見出し画像

恩田陸の最新長編『スキマワラシ』、第一章を全文公開!②

恩田陸さんの最新長編『スキマワラシ』が先日発売されました。

白いワンピースに、麦わら帽子。
廃ビルに現れる都市伝説の“少女”とは――?
本作は、古道具屋を営む兄と、物に触れると過去が見える能力を持つ弟が、不思議な少女をめぐる謎に巻き込まれていく、ファンタジック系ミステリー小説です。

本書の魅力を広く伝えるべく、第一章を一日おきに全文公開していきます。
夏の読書のきっかけに、ぜひご一読ください! 

スキマワラシ帯ナシ書影

恩田陸『スキマワラシ』(集英社)
定価:1800円+税 
ISBN:978-4-08-771689-4 
装丁:川名潤  装画:丹地陽子

<前回 試し読み①はこちら

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 突然だけれど、「引手 」というものをご存じだろうか?
 何それ、という声が聞こえてきそうだが、襖に付いている金具のことだ。襖を開ける時に指を掛ける、あれだ。
 兄は、引手を磨くのが趣味である。暇さえあれば、台所の隅で引手を磨いている。
 いや、引手と限らず、彼はドアノブや蝶番など、古い金具全般を磨くのが好きなのだ。
 はっきりいってじじむさい子供だった兄は(今はじじむさい中年男である。が、子供の頃からじじむさかった男は歳を取ってもあまり変わらない、とも言える。むしろ、今のほうが実年齢よりも若く見えるかもしれない)、僕がものごころついて兄の存在を記憶し始めた頃から、ずっと引手を磨いていたような気がする。
 うちの親戚は建築関係の仕事に従事している人が多く、うちも元々は大工の家系で、同居している父方の祖父は大工の傍ら茶道などもやっていて、風流な人だ。
 裏の倉庫には、よく分からない建材の一部や、それこそ兄の偏愛の対象である引手など、いろいろなパーツが山とあった。倉庫が遊び場だった兄は、日がな一日、長い時間をそこで過ごしていた。
 ある時、祖父が、古い馴染みのお客さんが茶室を改装するので、引手を探している、という話をしていた。
 なんでも、お客さんのお母さんがお茶の先生で、喜寿の記念の改装なので、おめでたい意匠のものに取り替えたい、というのである。
 そうしたら、その時、そばにいた兄が「亀の引手がいいよ」と呟いたそうなのだ。
 当時、兄はまだ八歳くらいだったらしいが、彼は倉庫の中にあるパーツをほぼ全部、置き場所も含めて覚えていたのだ。
 祖父はびっくりして、兄と一緒に倉庫を見に行き、兄が取り出した引手を見て二度びっくりしたらしい。古いものだが状態はよく、亀の甲羅の部分に指を掛けるようになっている意匠も素晴らしかったからだ。結局、祖父はその引手を使ったというのだから、その頃から既に、兄はなかなかの審美眼も持ち合わせていたようだ。
 そんなふうに、当時から引手に対する愛情には並々ならぬものがあったようだが、兄の引手好きは、今も変わらない。
 なんでも、京都の桂離宮には「月」を模した引手がたくさんあるんだそうだ。
 いつかあの引手をゆっくり磨いてみたいなあ。
 そう呟いて、その場面を想像しているのか、うっとり宙を見つめていた兄の姿を覚えている。
 僕も、その引手を、兄の仕事を手伝うようになってから写真集で見た。
 確かに、「月」という漢字を模したものや、月の形そのものを象ったものなど、桂離宮のために特注で作られたそれらの引手はとても美しかった。今ならば兄がうっとりするのも分かるのだけれど、かつては引手という存在は「自分の兄は、もしかしたら少々変わっているのではないだろうか」と初めて認識したきっかけでしかなかったのである。
 兄の記憶力のよさは、俗に言う映像記憶によるもののようで、大体「絵」として覚えているらしい。ところが、僕のほうは、記憶力はまるでダメなのである。試験の暗記ものなんか、いつも惨敗だった。
 どうして兄弟でこんなに違うんだろう、と恨めしく思ったことも一度や二度ではない。
 弟よ、代わりに、おまえには「アレ」があるじゃないか。
 試験前にぶつぶつ愚痴る僕に対し、兄はいつもそう囁く。それに対する僕の返事もいつも決まっている。
 あんなの、何の役にも立たないし、むしろロクなことがないじゃないか。
 会話はいつもここで途切れる。
 何が「アレ」で何が「ロクなこと」なのかは、おいおい説明していくとして、とにかく、僕は試験どころか、子供の頃のこともあまりよく覚えていないし、小中学校時代のことだって、既にかなり怪しい。

 ある時中学の同窓会に行ったら、あまりに何も覚えていなかったので、みんなの話題に全くついていけず、二度と参加するまいと思ったくらいだ。しかも、ああいう会には必ず、兄みたいになんでも覚えている奴が一人はいるものなのだ。
 おまえはあの時ああした、こうした、あの時こんなことを言った、と言われることくらい気まずいというか、自分がアホになったような気がする瞬間はない。

 ただ、ひとつ気になったことがある。
 そいつが、ふと僕の顔を見て思い出したように、「おまえ、女のきょうだいいたよね?」と言ったことだ。
 え? いないよ。
 僕はそう返事した。
 そうだっけ?
 なんでも覚えている彼が、その時初めて自信のなさそうな表情になり、首をかしげた。
 八歳年上の兄貴と、僕だけだよ。
 そう付け加えると、彼は「そうかあ?」と更に首をかしげた。
 いつだったか、おまえが髪の長い女の子と歩いてたのを見て、あとから「あれ、誰だよ」って聞いたことがあったんだよな。そしたら、具体的になんて答えたのかは覚えてないんだけど、とにかく血縁関係者だって答えたような気がするんだよ。
 えーっ、いつごろのこと?
 僕はびっくりして聞き返した。当然のことながら、僕にはそんな記憶は全くなかったからだ。
 中学に上がる前じゃないかな。
 彼はそう答えた。
 その子、何歳くらいだった?
 僕は間抜けにもそう尋ねる。
 おまえと同じくらいの歳に見えた。 

 僕は、親戚を思い浮かべた。同年代のいとこは男ばかり。女のいとこは、結構年上で、あまり話した記憶はないし、第一、全く接点がない。一緒に歩いていたなんてこと、あるはずがない。
 勘違いだよ。
 そう答えたものの、なぜかほんの少しだけ、背筋が冷たくなったのを覚えている。

(試し読み③へ続く)

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?