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乳がんから27年〜直感を満たすものは人生を満たすもの

|インスピライフエッセイ|


キャンサーズギフト・乳がんとスピリチュアリティ~偶然からの気づき

直観と偶然の力


直感、神様、ご先祖様、偶然、ふと、たまたま。
願って、叶って、助かった!

そんなことが、いたるところに散らばっている、

乳がん回想記です。



よくも悪くも、すべて自分で選んだ末に
起きたことなのですが、何かしら救われてきました。

今、自分の人生を振り返り、ここまでの道のりで
自分に起きたエピソードが、どのように今につながり、
人生をつくったのか。

あなたは、考えたことがありますか?

ときに、直感の通りに進んだ行動が、命取りになった、
そんなこともあると思います。

「叶うも、叶わないも裏表である。

その裏表の人生が、
どのように繰り広げられたのか、

自分が観客になった気持ちで、
人生を鑑賞してみよう

そして、忘れていけないことは、

これまでの人生のすべては、
自分が演出してきたのであって、

これからの生き方、
今を暮らす最中でも
演出していかなくてはいけないということだ」

と、内なる大きな存在が、わたしの心の内に話しかけてきます。

とても納得のいく名言だと思いませんか?

ことの始まりは何だったか。
わたしに起きたできごとをさかのぼってみます。


人生で3度の「死んでたかも」体験

一度目は29歳の時に乳がんに。
二度目は乳房再建手術の時。
三回目は55歳の時に髄膜炎にかかり
生死の際を知りました。

20代のころのわたしを書きます。

乳がん告知は誕生日

告知は1997年29歳の誕生日だった。

病院の先生は膝を付き合わせて、
言葉に気を使いながら検査の報告をしてくれた。

5年生存率。
同時に乳房切除の説得も。

1997年ころの乳がん手術は「乳房温存手術」が認知されてきたころで、ほんの数年前までは、胸の筋肉ごと切り取る
「ハルステッド手術法」が主流だった。

あばらが浮き出てしまう、その方法が話題にもならなかったことは、幸いだったといえる。

私はまだ20代。
オッパイがなくなる話を聞いていて、
オッパイを残せる手段があるのなら、
と、くり返すわたし。

・・・

「命が優先ですよ」

先生は、受け取りようのない感情を、見こしたように優しい口調で話された。

その印象が今でもめまいをおこすほど、深いところに染みている。

乳がんの進行度は早期だったが、シコリではなくて乳腺に沿って散らばるタイプだったので、温存は再発リスクが高いと見立てたようだ。

それからの経緯は、話せばキリがない。
生きているか、死んでいるのか。

あと5年で、やっておきたいことは何かを考えて、起きてしまったことに、フォーカスはしていなかった。

根が楽観的なのだ。

生と死のはざまで。日記より

わたしは、若いころから、ゆきどころのない感情を、ノートに書きなぐるように綴っていた。

1996年から、それまでの雑記ノートを、10年日記にかえていた。

表装は茶寄りの黒、厚みも重厚で「おじさんくさい」のだが、
一日が4行、一ページに10年分の枠がある。

通販のカタログで見つけたのは覚えているが、買った決定打は覚えていない。

いまは、3冊目で、今年も含めあと2年を埋めたら、4冊目にいけるかも、というところだ。

かも、というのは「絶筆」の可能性がないともいえないから。

そういえば、
初めの一冊すら埋めきれていなかったかもしれない。

さて、29才の誕生日のことをこう綴っている

8月14日
今日の誕生日はずっと忘れない。
わたしにそんなことが
降りかかってくるなんて考えられない。
目を腫らしたままで
(誕生日を)皆が祝うために集まってくれて、
話しかけてくれること、

