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3.11&1.1東北から能登へ。【前半】

震災から13年経ち、今だから言葉にできる思いを記録しています。過去に私が体験した震災と、今、能登に繋がる思いです。そしてこれからの支援活動を折々にアップします。
(この記事は私の体験に基づく主観ですので、被災地のすべてをお伝えするものではありません。今の思いです)
 
【前半】 東北から能登へ続く思い。
(後半→能登の今を見る、知る大切さ。繋がりに、繋がる旅路。)

2011年3月10日
当時、八戸に暮らしながら、雑誌の撮影&取材をしていた私は、連日、海岸で人物撮影を行っていました。
編集からの電話で急きょ、3月10日は十和田での取材が入り、朝から車で奥入瀬渓流まで向かいました。十和田の帰りには美しい夕焼け、鳳凰のような姿の大きな雲に見とれながら帰路に着きました。あまりに美しい雲に、「明日、どんな素晴らしいことが起きるんだろう」そう思ったことを覚えています。

311では、岩手の被災地で支援活動を行いました

そして3月11日。
海での撮影が数日延期になったため、その日は休みを取り、近くのカフェへ。たまたまカウンターに居合わせた方が占い師だというので、興味本位で鑑定をお願いすることに。私の手相を見て一言、鳳凰がいるねと。そう言われても意味がわからず手のひらをながめている時、突然、地震が始まりました。
 
長い揺れ、横揺れから縦揺れに変わった瞬間に、これはヤバいぞと悟ります。
窓の外の電信柱が45度以上傾きながら左右に揺れ、大きく上下に波打つアスファルトの上を、車が走っています。
物は落ち壊れ、外に出る一瞬の隙もない。動けない。
そして停電が始まります。

当時はまだガラケーで今のような地震予知アラームもなく、短い動画が見られる程度。海岸近くで暮らす姉から、津波がきたよと津波の映像メールが届きます。その後、岩手の実家とは連絡がとれず。携帯の電波があるうちに何人かと連絡はとれましたが、その夜、宮崎の恩人からの電話を最後に携帯も使えなくなりました。しばらく情報もなく、明かりも暖もとれない夜が続きます。

震災後初めての満月。岸壁にて
プロジェクトNextさんありがとうございました

やっと岩手へ。
八戸から岩手の実家までは40キロほど。車なら一時間以内です。ですが往復できるガソリンが買えません。
数週間ほどして姉と連絡がつき、家族の無事を知ります。
やっと燃料を調達でき、岩手に向かうことに。
幸い家も家族も無事で一安心したものの、地元の漁港も線路も壊れ、家屋も流され。海岸線の変わり様に言葉を失くします。
岩手の海岸沿いでは昔から、春には地震と津波が来やすいことを過去の震災から知り、警戒しながら暮らしています。それでも予想をはるかに上回る、311の猛威。
天災の恐ろしさを目の当たりにした毎日でした。

現在の野田村(2024年)。津波の被災区域は公園に。防風林を復活するため、植樹(「のだ千年の松」など)が行われています

自分に何ができるんだろう。
今すぐに必要な、医療や食のサポートもできない現実。現場に立っても、地元の海や町をレポートするくらいしか思い浮かびません。
カメラを手に出かけようとしたとき母が、となり町がひどいらしい。何かやるならそこも見てきなさいと。
そして出向いたのが、岩手県北の小さな漁村、野田村です。

 〇△⊡
小さな一つの町が、すっぽりとなくなっていました。繰り返す津波で、バラバラになった車や家電品、瓦礫。様々な残骸が辺り一面に転がり、現実なのか、何かの映画でも見ているのか…。現場に居ながら一瞬、わからなくなったほどです。
その村ではたくさんの人に出会い、語り合い、ボランティアをしながらレポートを続けました。
私は、復興していく人やまちの姿を残していきました。

たくさん語りあった場所「苫屋」

復興といっても、一年、一年、積み重ねのように、少しずつ形が整っていく日々。現場によってスピードも違います。心のケア含め、長い時間が必要であることも忘れてはいけない事実です。
そして、深刻な状況に置かれた方々も、その側でサポートに尽力される現地の方々も、それぞれに大変な心労を抱えています。

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何より被災は、規模の大小や数(統計)だけでは計れないものです。野田村は当時、被災地の中では人口が少なく規模も小さめ、故に被害数も少ない。そうした背景もありあまり報道されませんでしたが、後に、本当に酷い被災現場だと言われました。小さな村にとっての犠牲者数37名は、とても大きな犠牲でした。 

様々なものを見聞きし、人に出会い、日に日に思うようになったのは、
この先は衣(医)食住に関わる仕事をしていきたい。いつかどこかでこういう状況が起きたとき、役に立つことがしたい。
そして、復興にむけ応援、後押しをしてくれた皆さんにありがとうを伝えたい、お返ししたい…。

その後九州へ。311の夜、電話をくれた恩人が住む宮崎へ移住。高千穂の夜明け


その後カメラを置き、私は縁あって九州へ移住しました。2018年暮れに本土に戻り、現在は山梨で暮らしています。
 
熊本や各地で災害がある度、怖さが勝り行動に移せずにいましたが、時が経ちこの冬、能登へ向かうことになります。
 
能登の今を見る、知る大切さ。
能登は、まだ深刻な状態が続いています。現場に立つと想像以上の被災状況であることが、よく伝わってきます。
復旧できた場所から様々なサポートが行われていますが、近い地域の皆さまもまた、災害の現実と恐怖にあわれた方々です。
肉体的にも精神的にも心労が続く中、この先、簡単にことが進むとは考えられません。

内灘
2024年3月1日、志賀町にて。

そして何より、能登の震災はどことも違うということ。もちろん東北とも違います。
 
大概の被災現場は見たつもりでいましたが、私はこれまで感じたことがない恐れを肌で感じました。
これまでの災害体験だけでは当てはめられない、大変な現実が広がっています。
 
また、能登の方々が、どれだけの揺れを体験したか。尋常ではない体験、恐れが体と心に記憶されたと察します。
……(後半へ続く→能登の今を見る、知る大切さ。繋がりに、繋がる旅路。)


〇これからの支援活動やレポートを、折々にこちらのサイトで伝えていきます。
白州橙屋 オーナー・しゅうこ
Photo by SHU.OGAWA

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