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本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第六話(中)
*
吉原五十間道、耕書堂の見世は小さい。十二月十七日、今宵はそこに大勢の客を迎えて年忘れの宴を催していた。応接の六畳間と隣の八畳間――重三郎とお甲の部屋である――を仕切る襖を外し、宴席に仕立ててある。
集う顔ぶれは錚々たるものだった。まず大田南畝がいる。加えて朋誠堂喜三二に恋川春町、朱楽菅江、唐来参和、それら文人の他に絵師の安田梅順や彫り方の藤田金六も集まり、皆で河豚汁を肴にわいわい盃を傾けていた。
その中で、ひとり喜多川歌麿が緊張の面持ちであった。
「なあ蔦重さん。俺、ちょっと場違いじゃねえか?」
左脇の席から寄越された小声に、重三郎は「何言ってんです」と苦笑を返した。
「いつもの自信と威勢はどうしたんだい」
「自分の絵に自信はあるさ。けど俺はまだ世に認められちゃいねえ」
いずれ劣らぬ大家を前に気後れしているらしい。なるほど当人が言うとおり、売れっ子の中に駆け出しの歌麿は確かに場違いである。それと分かっていながら同席させたのは――。
「ここにいるのは江戸狂歌を引っ張る人たちなんだよ。あんた、それに絵を付けるんだから仲良くなんないと」
ずけずけと皆の輪に踏み込んで行くのは、確かに不躾であろう。だが歌麿も、少しずつでも話に加われるようでなくてはいけない。
「さっき皆さんに紹介して、これからよろしくって言われたろ?」
「まあ……。うん。そうだな」
歌麿が深く息をして「よし」と気持ちを入れる。とは言え、気持ちが入り過ぎてもいけないのだが。
などと思ったところへ、障子の外からお甲が声をかけた。
「あんた。北尾先生がお見えになったよ」
すっと障子が開き、北尾重政が二人の弟子を連れて「よう三の字」と右手を上げた。
「お招き、ありがとうよ。遅くなってすまねえ」
重三郎は「いえいえ」と笑みを見せた。
「まだ始まったばかりですよ。さぁさ、お席にどうぞ」
重三郎の右前には三つ並んで席が空いている。一番近くに北尾、隣に弟子の北尾政演、次いで北尾政美が座を取った。
三人の顔を見て、歌麿が軽く息をついた。かつては北尾の家に入り浸っていた身、三人とは互いに良く知り合った間柄である。少しは硬さも取れたろうか。
「北尾先生、どうも」
歌麿は軽く挨拶して銚子を取り、酌をしに向かう。北尾も「よう」と面持ちを綻ばせた。
「豊章……じゃねえや、歌麿になったんだっけ。ここんとこ俺ん家に来ねえじゃねえか」
「ええ、まあ。最近は耕書堂を手伝いながら絵を描いてますよ」
北尾は「そうかい」と頷き、歌麿の酌を受けて盃を嘗めた。
「西村屋に干されて、どうなることかと思ったけどな。まあ三の字を……いや、いつまでも三の字じゃいけねえか。重三郎を信じて頑張れよ」
西村屋に紹介したのは当の重三郎だが、それとて本物と認めたからこそであり、足掛かりを作ってやろうという親心だと諭す。歌麿も「分かってますよ」と良い笑顔を返した。
「蔦重の旦那も西村屋にゃ怒り心頭ですからね。二人で組んで吠え面かかせてやりますよ」
「よし。それでこそ男だぜ」
北尾は大きく頷き、向かいに並ぶ席の面々に「皆さん」と声をかけた。
「この歌麿、前は俺ん家に入り浸ってやがったんですよ。で、うちの小間使いの娘を口説いて嫁にしちまった色男です」
「いや! いや先生、何言ってんです」
歌麿が慌てて、北尾を遮ろうとする。ところが向かいの席からは「そりゃ粋だ」「いいぞ女泣かせ」と、やんやの喝采が飛んだ。
「ほら。馴れ初めの話でもして来い」
北尾に軽く肩を叩かれ、歌麿は苦笑交じりに向かいの席へ向かって行った。
顛末を見て、重三郎は「やれやれ」と息をつく。
「北尾先生、ありがとうございます。巧く取っ掛かりを作ってもらって」
「いいってことよ。俺も、あいつの絵は本物だって思ってんだ。おめえさんとこで売れっ子になって欲しいからな」