すべてに温かいものを感じて
死と急に向かい合わせになったことが
恨めしくなって、店で泣き笑いしていた。
これも運命なのか。

わたしは当時スナックのママ経営者で、誕生日は店の入口に花道ができるほどお祝いをいただく特別な日。

この日も、おかまいなしに溢れてくる涙と、鼻水をぬぐったあとの、乾いた肌に化粧をして、
盆に合わせて浴衣を着付け、タクシーに乗り込んだ。

誰にも言わなかった。
…いえないよね、お祝いに来てくれてるのに。

そのときの写真がある。
おどけて鼻をつまんでいる。
誰が撮ったかわからないけれどありがとう。

明るくいつも笑顔で、
というのが水商売の舞台上であるから、がんの事は隠密にした。

家族には、
4つ離れた姉にはすぐに、
体調を崩しがちな母にはさらりと告げ、

そりが合わない父には数年たっても話さなかった。

その頃の私の生活は、まだ若いし、店で毎日たらふくお酒を飲んだって、

朝までカラオケをして、
そのままゴルフに行ったってへっちゃら。

生活のすべてが
「人に関り、仕事に関り、商売に関わる」ことで

自分の店もあって、寝ないでも仕事をして、活気のあるお客さまにも恵まれて、勢いがあった。

昭和の流れか、つらいとも、しんどいとも思ったことがなかった。

おかげさまでお金は自由に回るし、自由に暮らすことができている・・・と思っていた。

偶然の始まり ブラジャーと野菜ジュース

ある日、新しい「ブラジャー」を買いに行った。

いつもならクロやアカなど、はっきりした色合いの下着を選ぶのだが、その日は気に入った色や、あっても着け心地が悪かったり、目にかかるブラジャーがなくて、あきらめようとしていた。

そうしたら、付いてくれた店員さんが

「女はやっぱり、最後はシロですかねぇ~」

と、白いレースのブラジャーを差し出してくれた。

シロなんて
中高生時代から買ったことなんてなったな、

と思いながら試着すると
あら、ピッタリ!

「女はやっぱりシロ・・・」

あきらめようとしていた私に、
店員さんがかけた、
最後のセールストークがお買い上げに至った。

なんだか新鮮な気持ちで持ち帰った思い出。

私は、食べるものには好き嫌いがなく、
何でもおいしいと口にする。

でも、トマトの入った野菜ジュースは飲めなかった。
飲まなくてもイイものだと思っていた。

小学生の時、
姉が健康食品や化粧品に凝っていて、
薬局やらスーパーやら買い物に行かされたあげく、
美味しいよ、と渡された飲み物が「V8野菜ジュース」だった。

セロリの味が濃く、すこしとろみがある、大人のジュース。

マズイ、とかではなくて、口にも、のどにも入ることを拒否してしまう、
そんな飲み物だった。

それ以来、野菜ジュース系は、わたしの食べ物リストになかった。

白いブラジャーを肌に着け出した初夏のころ、

二日酔いの寝起きに、ふと、無性にその「V8野菜ジュース」の味がよみがえってきた。
野菜不足も気になっていたこともあり、

―大人になったから、ちょっとは飲めるようになったかな

と数本買ってみた。

グビグビ飲めた

内臓の集団がスポンジのように吸収して、からだのすみずみに染みていくような感覚があった。
砂漠の砂に水をまく。そんなイメージ。

―おっ、飲めるではないか!舌が大人になったのかしら。

などと思いながら、子供のころにはマズイ!と感じていたけれど、飲めるリストに入れた。

それから、必ずストックをするようになったのだが、「飲みたさ」が異常だった。

当時は、ペットボトル入りの野菜ジュースは、普及していなくて、
せいぜい6缶パックが主流だった。

それを買っても、一度に2本は必ず開けて、2本づつ、日に3度飲みたくなることもあるほど、欲したのだ。

また、
飲み続けるごとに、美味しいと感じる度合いも増えて、欠かせないものになっていった。

ひと月は過ぎただろうか。

ある日、
左の乳房の、白いブラジャーの乳首が当たるところに、うす茶色の丸いシミがついていた。

―こすれて、傷でもついたかな。

と、はじめはそんな感じ。

そのうち、シミの輪が少し大きくなったので、おじいちゃん先生がいる、かかりつけの産婦人科を受診した。

「うんうん、ちょっと炎症でもおきたかな、抗生剤でちょっと様子見ようか」

寅さんに出てくる俳優の笠智衆さんに似た、柔らかいが、少し甲高い声でそう診察された。

―やっぱりね。

ひとまず帰宅するも、しばらくシミは治まらない。
だんだん気にするようになってきた。

四、五日してシャワーを浴びた時、シミが付くほうの乳房を手で包み、お乳を絞るように抑えてみた。

「ビュッ!」

えっ !?

