。何しろ旦那んとこの刷り増しは後がつかえてんだから」  浅間山の噴火

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第六話(下)

【前回】           *  悪いことが起きた時、先々は良くなると太平楽に構えていてはいけない。必ずやもっと悪くなると思っていなければ。  重三郎のそういう考え方は、果たして現実となった。  六月の半ば、浅間山は三度目の火を噴いた。その四日後には四度目が起き、これは十日も続いた上に酷い勢いがあった。上州から遠く離れた江戸市中でも、家々の戸板や障子が揺れたほどである。そればかりか、舞い上がった灰が日の光を遮って昼でも闇夜の如くに暗い。空からは灰や砂塵が引っ切りなしに降

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第六話(中)

【前回】          *  吉原五十間道、耕書堂の見世は小さい。十二月十七日、今宵はそこに大勢の客を迎えて年忘れの宴を催していた。応接の六畳間と隣の八畳間――重三郎とお甲の部屋である――を仕切る襖を外し、宴席に仕立ててある。  集う顔ぶれは錚々たるものだった。まず大田南畝がいる。加えて朋誠堂喜三二に恋川春町、朱楽菅江、唐来参和、それら文人の他に絵師の安田梅順や彫り方の藤田金六も集まり、皆で河豚汁を肴にわいわい盃を傾けていた。  その中で、ひとり喜多川歌麿が緊張の面

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第六話(上)

 「どうも、蔦重さん」  小僧に案内されて来た男が、応接の六畳間に入った。歳の頃は三十路手前、鰓の張った四角い顔と切れ長の大きな目に負けん気の強さが見て取れる。 「しばらくだね、豊章さん」  男は名を北川豊章といい、妖怪画で知られる鳥山石燕に師事した絵師である。師の石燕は北尾重政と昵懇で、その縁から豊章も北尾の家に入り浸り、半ば北尾の弟子とも言える間柄であった。  重三郎の左隣で、お甲が「何だい」と拍子抜けした顔を見せた。 「あんたが勿体付けて『人を招いてある』なんて言うから

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第五話(下)

【前回】          *  安永八年の秋、重三郎は丸屋から地本問屋の株を譲り受けた。  通油町にある丸屋の見世も買い取っていたが、その受け渡しには少しばかり時を食うことになった。丸屋小兵衛は他へ居を移すのだが、長きに亘って暮らしてきた場所だけに荷物が多い。それらを全て運び出した上で、重三郎が望む形に建物を造り直すためであった。  それに当たって、まず重三郎は自分だけの見世を持った。吉原の五十間道、次郎兵衛の引手茶屋から五軒右手の向かいであった。何しろ丸屋の奉公人のう

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第五話(中)

【前回】          *  西村屋から聞いた話は全てが真実であった。  明くる日、鱗形屋孫兵衛は奉行所に召し捕られた。取り調べが進められ、沙汰が下ったのは二ヵ月の後である。  裁きの場で、鱗形屋は申し開きをした。盗品だとは知らずに質屋を紹介したのだ、と。  この申し開きは一面で容れられた。だが、全てが認められた訳ではない。  質屋を紹介したことで、結果として盗みに加担した格好になってしまっている。しかも謝礼が多額に過ぎ、これを以て怪しむべきところだったはず。然るに届

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第五話(上)

 お甲が押し掛け女房となってからも、三日に一日は通油町に出向いて丸屋の面々と今後のことを話している。三日のうち、残る二日も多忙であった。件の『娼妃地理記』を刷り増して方々の地本問屋に届ける日もあれば、それらの版元に呼ばれて諸々の話し合いをする日もあった。  一方では妓楼を巡り、本の貸し歩きも続けている。女郎衆にとって本を読むことは数少ない娯楽だからだ。重三郎にしても、細見作りのために妓楼の仔細を摑んでおく必要があった。  そうした次第であるから、お甲の見世番は大いに助かる話だ

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第四話(下)

【前回】          * 「蔦屋さん、こんちは」 「おや、こりゃあ山金堂さん。ようこそ、いらっしゃいまし」  十月に入ったばかりのある日、山崎金兵衛が見世を訪ねて来た。かつて絵双紙の『青楼美人合姿鏡』を共に作った男である。  あの時は儲けの三割で手を打たねばならなかった。地本の株を持たないがゆえの、もどかしさを味わったものだ。とは言え山崎の言い分、山金堂の株で売り出すのだから三割でも弾んだ方だというのは理に適っていた。西村屋与八のような男を知ると、身に沁みてそれが分

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第四話(中)

【前回】          *  二階に導かれて座敷に入ると、緋色の布団が二枚重ねで布かれていた。  浮雲が「どうぞ」と手招きをして、笑みを寄越す。  障子を閉めて布団に腰を下ろすと、染み付いた女の匂いが鼻をくすぐった。男の欲を掻き立てる臭気には、しかし、どこか胸の安らぐ不思議なものがあった。 「何てえのかな。姐さんの布団、いい匂いだね」 「そう? 嬉しいね」  言いつつ、着物を脱いでいる。煌びやかに着飾った姿まで含めての女郎ゆえ、吉原では着物のままで交わるのが作法なのだ

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第四話(上)

 丸屋に地本問屋株の買い取りを持ち掛け、色好い返事をもらうことはできた。とは言いつつ条件付きである。  本当に価値あるものだけを売り出そうと思って商売をしてきたが、巧くいかなかった。同じ思いで商売をするのなら、巧くできるという証を見せて欲しい。丸屋小兵衛はそう求めた。  それに対して言い放った。世の中と勝負をして、きっと勝って見せると。  株を持たない自分にできることは少ない。しかし手管が限られているからこそ、何をすれば良いのかは見えていた。このやり方なら、きっと丸屋小兵衛を

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第三話(下)

【前回】          *  山崎金兵衛に頼んだ絵双紙は、明けて安永五年(一七七六)の一月に形になった。題して『青楼美人合姿鏡』である。 「よし。今回も、いい仕上がりだ」  深い紺色の表紙が、厚みも手伝って落ち着きを醸し出している。多色刷りになった北尾と勝川の絵を見ると、うきうきした気持ちが湧き上がってきた。山崎金兵衛との談判では悔しい思いもしたが、手掛けた本が形になったのを目にすると、その悔しさも帳消しになるかのようだった。 「こいつぁ売れる。間違いなし」  さっそ

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第三話(中)

【前回】          *  初めて細見を作り、売り出してから一ヵ月が過ぎた。蔦屋版の細見は上々の売れ行きで、今までの鱗形屋版を超える勢いである。  これに驚いたか、或いは喜んでくれたのか、北尾重政が訪ねて来た。 「よう三の字」 「こりゃ先生。今日って、お座敷の日でしたっけ?」  北尾は「違うよ」と笑った。 「細見の評判がいいってもんで、わざわざ挨拶しに来てやったんだ。おまけに」  そう言ってにんまり笑みを浮かべ、見世の外に「入んなよ」と声を向ける。応じて入って来たの