などなど話しながら酒を酌み交わすうち、歌麿を迎えた面々から時折どっと笑いが起きるようになる。楽しげな様子を見て、北尾の弟子たち――政演と政美が笑いの輪に加わって行った。
その姿を眺めながら、北尾が「ところで」と話の向きを変えた。
「なあ。うちの政演、絵の他に物書きもしてんのは知ってるよな」
「そりゃ、もちろん」
北尾政演は耕書堂の黄表紙に挿絵を入れており、仕事での繋がりも深い。浮世絵の他に戯作も手掛けていることは、当然ながら承知していた。
「いいですよねえ、政演さんの物書き」
「だろ? 実は俺も、あいつは絵より物書きの方に天分があるんじゃねえかって思うんだ」
「当人は何て?」
「そこそこ売れて、吉原で遊べりゃ何でも構わねえらしい」
互いに苦笑を向け合って、しかし北尾は「それじゃ、いけねえんだよ」と溜息をついた。
「政演の野郎、根っからの遊び好きでなあ。本気でやりゃあ喜三二さん並みになれるってのに」
「鶴屋から出した黄表紙、結構売れてますよね」
「おう。だが……」
このところ、鶴屋の勢いが失われてきているらしい。耕書堂が朋誠堂喜三二の黄表紙で一気に名を売り、西村屋と鎬を削り合っているのが一因だと、北尾は言う。
「鱗形屋は先代が所払いになってから鳴かず飛ばずだ。鶴屋も、じゃあ西村屋を抜けば一番になれるって、しゃかりきになってたんだがな。おめえさんが人目を引くようになったもんだから、すっかり目立たなくなっちまった」
「ありゃ。それじゃ、あたしの商売が政演さんの足枷になってんですか」
北尾は「いやいや」と笑った。
「おめえさん、誰が書いたって面白えもんは面白えって、いつも言ってんだろ? それと同じことで、どこの版元から出したって面白えもんは面白え。なのに」
鶴屋が今ひとつパッとしないものだから、政演は未だに「戯作は絵の片手間」としか考えていないのだという。
「そこを、おめえさんに変えてもらいてえ」
話を聞いて、重三郎の酒面がぴしりと引き締まった。
「分かりました。鶴屋さんから引き剥がせってことですね」
「俺たち絵描きや物書きが、そんなこと頼んじゃいけねえんだけどな。でも、おめえさんが鍛えてくれたら政演は本物になる」
北尾が「ほれ」と銚子を差し出す。盃に残った酒をぐいと干し、酌を受けた。
すると向かい側の席から、大田南畝が「おうい」と声を上げた。
「蔦屋さん、そろそろ肴がなくなりそうですよ」
宴たけなわ、河豚汁の鍋が九分どおり空になっている。ならばと、重三郎はにこやかに声を上げた。
「まだまだ、お開きには早いですね。どうです皆さん、これから里の見世に繰り出すってのは」
満座から「いいねえ」「行こう行こう」と声が上がる。重三郎は使用人の小僧を呼び、義弟・次郎兵衛の引手茶屋・蔦屋へ走らせた。
小僧は少しの後に戻って来た。
「旦那様、大文字屋なら空いてるって話です」
吉原大門を抜けて仲之町を真っすぐ行き、一番奥の右手。京町一丁目の大籬であった。
「それじゃあ繰り出しますか」
重三郎の声で、皆がぞろぞろと宴席を出て行く。最後に北尾と連れ立って出ようとすると、歌麿がひとり腰を上げていなかった。
「歌麿さん何やってんだい。行くよ」
「え? 俺もかい? 金が余計にかかるだろうに」
「構わないよ。あんた、もっと皆に顔を売らなきゃいけないんだから。支払いの分だけ余計に絵を磨いてさ、追って儲けさせてくれりゃあいいよ」
そう言うと、歌麿は強く何かを嚙み締めるような顔で頷いた。
この日以降、重三郎は歌麿を引き回し、文人や絵師たちの付き合いに溶け込ませていった。歌麿もそれに応えるべく、一層の研鑽を積んでゆく。
年が改まって天明三年(一七八三)を迎え、重三郎は三十四歳を数えた。
この年の一月、耕書堂からは多くの黄表紙や洒落本が売り出された。これは今まで以上の売れ行きを見せ、評判も上々であった。
頃合や良し。七月の新刊では、いよいよ狂歌絵双紙を売り出そう。重三郎はそう考え、あれこれの算段を付け始めていたのだが――。
*
版元になって貸本は止めたのかと言えば、逆に少しばかり商売を広げていた。版元の利益を食ってしまう商売ではあれ、過ぎなければ本の宣伝にはなり得るからだ。