もう一度押す。

「ビュッツ!!」

エーーーっつ!!


乳首の先から、茶色の物体が外に飛び散ったのだ!


ビックリして泣きそうになりながら、
あわててシャワーで洗い流した。

オッパイの中で化膿がひどくなったのだろうと、翌日、またおじいちゃん先生のところを受診した。

「ホウホウ、そうかい、そうかい、じゃぁ、何でもないと思うけれど、ちょっと調べて見ようかね。大きい病院にいって検査してもらおうか。紹介状を書いてあげるね。」

・・・そうして、
総合病院を受診して乳がんとわかり、手術するに至ったのです。

誕生日に「死ぬかもよ」告知
(そんなこと誰も言っていませんが)

手術日は平成9年9月9日。

これを読んでいるあなたも、すぐに覚えられますね。

手術待ちの8月31日、イギリスのダイアナ妃の訃報が流れ、
衝撃を受けました。

「生きられること」と「生きていること」の違いを考えるきっかけになりました。

偶然にはメッセージがある~セレンディピティ解説

ここまでの出来事で、
何が気づきにつながったのかわかりますか?

わたしは、乳がんになったことが云々と話したいのではなくて、

この経験のために
何が起きて、何に気づき、何を感じて、どこに導かれたのか。

どんな偶然や、ふとした出来事が、
からだと命の危機を教えてくれたのか探してみます。

起きたこと
・たまたま、ブラジャーを買いに行ったら合うものが無かった

・店員さんの一言でふだん買わない「白いブラジャー」買った

・それを身に着けていたら、白地のおかげで乳首からのシミがくっきり見えた

・気になって病院に行った

それと同時期に

・ふと、むかし飲めなかったジュースを思い出し、飲んでみる気になった。

・美味しいと感じて、たくさん飲んだ

からだからの信号を想像すると、こんなイメージです。

この子
・いいかげん、何かしらの手を打たないと、からだの故障がひどくなるので対策を考えよう。

・では、それまで飲むことがなかった「思い出の野菜ジュース」を思い出させよう。

・しかも大量に飲ませなくちゃ間に合わない。
・ミッションがひとつ進んだ。よし!

野菜類に抗酸化作用があり、からだの毒素を排除し、
浄化する作用があることなどは、今でこそ周知していますが、

若い私にとって、意識するほどの大切なことではなかったはず。

なのに
・立て続けに大量に飲んだ濃い野菜ジュースが、
・からだの蓄積した毒素を追い出そうと作用して、

・その結果、病巣の組織がほぐれ、
・絞れば乳首から出るくらいに溶かしてくれた。

食べ物がからだに作用したことは、これまで得た、食と健康への学びから考えることができました。

そうして、

・たまたま、その柔らかくなったオッパイを押してみたらビュッ!と飛び出て、

・嫌な感じがしてすぐに病院に行った。

他にも、からだを守れる食べ物は、あったでしょうけれど、

・その時のわたしに手にしやすく、
・手っ取り早く、
・しかも嫌がらないでからだに取り入れてくれるもの

を選んでくれたのだと感じています。

あの時に起きたこと、ひとつひとつが、無意識や大いなる力が働いて導く、良い流れの例だと感じていて、
いつかこの体験をお話したいと思っていました。

当時の5年生存率は、早期発見であれば80%ほどでした。

ですが、閉経が近い世代の統計で、まだ、若年性乳がん、
今の「AYA世代」に向けての特別な統計があったわけではなかったのです。

ですから「走ると早いかも知れないから、再発が一番怖い」
と、先生も慎重でした。

そうして、定期的に検査をしながら、再発も無く無事に目標の5年がすぎました。

 

直感で決めた乳房再建


そうして5年後のある日、駅の中にある本屋で、ふと、

「乳房再建大全集」

という再建手術について、リアルな写真や図解で、
解説されている本を見つけました。

―こんな風にするんだ!

