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休日とは、文字どおりに心と身体を休ませるためのものだと思っていた。

2020年5月26日に発売予定、小説家・奥田亜希子さん初のエッセイ集『愉快な青春が最高の復讐!』から、10章あるうちのおよそ6章分を、noteにて順次公開していきます。
※どの回からでもお読みいただけます。

<これまで>
■青春という言葉に気持ちが明るくなる方にも、絶望に似たなにかが湧き上がる方にも。(まえがき)
■青春を味わうには資格が必要だと思っていた。 (第1回)
■「会社の人とは友だちになれないよ。ある意味でライバルなんだから」(第2回)
<番外編>
■「モテない」語りの最終兵器は奥田亜希子が撃つ! (花田菜々子さんによる書評)
■山本さほさんによる漫画(書評)

愉快な青春が最高の復讐! 書影表1 帯有


奥田亜希子『愉快な青春が最高の復讐!』
装丁:川名 潤 装画:池辺 葵

本作は、「大人になってからの青春」を綴った一冊です。そこには、パーティーや、BBQ、フェスといった要素は皆無、何なら学生ですらありません。それでも、奥田さんが体験したある種の熱狂は、紛うことなき「青春」と呼べるものです。

登場するのは、奥田さんと、奥田さんが会社員時代に出会った、同期五人。平日は毎晩のように誰かの部屋に集まり、一台のベッドにぎゅうぎゅう詰めで眠る――会社のロッカーに共用の風呂道具を入れて、仕事帰りにみんなで銭湯に通う――北は北海道から南は長崎まで、弾丸旅行へ行きまくる――。
謎のバイタリティに溢れた6人を見ていると、自然とこちらも元気が出るはず…です。

小学生の頃から日記を取り続けてきた、記録魔である奥田さんだからこそ鮮明に振り返ることのできる、あまりにもさっぱりとした自虐エッセイです。
どうか笑ってあげてください!

  3 この世に生を享けて以来の

 休日とは、文字どおりに心と身体を休ませるためのものだと思っていた。
 私は体力がない。筋力もないから、腹筋も腕立て伏せも、ついでに鉄棒の逆上がりも人生で一度もできたためしがない。たぶん、本当にぎりぎりで人の形を保っている。寝転んでいる以外の体勢は、すべて運動という心づもりで生きていて、できれば毎日十時間、いや、昼寝も加えて十二時間寝たい。趣味も家の中でできることばかりで、室内にこもっていた状態から急に強い日光を浴びて蕁麻疹を発症したことが、これまでに二度ある。予定がなければまず家にいた。
 見知らぬ街に行ってみたいとか、自然と接したいという欲望も薄かった。予想外の出来事や大きな刺激を処理するのが苦手なのだ。現実は、本のようにページを閉じて、トラブルから逃れることができない。そんな性格の上にものぐさで、数字と手続きが大嫌い。こうなると、週末の二連休程度では、遠方に出掛けようという気持ちになりようがない。長期休暇に旅行することにはそれなりの憧れがあったけれど、小旅行に関しては、私の理解の範疇を超えていた。土日に旅なんかして、どうやって気力体力を回復するの? みんな自分を追い込んでるの? なにかの試練なの?
 社会人になってしばらくは、そんなふうに思っていたはずだ。なのに、気がつくと私は、同期と小旅行を繰り返すようになっていた。