とは言え貸し出す数はあまり増やさず、代わりに貸し歩く町を増やしている。重三郎ひとりで切り盛りしていた頃は吉原遊里の内だけだったものが、今では手代の鉄三郎に貸し歩きを任せ、日本橋界隈まで回らせていた。
五月も終わろうかという日の昼過ぎ、その鉄三郎が泡を食って戻って来た。
「だ、旦那様! 大変ですよ」
狂歌本に載せる歌を選んでいると、障子の外から呼ばわる声がする。いつもより多分に戻りが早い。何ごとかと手中の紙束を置いて立ち上がり、手ずから障子を開けてやった。
「どうしたんだい、えらく慌ててんじゃないか」
「これ、これ見てくださいよ」
差し出されたのは瓦版であった。立ったまま目を落とせば、大見出しに「浅間の山がまた焼けた」と書かれている。つまりは上州の浅間山が噴火を起こしたという一報であった。
「え? またかい」
この年、浅間山の噴火は初めてではなかった。二ヵ月ほど前、四月の頭にも三日に亘って噴火を起こしている。昔から幾度となく噴火を繰り返し、六年前と七年前にも二年続きで噴火した山ではあるのだが、わずか二ヵ月で立て続けにという話は聞いたこともない。
「鉄三郎さん。今んとこ、町には砂も灰も降っちゃいないんだろ?」
「え? あ、はい。それは」
瓦版から目を離して問うと、鉄三郎は落ち着きなく幾度か頷いた。重三郎は「分かった」と軽く頷き返す。
「今日のところは、貸し歩きはやめておこう。この先も、浅間山のご機嫌を窺いながらってことにするよ」
「いいんですか? 先々はそれでいいとしても、今日はまだ半分も回ってませんけど」
「こんな瓦版が出回ってんじゃ、誰も本には目が向かないよ。あんたには七月の細見も任せてんだし、そっちの方を進めといてくださいな」
鉄三郎は「分かりました」と会釈して下がった。面持ちには、どこか落ち着きのないものが見て取れる。思いは重三郎も同じだった。
「何てえんだろうね……。どうにも」
虫が報せるとでも言うのか、胸が騒いでならない。瓦版に目を戻し、しばし黙って考える。
やがて重三郎は「仕方ねえな」と眉を寄せて部屋を出た。そして奥へ進み、裏庭の小屋へと足を運ぶ。
「歌麿さん。ちょっと、いいかい」
歌麿は既に妻を娶って自宅もある身だが、わざわざこの小屋を設えてやった。絵に没頭してもらうためである。ゆえに普段は声をかけない。今日に限って呼ばれたのが珍しかったのだろう、中から「ん?」と怪訝そうな声が返る。
「旦那? どうしたんです」
重三郎は引き戸を開けて中に入り、鉄三郎が持って来た瓦版を手渡した。
「これ、見ておくれよ」
歌麿は「どれどれ」と目を落とし、途端に面持ちを曇らせた。
「おいおい。またかよ」
「そう。またなんだよ」
何とも言えぬ無言の時が流れる。溜息ひとつ、重三郎はまた口を開いた。
「こんな次第だ。狂歌の絵双紙、ちょっと先延ばしにしようかと思ってね」
「待ってくれよ。浅間のこれ、続くってのかい?」
「まあ、勘だ……としか言いようがないんだけどさ」
然り、何かしら確かな理由がある訳ではないのだ。それでも、と重三郎は続ける。
「ねえ歌麿さん。狂歌ってのは元々、世に名前を知られた人たちのお遊びだろ? あれこれ風流を知って、初めて楽しめるものさ」
「それを俺の絵で伝えろって、旦那は言った」
「だね。けど、もしも浅間山のご機嫌が悪いままだったら、狂歌の本はきっと当たらないよ」
八十年ほど前、富士山が大噴火を起こして世の中が混乱したことがあった。重三郎も歌麿も生まれる前の話だが、諸々の書物を繙けば、往時が如何に酷い有様だったかが分かる。
その時は、遠く江戸にまで灰や砂塵が降り落ちたそうだ。そしてこの灰が、田畑に於いては極めて厄介な代物なのである。
まず灰が降った地は土が悪くなり、向こう二、三年はまともに米や青物が育たなくなる。灰によって日の光も大きく遮られ、ただでさえ育たない作物が余計に育たない。結果、百姓は年貢を納めることもできず、食い詰めた挙句に田畑を捨てて逃げてしまう。
「富士山の時は、そういう百姓衆が江戸に流れて来たそうだ」
その江戸も、灰が日を遮って空が暗い。おまけに、そこら中に飢えた流れ者がうろついているとあって、江戸町人の気持ちも否応なく沈んでしまった。