にわかに興味を持ち、即決で買いかえりました。

自分にも可能か、どんな手法が適しているのだろうか、
と読みふける毎日。

出版されてまだ日が浅く、先端の乳房再建手術の技法でした。

この先生に会ってみたい。

そう考えることは自然でしたが、
まずは、担当の先生に伺わなくてはいけません。

「再建手術を受けたいと思うのですが、大丈夫でしょうか?」

新しい先生に変わっていましたが、

「それはいい考えだね、でもね、もしかしたら、最初の手術より
からだの負担もあり、大がかりかも知れないよ。
だからよく考えて。決めたなら、応援するから。」

そう言ってくださり、すぐに本の著者の先生にアポ取りをしました。

乳房再建手術はパットを入れたり、からだの脂肪を注入したりと、
いろいろあるのですが、私が受けたかった手術法は、

「背中にある広背筋を切り取り、血管がつながったまま、切除した乳房後の皮膚の下に入れ込む」という大がかりなものでした。

ですが、
「自分の組織をつかい、血流もそのままなので自然に近いもの」
とあったので、とても魅力的でした。

もちろん、他の専門医院にも伺いました。
しかし、決め手はありませんでした。

目指す先生は、神奈川県内にある、大学病院に勤務されていました。

診察は数か月先になる人気の先生だったのですが、不思議と予定を立てた辺りに予約がとれたので伺いました。

説明を聞いて、私に可能な再建方法の提案もいただきました。
先生の人柄や熱意もあわせて安心できた思い出があります。


この先生にお任せしたいな、と思ったところ

「手術は半年以上待つ状態ですけれど、たまたま、手術のキャンセルで一月後に空いてる日があるんですが。」
とのお話。

わたしは決めていることに、偶然が重なることはご縁!
と感じてしまう直感型です。

私のために空いているのだ、という勢いで、決めて帰ってきてしまいました。

入院期間は、遠距離ということも考えて、ひと月となりました。

その頃の私は「生存5年だったら」との思いがあり、
勢い、大きな借金をして、3店舗の飲食店経営をしていました。

各店舗には店長がいて任せられたので、不在でも大丈夫と判断したのです。

その後、入院、手術と順調に進んでいきました。

金縛りと猫

手術の時間は8 時間。

何もかもが予定通りで、不思議な感覚さえあり、
感謝の気持ちも忘れずに、無事に手術が終わることを望んでいました。

手術が終わり、多分、ICU(集中治療室)に運ばれたのだと思います。

麻酔から覚めかけたのでしょう、うっすらと意識が戻った時に、
からだが金縛りのようになりました。

私には、感の強い体験が、しばしばありましたので、
こんな時に!と妙な気分になりながら、解けるのを待ってました。

そうしたら、ベットわきの暗い床から、
ベットを取り囲むように、無数の黒い手が、私に向かって伸びてくるのです。

いつもと違う強い恐怖を感じましたが、大手術の後です、
動けないので布団にもぐりこむこともできません。

そうしたら、足元の布団の上に、黒い猫がピョンと飛び乗り、
こちらに向かって歩いてくるのです。

「クロ!」

私は当時2匹の猫を飼っていて、そのうちの1匹だとすぐにわかりました。

猫は私のからだの上を歩きながら、イソギンチャクのように伸びる黒い手をゆうゆうと払っていきます。

私の顏元まで来た時には、すっかり黒い手の姿はなくなり、
布団の上で猫の足先が沈む感触と、からだの重さの感覚が生々しく残っています。

同時に、すべての気配は消え、からだの緊張も解けたのです。

―猫が助けに来た、どーもありがとう

安心して再び深く眠ったことを、今だ鮮明に覚えています。

術後の幻想でしょうか?

私にはそうは思えませんでした。

そうしたら、このことは、後に大事なできごととつながるのです。

直感が引き寄せた痛みの体験

そうして、しっかりと麻酔が覚めて、病室に移り、手術の経過を先生が話されました。

「オッパイの手術は成功して、キレイになりますよ。ですが、ちょっと出血が多くて・・・800CC ほどの出血だったのです。
事前に、ご自身の輸血用の血液を取らなかったので、輸血はしませんでした。
ですから、血液が増えるように、栄養と鉄をよくとってください。」