 彼女たちと初めて遠出をしたのは、入社から四ヶ月が経った、二〇〇六年の八月のことだ。千葉の金谷港から横須賀までフェリーが出ていると知って、乗ろうという話になった。この企画に参加したのは、山口、矢田、和田、私の四人で、このうち山口と和田が鉄道好き。内房線に乗りたいという二人の希望も絡んでいた覚えがある。
 私たち全員に共通した趣味は、おそらくいまだにひとつもない。音楽好きは二人、サッカー観戦好きも二人、歴史好きは二・五人で、某アイドルグループの沼に片足を突っ込んだのは三人。本はみんなが読むけれど、好きなジャンルや作家はばらばらだ。ただ、人が立てた企画に乗っかる能力だけは、全員が神より授かっていた。フットワークの軽い、山口、矢田、和田の誰かが閃いたアイディアに、半開きの目と口で、「うん、行くー」と答える力。私は家で過ごすのが大好きだけれど、誰かが下調べやチケットの手配をしてくれるなら、行きたくない場所というのはほとんどない。そのことに、同期と知り合ってから気がついた。「はぐれ刑事便乗派」という、純情と便乗をかけたいだけのキャッチコピーを橋本と共に自称して、山口たちの誘いに秒速で賛同していた。
 この横須賀フェリー旅でもっとも印象に残っているのは、港で九州行きの船を見かけて、「あれに乗りたい! このまま遠くに行きたい!」と、みんなで騒いだことだ。まだ半人前だったにもかかわらず、仕事が大変なふりをするのが楽しかった。いや、大変ぶることで、立派に働いているような気持ちになれた。フェリーの甲板で缶酎ハイを飲んだのも、そういった背伸びの一環だったと思う。私たちは全力で社会人プレイに興じていた。
 内房線とフェリーに乗ること以外は目的が決まっていなかったので、横須賀に着いたあとは、そのへんをぷらぷら散歩した。目についた博物館のような施設に思いつきで入り、また歩いて、たくさん買い食いをした。「せっかく来たんだから!」のような、気合いに似た圧力を一切感じない旅だった。帰りの時間が設定されていないのも新鮮だった。
 それまで私は、人は目的地のために遠出をするのだと思っていた。辿り着いた先でなにをするのか。お金と時間、体力と気力を引き換えにして、なにを得るかが重要なのだと。なのに目的地も山場もなく、場所を横須賀から横浜に移してからも普段どおりにだらだらしているだけのこの小旅行が、妙に楽しかった。
 もしかしたら、ものすごく。

 同じ年の十一月、同期の清野が家の都合で退社し、九州の宮崎に帰ることが決まった。東京やその近郊に暮らしていると、都内の観光地にはなかなか足を運ばない。そこで、清野が千葉にいるあいだに、みんなで東京ベタ観光をしようという話になった。用事があって来られなかった橋本を除いた五人で、浅草、上野公園、東京タワーを巡った。東京スカイツリーは、着工どころか名称もまだ決まっていなくて、新旧の比較でふたたび注目が集まる前だったからか、東京タワーは空いていた。
 この数週間後、いよいよ清野が宮崎に帰る日、私たちは羽田空港まで彼女を見送りに行った。やっぱり来られなかった橋本以外の四人の中で、
「暇だし、行く?」
「行こうか」
 と、土壇場で決まったのだ。清野と空港のロビーで待ち合わせていた彼女の妹と弟は、姉の同期の登場にほんのり困惑している様子だった。職場の仲間が見送りに来るのは、確かに珍しいパターンかもしれない。遠くないうちにまた会えるだろうという根拠のない確信があったから、「じゃあね」と適当に手を振り合って別れた。その後、デッキから飛行機の離着陸を眺めて、すぐに千葉へ戻った。まるで学校の遠足のような一日だった。
 日本海を走る五能線の観光列車くまげらを見るために、山口と和田と上野駅の車両展示会に行ったときも、校外学習のような気分を味わった。二〇〇八年三月のことだ。撮り鉄の方々に交じって車両を撮影したのち、私たちは秋葉原の鉄道カフェへ向かった。そこで、ちょうど店を訪れていた海外メディアの記者からインタビューを申し込まれた。日本の鉄子(鉄道好きの女性)について取材していたらしい。自分ははぐれ刑事便乗派ですから、と断ることもできず、あたかもこの世に生を享けて以来の鉄道ファンです、という顔で、私も質問に答えた。
 五人で鎌倉に出掛けたときは、みんなで橋本の家に前泊し、官能映画鑑賞部の活動を果たしてから出発した。これは、二〇〇八年の六月のこと。ちょうどあじさいがきれいな時季だったけれど、花を見ようと言い出す者は一人もいなかった。私たちは朝から晩まで、ひたすらにアイスクリームを食べ続けた。大のアイス好きの和田の影響で、遠出の際にはその土地でしか味わえないアイスやソフトクリームを食べることが、なかば習わしになっていた。アイスのためにバスに乗り、ソフトクリームを求めて江の島に渡った。
 この日に食したのは、信濃ミルクソフト、岩手ミルクソフト、ロイヤルミルクソフト、紫芋ソフト、抹茶ソフト、蜂蜜ソフト、朝一しぼりたてミルクソフト、チョコチップアイス、紫芋バニラソフトの九種類。一人で全部食べたものもあれば、五人でひとつをつついたものもある。「アイスは一日一個まで!」と会社で上司から叱られたことのある私たちは、出発した直後こそ、「アイスは水! いくらでも入る!」と、もりもり食べていたけれど、実は……アイスは水ではない。水ではないのだ。夜、私たちは目に映った店に飛び込む勢いで、しらすのパスタとピザをむさぼった。身体に塩が染み入る幸せを、このとき初めて体験した。