「歌麿さんなら知ってるだろうけど、その時は飢饉になっただろ?」
今度の浅間山でも同じになったら、皆が気持ちを萎えさせ、食うものにもこと欠くようになるだろう。そんな折に狂歌――文人や絵師のお遊びを本にすれば、人々は臍を曲げるに違いない。
「自分の気持ちや暮らしが儘ならない時ゃ、人は僻みっぽくなるもんさ」
お高く止まりやがって。金を持っている奴はいい気なものだ。そういう受け取られ方をするのが見えている。
「そりゃ分かるけどよ。旦那が言ってんのは、このまま浅間が火ぃ噴き続けたらの話だろ?」
取り越し苦労ではないのか、と歌麿は首を傾げる。重三郎は「そうだね」と肯んじつつ、それでも自らの考えを取り下げようとはしなかった。
「そうそう悪いことは続かない、先々は良くなるって思ってちゃ駄目なんだよ。何か悪いことが起きたら、必ずもっと悪くなるって思ってなけりゃ商売はできない」
身構えていて無駄になる。取り越し苦労で終わる。その方が、太平楽に構えて余計に痛い目を見るよりずっと良い。重三郎の言葉に、歌麿は「やれやれ」と軽く頷いた。
「分かったよ。俺と女房は旦那にもらう銭で飯食ってんだ。けど、そんなんじゃあ耕書堂の商売も上がったりじゃねえのかい?」
「それはないね」
きっぱりと首を横に振った。
某かの災いがあった時、人の気持ちは暗く沈む。周りが苦しんでいる中、自分が楽しい思いをしていて良いのだろうかと、誰もが行ないを慎んでしまうものだ。
しかし、果たしてそれで良いのだろうか。十年以上も前、吉原が火事で焼け落ちた時にも同じことを考え、貸本に精を出したものだ。
「皆が萎れて静かにしてたら、世に蔓延った悪いものは抜けないんだよ。そんな時でも気持ちを楽しませて、憂さを晴らさなきゃ」
人が集まって世を作っている以上、皆の気持ちが沈んだままで良い方に向かうはずがない。一時だけでも辛さを忘れ得るもの、娯楽は欠かせないものなのだ。
「元から江戸にいる人だけの話じゃあないよ。浅間の一件で流れて来る人があるんなら、その人たちの気持ちこそ明るくなんないといけない。萎れたまんまじゃ、どうやったって次に進もうって気にはなれないだろ?」
そんな時、本は人々の心を癒し得る。高くても三十文くらいで贖えるし、貸本ならその何分の一かで楽しめる手頃な娯楽なのだ。
重三郎の言い分を聞いて、歌麿も「なるほどね」と頷いた。
「旦那の言うことは分かった。で、どんな本で世の中を奮い立たせるつもりだい?」
「決まってるだろ。黄表紙だよ」
狂歌は文人や絵師たちのお遊びであり、人々の不興を買うかも知れない。だが黄表紙は違う。ただ楽しいというだけで読める物語なのだ。
「物書きさんたちが、どんなに気持ちを入れて書いてるかを考えると……本当はもっとじっくり読んで欲しいんだけどね。しばらくは『楽しい』だけでも上等さ」
それによって人々の気持ちはきっと上向く。萎れてしまいそうな世の中を、きっと明るく動かしてやれる。重三郎はそう言って、歌麿に真剣な目を向けた。
「狂歌を先送りにする代わりに、今年の七月と来年の一月は黄表紙を増やす。歌麿さんにも挿絵を頼むからね。それから、あんたの奥さん。お千代さんね。あの人も絵は描くんだろ?」
「え? お千代にも描かせる気かい?」
「黄表紙を増やすにゃ絵師が足りないんだ。もちろん金は出すよ」
歌麿が呆気に取られている。対して重三郎は戦いに臨む男の顔であった。
〈次回に続く〉
【プロフィール】
吉川 永青(よしかわ・ながはる)
1968年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞、22年『高く翔べ 快商・紀伊國屋文左衛門』で第11回日本歴史時代作家協会賞(作品賞)を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『ぜにざむらい』『乱世を看取った男 山名豊国』『家康が最も恐れた男たち』など。
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