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本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第六話(下)

【前回】

          *

 悪いことが起きた時、先々は良くなると太平楽に構えていてはいけない。必ずやもっと悪くなると思っていなければ。
 重三郎のそういう考え方は、果たして現実となった。
 六月の半ば、浅間山は三度目の火を噴いた。その四日後には四度目が起き、これは十日も続いた上に酷い勢いがあった。上州から遠く離れた江戸市中でも、家々の戸板や障子が揺れたほどである。そればかりか、舞い上がった灰が日の光を遮って昼でも闇夜のごとくに暗い。空からは灰や砂塵が引っ切りなしに降って来るという有様だった。
 さらに七月の初め、浅間山はひと際大きな噴火を起こした。西麓の前掛山まえかけやまはまさに火の海、北麓に流れた溶岩は吾妻川あがつまがわを塞いだ。行き場を失った水が溢れ出し、下流に当たる利根とねがわに流れ込んだ挙句、これも溢れさせてしまう。利根川沿いに広がる田畑まで、根こそぎ洗い流された。
 この噴火を境に、どうにか浅間山は動きを止めてくれた。ようやくひと安心と思いきや、今度は住処すみかを失った百姓衆が江戸に押し寄せて来る。八十年前、富士山が噴火した時と全く同じになってしまった。
 どうなるのだろう。こんなことで日々を暮らして行けるのか。その不安ゆえだろう、灰の降り注ぐ中で外に出る者は少ない。吉原遊里もさすがに閑古鳥、耕書堂にも客は来ないとあって、重三郎はしばし見世を閉めた。
 そして七月は半ばを過ぎた。
「やれやれ。酷いな、こりゃあ」
 この五日ほど何ごともなく過ぎた。そろそろ、と思って間口を開けてみれば、目の前の五十間道には灰が積もり、土色だった道が嫌な黒さに変わっている。
「小僧さんたち、まずは掃除だよ」
 声をかけると、皆がほうきを手に外へ出て行った。重三郎とお甲、手代たちは見世の中に入り込んだ灰を外に掃き出さねばならない。
 ような有様ゆえ、七月の新刊は売り出しが遅れた。それも初めのうちは全く売れなかったのだが――。
「旦那様、いいお話ですよ」
 再び見世を開けて概ね一ヵ月、八月も下旬に差し掛かった頃、本の貸し歩きから帰った鉄三郎が満面の笑みでそう告げた。
「お? どんな話だい」
「七月売り出しの黄表紙、それぞれ二千ずつ刷り増して欲しいって。これ、注文書きです」
 日本橋界隈の商家に本を貸し歩いていたら、取次の者につかまったのだという。手渡された注文書きに目を落とし、重三郎は「うん」と笑みを浮かべた。
「里の見世にもちらほら客足が戻って来たし、そろそろだと思ってたよ」
 長きに亘る天災が収まっても、この一ヵ月は江戸の全体が萎れきっていた。が、沈んだ気持ちを抱えたままの暮らしはやはり辛い。ことに江戸の町人は気短で、そういう鬱屈を疎ましく思い始めているようだ。それがあかしに、鉄三郎の背負しょいにある本の包みもだいぶ小さくなっていた。
「貸本も、いい按配あんばいに出てるみたいだね」
「はい。七月のだけじゃなくて、一月のも借りる人が多いですよ」
 返答を受けて頷く。胸の内には「これなら」と次の一手が浮かんでいた。
「ともあれ、今日もご苦労さん」
 鉄三郎をねぎらって、部屋に下がった。
 障子を開ければ、お甲が某かの黄表紙に目を落としている。
「お甲、いいかい。ちょっと相談があるんだが」
「構わないよ。何だい」
 重三郎は女房の前に膝詰めで座り、ひとつ頷いて切り出した。
「引っ越しをしたいんだ」
「え? どこに?」
「日本橋、通油町とおりあぶらちょうまるさんの見世だよ。耕書堂が大きくなった、ってのを花火みたいにドカンとぶち上げてやろうかと思ってさ」
 ほんとい株を買い取った折、丸屋の見世も併せて買い取った。建物が古いために諸々の修繕が必要で、かつ重三郎が使いやすいように間取りなどの手直しも加えていたのだが、あと十日ほどでそれも終わると聞いている。
 もっとも、お甲は軽く眉を寄せて思案顔であった。
「いやあ……まだ早いんじゃない?」
「まあ、本当は十一月に受け渡しのはずだったからね」
「違うよ。そういうこと言ってんじゃないの」
 浅間山の一件以来、江戸の暮らしは重苦しくなっている。さすがに昼日中でも暗いということはなくなったが、一方では難を逃れた大勢の百姓が寺社にたむろしており、皆が日々それを目にしているからだ。
「そんな時に景気のいい話なんて、かえって嫌われるって思うけどね」