 二〇〇八年八月には、朝五時半に東京駅に集合して、静岡の大井川鐵道を走るSLに乗った。二〇一〇年四月には、「男性器をかたどった神輿があるらしい」と、川崎で毎年四月に催されるかなまら祭に出掛けた。
 二〇一一年五月には、五年ぶりに横浜を再訪した。このときの移動手段はフェリーを経由せずに電車のみで、目的地も本牧に黄金町とあらかじめ決まっていた。アートショップが数多く立ち並ぶ黄金町は、かつては青線でにぎわった場所らしく、ストリップ劇場やポルノ映画館が点在している。その日は時間に余裕がなくて観られなかったけれど、官能映画といいかなまら祭といい、私たちは性にまつわる文化になぜか積極的だった。
 それなのに、個人の恋愛経験についてはあまり話されなかったことを、今更ながら不思議に思う。恋人の存在を半年近く隠していた同期もいたくらいだ。馬鹿なことばかりしている関係だったから、自分の生々しい一面を見せるのが、なんとなく気恥ずかしかったのかもしれない。それぞれの事情を知らないから、彼女たちと触れる性の文化は、学問みたいに感じられた。私にはそれが楽しかった。
 この日は日帰りではなく、中華街近くのビジネスホテルに泊まった。ちょうど山口の誕生日で、彼女の好きな俳優の顔写真をお面にして四人で被り、遅れて部屋に入ってきた山口を盛大に迎えた。お面を活用した撮影会を楽しみ、たっぷり夜更かしした翌朝、私以外の四人はホテルから会社に出勤していった。なんと、日曜から月曜にかけての小旅行だったのだ! とっくに退職して予定のなかった私は、通勤ラッシュを避けるため、チェックアウトの時間ぎりぎりまで部屋に残った。平日の朝、ビジネスホテル、横浜、一人。冷静に考えるほどわけの分からない状況だったけれど、とても贅沢な気持ちで本を読んで過ごした。人生の踊り場のような時間だった。
 電車に一人揺られ、千葉の自宅に帰りながら、最初のフェリー旅のことを思い出さずにはいられなかった。あのころの私は、関東に住み始めて半年も経っていなくて、街の名前も電車の路線も、なにも分かっていなかった。三軒茶屋は飲食店の名前だと思っていたし、乗り入れや接続の意味も知らなかった。神奈川は、千葉から遠い場所だった。それが、同期と小旅行を繰り返すうちに、関東はみるみる狭くなっていった。
 二度目の横浜旅からも短くない時間が流れて、今、私はこの世に生を享けて以来の都会人の顔で電車を乗り換えている。東京を舞台にしたときの私の小説には、電車や駅の情景がよく出てくる。自分でも、また電車! また駅! と思いながら、でも、書かずにいられない。たぶん私にとって鉄道は、関東の象徴なのだと思う。自分が関東に慣れたと思えるようになるまでの時間と、同期と電車で散々出掛けた経験が、分かちがたく結びついている。
 遠距離恋愛を終わらせるためにやって来た関東だった。千葉県民の彼と付き合い始めなければ、私は間違いなく地元で就職していた。恋人ともっと会いたい一心で愛知を離れることを決めて、就職活動の時期には何回も上京して……。あれ? わりと思い切ったことしてるな。小旅行よりよっぽど面倒くさくて、とんでもなく気力体力を使っている。
 私にも刺激を楽しめる心はあったのかもしれない。

奥田亜希子(おくだ・あきこ)
1983年(昭和58年)愛知県生まれ。愛知大学文学部哲学科卒業。2013年、『左目に映る星』で第37回すばる文学賞を受賞。著書に『透明人間は204号室の夢を見る』『ファミリー・レス』『五つ星をつけてよ』『リバース&リバース』『青春のジョーカー』『魔法がとけたあとも』『愛の色いろ』がある。本作は著者初のエッセイとなる。

単行本には、同期旅の模様など、写真を多数収録!


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