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本バカ一代記  ――花の版元・蔦屋重三郎――/吉川 永青

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江戸随一の出版バカ・蔦屋重三郎の生涯を描く、著者渾身の時代小説!
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本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第十話(上)

 三月には滝沢興邦を手代として迎えた。七月には喜多川歌麿の『婦人相学十躰』を売り出し、再び大当たりを取った。  そうした中で寛政四年(一七九二)が暮れようとしている。  十二月五日の晩、重三郎は蔵前の西福寺にあった。  昨日、勝川春章が世を去った。六十七歳の生涯であった。今宵はその通夜、広く寒々しい本堂に厳かな読経の声が流れている。 「お焼香を」  導師に促され、春章の家族がひとりずつ前に進む。各々、通夜に参じた面々に頭を下げて礼を尽くし、香を手向けていった。  家族の次は春

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第九話(下)

【前回】           *  朝一番、耕書堂に山ほどの荷が届けられた。山東京伝の筆禍から三ヵ月余り、寛政三年の六月も終わらんという日であった。  紙に包まれたその品は、七月に売り出す絵――喜多川歌麿の美人画である。十枚ひと組の小箱入りで、深緑の蓋の中央に『婦女人相十品』と記した札が貼られていた。  その蓋を開け、一枚を手に取る。仕上がりの素晴らしさに、重三郎はぶるりと身を震わせた。 「こんなに良く刷れてるとは……」  手にした絵は、歌麿から最初に受け取った「煙草を吸

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第九話(中)

【前回】           * 「北町奉行、初鹿野河内守様。ご出座」  重々しく太鼓が響く中、その声が高らかに上がった。  重三郎は白州に敷かれた筵に座り、平伏して奉行を待つ。左隣では山東京伝が同じように平伏し、恐怖のあまり身を震わせていた。  やがて、静かに足を運ぶ音が届いた。衣擦れの音、静かに腰を下ろす音。次いで、低く厳かな声が渡る。 「地本問屋・耕書堂の主、蔦屋重三郎。並びに戯作者・山東京伝こと京屋伝蔵。面を上げい」  これに従って平伏を解けば、奉行は重三郎とそう

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第九話(上)

 かつて女郎・菊園だった女――今では山東京伝の妻となったお咲が、茶を運んで来た。 「どうぞ、旦那」 「ありがとうございます」  重三郎は会釈をひとつ返した。お咲が下がると湯呑みから少し啜り、正面の京伝に向いて口を開く。 「今日来たのは他でもない。次の本の話なんだけどね。洒落本を書いちゃくれないか」 「へ? 黄表紙じゃないんですかい?」  少し驚いた顔である。分からぬでもない。ずっと黄表紙を書かせてきたのが一転、遊里に材を取った艶話を書けと言われたのだから。 「どうだろう。嫌か

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第八話(下)

【前回】           *  恋川春町と朋誠堂喜三二は、間違いなく江戸に於ける戯作の第一人者だった。その二人を、重三郎は失った。  それでも足踏みする訳にはいかなかった。本で勝負して流行りを作り出したい。世を動かし、明るく照らしたい。胸の内にある思いは変わることがないのだから。 「京伝さん、どうも」  春町の死から三ヵ月、十月初めの昼前に、重三郎は山東京伝の自宅を訪ねた。二人の大家を失った今、京伝こそが次の第一人者となるべき人であった。 「お、こりゃ蔦屋の旦那。よ

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第八話(中)

【前回】          * 「はいはい、順番ですからね。本はまだ、たんとありますから」  列を成す客に向け、見世の前に出た手代が声を張り上げている。並んでいるのは、ざっと百人だ。気短な江戸っ子がこれだけ集まると、順番待ちをさせるのもひと苦労らしい。 「いやはや、すごいね。ここまでとは」  少し離れた辻から行列を眺め、重三郎は呆気に取られた。小正月――一月十五日の晩を吉原五十間道の見世で過ごし、今朝一番で通油町に戻ればこの騒ぎである。 「ちょいと元八さん」  客を捌い

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第八話(上)

 町衆は、細々とでも食い繋げればそれで良かった。少しで良いから助けてくれと、国を動かす人たちに懇願した。  しかし。これを退けられ、ついに打ち毀しに走ってしまった。  こんな騒ぎが起きた後で、どうやって商売を続ければ良いのだろう。そもそも商売をしていられるのだろうか。  幕府がどうするか次第で成り行きは変わる。何とか、それを知り得ないものか。  考え抜いた末に、重三郎は朋誠堂喜三二を訪ねた。喜三二の実の名は平沢常富、秋田藩江戸屋敷の留守居役である。他藩や幕府との折衝を担う人な