 お甲の懸念するところを聞くも、重三郎は「それなら大丈夫」と返し、鉄三郎から受け取った注文書きを畳の上に広げた。
「刷り増しの注文が来るくらいさ。皆、そろそろ楽しい思いをしたくなってんだよ」
 しかしお甲は、なお眉を寄せる。
「だから派手に立ち回るてえの? 喜三二先生の黄表紙で西村屋といい勝負になってから、あんた、それなりに有名人じゃないさ。しかも世の中、あんたみたいな本バカだけじゃないんだよ」
 本に興味のない者にとっては、しゃくに障るだけの話だろう。ひと山当ててもうけた者に、庶民の苦しみは分からない――そういうひねくれた考え方をして、挙句、叩き殺す勢いでこき下ろしに掛かるのではないか。
「儲けてる奴は貧乏人のために何かしろ! って、みっともないこと平気でえるのが人ってもんさ。あんたはいつも胸張ってるから分かんないだろうけど、ほとんどの人はねたみとひがみで生きてんだ」
 なるほど、さすがは女郎として十年を勤め上げた女だ。人というものを良く見て、良く知っている。派手な振る舞いばかりを見せれば、確かにお甲の言うとおりになるだろう。
 しかし、と重三郎は丁寧に返した。
「そこも重々考えてるよ。なあ、お甲。あたしは本屋だ。世の中が苦しくて、あっちこっちの百姓衆が食い詰めてるからって、米を回してやることはできない。いやまあ……やろうと思やあ、できるんだけどさ。それは本屋が手を出すことじゃない」
 こんな時にはおかみが蔵を開いて施すのが筋なのだ。助力すべき者がいるとしたら、それは米問屋であろう。
「でもね。儲けてる奴は何かしろって話には、本屋なりのやり方があると思うんだよ」
 人は食のみで生きるのではない。如何に腹を膨らせても、心が膨れないままでは満たされない生きものなのだ。
「あたしが目立つ奴だって言うんなら、もっと目立つ方がいい。腹を膨らせるのは他に任せて、心を膨らせてやるために、ひと肌脱ぐんだよ」
 話すうちに、向かい合う目が丸くなっていった。
「まさか……。本、ロハで配るつもり?」
「いや、金は取るよ。でも儲けは取らない。刷りとじの額だけで売るんだ。一文の得にもならない商売さ」
 ここに至って、お甲は「なるほど」と得心顔になった。
「女郎のお愛想と同じ。だね?」
「そういうこと」
 嫌な男、気分の悪い相手であれ、女郎は自分に付いた客を持ち上げるものだ。その場では一文の得にもならないが、そうしたお愛想を言うことで客は再び遊びに来るようになる。儲からない話が後々の儲けに繋がるのだ。
「あんた、また勝負する気なんだね。あたしに何ができる?」
「そう言ってもらえると思ってたよ。おまえには――」
 重三郎は自分なりの考え方、向かい風にどう立ち向かうのかを話していった。
 そして半月ほど、耕書堂は日本橋通油町に見世を移した。近辺には大手の版元が多い。この界隈に見世を構えるとは、すなわち一流のしょになったという証であった。
 丸屋から買い取った見世は、吉原の見世と比べて少しばかり広い。その分だけ人を増やしやすく、より多くの本を手掛けられるということである。
 これを切り盛りするための手には、かつて鱗形屋に奉公していた者たちを抱え込んだ。先代が所払いとなって以来、鱗形屋は商売が上手くいっていない。そのために暇を出された十幾人の中から、能のある者を七人選んだ。
 九月三日の朝、重三郎は新しい見世の前で声を張り上げた。
「さあさあ! 耕書堂、ついに通油町にやって参りましたよ! 皆々様のお陰様、こうして見世を大きくできた」
 大声の口上に、道行く人々が目を向ける。お甲が言ったとおり、苦々しいまなしを寄越す者の方が多い。しかし、と重三郎は満面の笑みを崩さずに続けた。
「浅間の山が火を噴いて、憂うばかりの今日この頃だ。そこで蔦重、ひと肌脱ごう! 皆々様のお心を、少しなりとて明るくしたい。ついては向こう十日だけ、うちは儲けを取りません! 黄表紙、赤本、こんにゃく本。安値、捨て値で持ってけ泥棒っ。さぁさ安いよ、楽しいよ!」
 こんな時だからこそ、皆の気持ちを支えたい。その思いで口上を繰り返すうち、冷めた目で見る人の数は明らかに減っていった。
 そして、ついに。
「おう、それじゃあ泥棒になって安値で持ってこうじゃねえか。この黄表紙、幾らだい」
 大工らしき男が乗ってきた。重三郎は「ありがとうございます」と笑みを返す。
「こちら、いつもは二十四文ですね。それが今だけ十四文!」
「おっと。蕎麦一杯より安いのかい」
「そう、向こう十日だけね」
 人は「今だけ」や「数に限りあり」に弱い。大工とのやり取りを耳にして、ひとり二人と足を止める人が出てくる。それらの中から、三人、四人と買い求める客が増えてゆく。