800㏄の出血がどれ程の事かわからず、

―出血はあったけれど、オッパイがキレイにできたのなら良かった。

その程度に思っていました。

「大人のからだの血液は、体重にもよるが、1リットル以上が失われると
生命に危険が及びます」

後になって、こんなに大変だと知りました。

そんなことがあり、数日すると、背中の筋肉を切り取ったところに、焼き印を押されたような、強烈な痛みが走りました。

その後、高熱が続き、何が原因かもわからず、
抗生薬か抗菌薬の点滴を打たれ続けて、意識を失うように、寝込んでしまいまいました。

幻想なのか、天井まで伸びたベットの柵の上から、看護師さんが何か大声で話しています。

ベッドが深く沈んで、
水面から空を見上げているようにゆがんでみえるのです。

―死ぬときは痛くないんだな。

モウロウとしている中で得た感覚です。

高熱の原因は、院内感染症の
【MRSA(メチシリン耐性黄色ぶどう球菌感染症)】
でした。

「抗菌薬に抵抗性があるため、病原体にあった、抗菌薬を特定するまで時間がかかり、重症化につながる」とのこと。

私は金曜に発熱、検査機関も担当医も休みにあたり、原因を特定するまで日がかかったのでその間、効果のない抗菌薬を大量に投与されました。

すっかり抵抗力が無くなり、手足の、毛穴という毛穴が真紫色で、宇宙人のような皮膚になっていました。

ジンマシンも起こり、全身のかゆみがひどかった。

週明けに菌が特定されて、対抗できる薬剤も見つかり、
ようやく回復に向かいました。

しかし、その後も大変でした。

背中の筋肉をとった、20センチほどの傷を再び開けて、

「薬をぬるより、こういう時は水で洗うことが一番いいんだよ」と水を含ませた脱脂綿で洗浄するのです。

―多分、魚の背を開いて水洗いしてるような、そんな感じなんだろうな。

わたしは、ぼんやりとされるままです。

大学病院なので、学生たちがずらりと「研修」でみていることもありました。

術後感染症の患者の処置は、かなりレアな現場だろうと察しできます。
貴重な体験だと信じたいです。

で、つい言ってしまいました。

「あなたたちね、なかなかこんなこと見られないと思うので、しっかりみて、お医者さんになったら活かしてくださいね。」

なんだか情けない姿をさらしているようで、でも、何かひと言、言いたかったのですね。
複雑で切ない、気持ちが近いかもしれません。

そんな調子でしたが、いよいよ退院しました。

生傷の状態でしたが、
入院は2か月半にも及んでしまったため、店のことが心配です。

ふくろ一杯に、消毒液やら傷パットやらを持たされて帰宅。

それからは自分で手当をしなくてはなりません。
実は、帰宅して初めて背中の傷を見たのです。

鏡で見た傷は、皮膚がビロビロにうるけて、
その下に、ピンク色のキレイな「肉」が見えます。泣きました。

もう少し、縫い合わさってる状態を想像していたからです。

何もなければ、大きく切ったことなどわからない傷跡の予定でしたが、

計画はすっかり変わり、心身ともに疲れ果ててしまいました。

そんな中でも幸いは、新しいオッパイに被害はなく、
順調な経過だったので、目的は達成することができたのです。
ありがたいことです。

この経験は、すべてが順調に思えていたのに、

その末は、
からだの何でもないところを傷めつけ、

その後、長らく不調を抱えてしまう原因にもなり、
とても悲惨な状態になってしまいました。

乳がんが見つかった時に、からだからのメッセージに気付いて、
優しい意識をもって、容姿を気にした欲求を持たなかったとしたら、

もしかしたら、
不健康を背負うことはなかったのかもしれません。

しかし、しばらくして、この痛みを負ったことで、
今につながる転機や、気づきが訪れます。

守護霊との対話 

帰宅後は体調がすぐれないまま、お店に立ち続けていました。

ある年、スタッフの独立や、結婚などで、
お店を任せられる人がいなくなる事態が起こりました。

本来なら、スタッフが離れて、お店が回らなくなるということは、
経営者ならかなり途方にくれることでしょう。

わたしも悩みました。

でも、ふと、

「からだが辛い、店に立つことも辛いから、たくさんのことはもうできない」

日記に、そう書いたことを思い出したのです。

そうです、

一斉に人が辞めることで、店ができなくなる、ということは、
仕事が減ること。