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第七話(下)

【前回】          *  天明七年(一七八七)の五月二十日、重三郎は吉原五十間道の見世にあった。次の細見の版下が仕上がったと報せを受け、不備がないかどうか目を通すためである。  それを終えた夕刻、通油町へ戻るに当たって、お甲が見世先まで見送りに出た。 「おまえさん、またね。七月に新しいのを売り出す時ゃ、様子を見に来るんだろ?」 「来るよ。でも、こっちの見世はねえ」  飢饉になってからというもの、吉原からはすっかり客足が遠退いている。通油町で二十文かそこらの本を

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第七話(中)

【前回】          *  米の値はいつまでも下がらず、そろそろ飢饉になると囁かれている。斯様な折、吉原遊里は振るわないのが常だ。昨今では客足も遠退き、どの妓楼も商売が三分目、二分目まで落ち込んでいるのだとか。  然るに今宵、ここ扇屋は賑やかであった。  重三郎は階段を上り、座敷の前に立って「やれやれ」と溜息をつく。そして障子の向こうへ声をかけた。 「もし。蔦屋ですけど」  と、座敷の内に鳴っていた三味線が止み、如何にも上機嫌といった声が返ってきた。 「こりゃ驚い

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第七話(上)

 年が明けて松も取れ、天明四年(一七八四)一月も終わろうとしている。その日の朝一番、耕書堂の前に大八車が止まった。 「毎度どうも。刷り増しの二千、お届けです」  荷運びの男が暖簾をくぐり、威勢の良い声を寄越す。帳場にいた重三郎は「お」と笑みを浮かべた。 「ずいぶん早いね。注文して十日も経っちゃいないのに」  荷運びは「そりゃあね」と軽く笑った。 「遅くなっちゃあ職人の名折れだって、皆しゃかりきになってんでさあ。何しろ旦那んとこの刷り増しは後がつかえてんだから」  浅間山の噴火

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第六話(下)

【前回】           *  悪いことが起きた時、先々は良くなると太平楽に構えていてはいけない。必ずやもっと悪くなると思っていなければ。  重三郎のそういう考え方は、果たして現実となった。  六月の半ば、浅間山は三度目の火を噴いた。その四日後には四度目が起き、これは十日も続いた上に酷い勢いがあった。上州から遠く離れた江戸市中でも、家々の戸板や障子が揺れたほどである。そればかりか、舞い上がった灰が日の光を遮って昼でも闇夜の如くに暗い。空からは灰や砂塵が引っ切りなしに降

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第六話(中)

【前回】          *  吉原五十間道、耕書堂の見世は小さい。十二月十七日、今宵はそこに大勢の客を迎えて年忘れの宴を催していた。応接の六畳間と隣の八畳間――重三郎とお甲の部屋である――を仕切る襖を外し、宴席に仕立ててある。  集う顔ぶれは錚々たるものだった。まず大田南畝がいる。加えて朋誠堂喜三二に恋川春町、朱楽菅江、唐来参和、それら文人の他に絵師の安田梅順や彫り方の藤田金六も集まり、皆で河豚汁を肴にわいわい盃を傾けていた。  その中で、ひとり喜多川歌麿が緊張の面

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第六話(上)

 「どうも、蔦重さん」  小僧に案内されて来た男が、応接の六畳間に入った。歳の頃は三十路手前、鰓の張った四角い顔と切れ長の大きな目に負けん気の強さが見て取れる。 「しばらくだね、豊章さん」  男は名を北川豊章といい、妖怪画で知られる鳥山石燕に師事した絵師である。師の石燕は北尾重政と昵懇で、その縁から豊章も北尾の家に入り浸り、半ば北尾の弟子とも言える間柄であった。  重三郎の左隣で、お甲が「何だい」と拍子抜けした顔を見せた。 「あんたが勿体付けて『人を招いてある』なんて言うから

本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第五話(下)

【前回】          *  安永八年の秋、重三郎は丸屋から地本問屋の株を譲り受けた。  通油町にある丸屋の見世も買い取っていたが、その受け渡しには少しばかり時を食うことになった。丸屋小兵衛は他へ居を移すのだが、長きに亘って暮らしてきた場所だけに荷物が多い。それらを全て運び出した上で、重三郎が望む形に建物を造り直すためであった。  それに当たって、まず重三郎は自分だけの見世を持った。吉原の五十間道、次郎兵衛の引手茶屋から五軒右手の向かいであった。何しろ丸屋の奉公人のう