 気が付けば、冷たい眼差しを向ける者は、ほとんどいなくなっていた。
 耕書堂が安値で売る間、取次を通じて小売に回すものについては、重三郎が差額を負担した。これを考えれば「一文の得にもならない」どころか大赤字である。
 しかし、その赤字にも意味はあった。
「あたしだ。戻って来たよ」
 十一月に入ったばかりの日の夜、重三郎は久しぶりでお甲の顔を見に帰って来た。場所は吉原五十間道に構えていた元々の見世である。
 通油町に見世を移したものの、ここも畳んではいなかった。諸々の本と吉原細見の小売として残し、お甲に切り盛りを任せている。もっとも夜四つ(二十二時)を過ぎた時分ゆえ、今は間口も閉まっているのだが。
「お甲、いないのかい。もう寝ちまったか?」
 軽く呼び続けるうちに、奥の廊下からぱたぱたと足音が近付いて来た。ようやく顔を出したお甲は、何とも言えぬ喜びの面持ちである。
「あんた……。もう! 二ヵ月も放っとくなんて」
「すまねえ。おまえにこっちを任せてるって思うと、安心しちまってね」
 お甲は軽く涙ぐんで、小娘のように「うん」と頷く。そして目尻を指先で拭い、にこやかに返した。
「あっちの見世、巧くいってるみたいじゃない」
「ああ。取次に回した分、十日も身銭を切った甲斐があるってもんさ」
「お客、増えたんだろ?」
「増えたよ。だけど」
 重三郎の「甲斐があった」は、客が増えたという単純な話ではなかった。江戸の人々の気持ちがどれだけ旧に復しているか、それを知り得たのが何より大きい。
「これが分かってないと、次の手を打つ頃合も分かんないからね」
 派手に立ち回りつつ、十日間の安値売りで反感を受け流して、町人たちの心を推し測った。客足は以後も絶えることがない。それによって、やはり皆が娯楽を欲していることが見えてきた。
「そこで今、狂歌の本を作ってんだ」
「じゃあ歌麿さん、そっちの絵も描いてんの?」
 黄表紙の挿絵も頼んでいるのに大丈夫かと、驚いた顔である。重三郎は軽く笑って首を横に振った。
「その狂歌本には、まだ絵は入れないよ」
 町人の気持ちが持ち直してきたのは分かった。次は、有名人のお遊びを
れるだけの余裕ができたかどうか、改めて人々の心を測らねばならない。
「そのために、本当にやりたかった絵双紙じゃなくて歌だけの本を出すんだよ」
 どこか、ぽかんとした面持ちが返された。
「あんた……すごいね。そこまで考えてるなんてさ。ここんとこ、向かい風ばっかりの商売だったのに」
 そう。まさに向かい風ばかりだった。しかし重三郎はその逆風の中で打つべき手を考え、確かに前へ進んできた。
 有望な若手の絵師を西村屋に引き剥がされたら、北川豊章を喜多川歌麿に生まれ変わらせ、もとに引き戻してあらがおうとした。
 狂歌絵双紙で新しい流行りを作り出し、その中で歌麿の才を磨かせようとした。
 その矢先に浅間山が噴火し、世間の心が沈んでしまった。しかし、足踏みさせられた中でも世の中を鼓舞し、潮目を読みながら商売を伸ばしていこうとしている――。
 昨今の自分を思い出し、重三郎はしみじみと頷いた。
「おまえは『すごい』って言ってくれるけど、もしかしたら逆かも知れないね。色々と大変なことがあったからこそ、あたしは鍛えられたんだよ」
「何か……あたしの知ってる亭主より、ずっと大きくなったみたい」
 れ直した、という目を向けられる。少し照れ臭くて、ついつい軽口が出た。
「じゃあ……大きくなったかどうか、とこで確かめてみるかい?」
 お甲は「馬鹿だねえ」と、何とも嬉しそうに笑った。
「言われなくたって確かめるよ。どうせ、またしばらく放っとかれるんだろうし」
 妻の目が、女の目に変わる。 左腕にお甲の両腕が絡み、重三郎は寝屋へ導かれて行った。

第七話に続く〉

【第一話】  【第二話】  【第三話】  【第四話】  【第五話】

【プロフィール】
吉川 永青(よしかわ・ながはる)
1968年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞、22年『高く翔べ 快商・紀伊國屋文左衛門』で第11回日本歴史時代作家協会賞(作品賞)を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『ぜにざむらい』『乱世を看取った男 山名豊国』『家康が最も恐れた男たち』など。

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