引き寄せが働いたのです。

わたしは、よくも悪くも転機と考えて、2つの店舗を手放す決心をしました。

それなりの労力は必要でしたが、契約や金銭の課題も、
譲渡先が決まり解決するなど、順調に片付いたのです。

大きな力の働きを感じることができました。

30代後半、
新しいスタッフと心機一転の気持ちで再稼働しましたが、
からだの辛さはひどくなる一方でした。

毎朝、起き上がれず、からだは常に冷えて、
夜に支度をすることが次第に困難に。

精神的にも落ち込むようになっていました。
ウツ状態です。

そんな折、店のカウンターのすそに、小さなメモ書きを見つけました。

「猫ちゃんお墓、からだのこと…」

そのころ、長く居た猫が逝ってしまい、
寂しくて小箱に入ったまま納骨せず手元で大事にしていたのですが、
誰にも話したことはありません。

アルバイトの女性スタッフが書いたようですが、わたしにしかわからないことです。

わたしは、まだお客がいないカウンターの椅子に座り、彼女に聞くと、

「変な話だと思わないでくださいね」
と念を押してゆっくり話し始めました。

「わたしは、見えない人が見える体質で、ママの守護霊さんが、

どうしてもママに話して欲しいことがある、
と、お店でいつもわたしを待っていて、これを伝えたらすぐにわかるから、

それで書いたのがこのメモなんです。」

わたしは、驚きながらも、霊的な体感には慣れていたので
逆に興味をもって耳を傾けました。

「え〜!そうなの?わたしは大丈夫よ、それで、守護霊さんはどんな人なの?」

「普通はひとりしかいないのですが、
ママには2人の守護霊がいて、ひとりは、おばあ様です。」

「なんかうれしいね、わたし、ばあちゃん大好きだったから!
今も近くにいるの?」

「すぐ横に並んでいますよ。」

「え!なにが話したいのかな?」

彼女は、少し目線をわたしの横にずらして、
うんうん、うなずいています。

「まず、猫を早くお墓に戻してあげなさい。
寂しいのはわかるけど、猫たちの世界に行けないから。

あとは、からだを大事にしなさい。せっかく助かったのだから、
と話しています。」

そして、彼女は、自分の背中にてをあてて、

「ここ、切ったんだよ、って言ってます」

私は、その時、手術後に体験した黒い手と猫のことを思い出して、
あの時守ってくれたことに合点したのです!

他にも
「気づいているのに、お酒も上げてくれない。
あの時も、この時も、助かったでしょ」とか。

彼女は通訳のように話を伝えてくれて、
見えない存在と話せることがこんなに楽しくて、生きている人に接することと同じなのだと、目の前が明るくなりました。

そうして、ふだん何気なく「感じる」ということへの直感が、
実は本当につながっていたのだと確信したのです。

メッセージ

最後に聞きました。

「これから、わたしは、どうして行くことがいいのだろう?」

ばあちゃん守護霊は、

「好きなことをしていきなさい。
今まで、どうにもならなかったことはなかったでしょ、
とにかくからだだけは大事にしていきなさい。」

と答えてくれた。

確かにそうなのだ。
今まで、お金のことも、暮らしも、病気も、なんとかなってきた。

そんなことがあり、
わたしは、からだを大切にして健康でいることが、
あちらの世界から見守ってくれている存在にとっても、
喜ばしいことなのだと知ることができたので、

生き方を見つめなおして、より良い人生に向けてシフトすることを決心したのです。

それから10年後、店を閉業。

その一月後、コロナパンデミックとなり、
もしまだ店を続けていたら、
と考えるほど、天を仰ぎみるのでした。

人生で起きたこと。
それがどう、今につながっているのか。
起きたできごとは、私に何を気付かせようとしているのか。

居心地の良いことを探し「感」を研ぎ澄ませて、
その道に進むことは、

この世の人も、あの世の人も応援してくれる。

「直感を満たすもの」


それを見つけていくことが、人生を豊かに満たす
糸口になるのではないかと思っています。

苦労もあるけどそれは経験。

嬉しいこと楽しいことも
発見もそれ以上にあるのです。

先のことは、
生きてみないとわからないことだらけなのです。


#創作大賞2024
#エッセイ部門


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