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ブータンに蒔いた幸せの種 ヒマラヤの小国に一生を捧げた西岡京治の物語

ヒマラヤ連峰の南麓、標高7000m級の連山を背にする神秘の国・ブータンは「幸せの国」として知られます。確かにブータンは国民一人あたりの幸福量が世界一の国です。しかし、そんなブータンにも、農業生産の乏しさに悩む時代がありました。国土のほとんどを山岳地帯が占め、耕作に使える土地はわずか1割。その1割も、標高2000mを越える盆地に田畑をつくるのがやっとの状況。厳しい自然条件を前に、多くの国民が貧しい生活を強いられていました。

そんなブータンが、ひとりの日本人の働きによって変わるときが来ます。効率の高い農法の導入で米の生産高は飛躍的に増大。品種の改良が進み、今までになかった野菜・果物の栽培が可能になりました。ジャングルだった僻地の村にも開発の手が加えられ、水路や道路はもちろん、学校や診療所といった生活に欠かせないインフラもたくさんつくられました。その日本人は実に28年もの間、ブータンの諸問題に根気よく取り組み続け、大きな恵みと豊かさをもたらしたのです。

彼の名は、西岡京治。ブータンのために生き、ブータンのために死んだ西岡京治の生き方は、真の国際協力とは何なのか、私たちに問いかけてきます。

神秘の国・ブータンへの熱い想い

1964年2月、兵庫の西岡家に、海外協力事業団(現JICA)からうれしい知らせが届きました。「今春ブータンへ向かい、現地の農業指導にあたってほしい」。かねてよりブータン行きを熱望していた西岡は小躍りして喜びました。

この派遣は、「コロンボ計画」と呼ばれる国際協力事業の一環でした。コロンボ計画とは、開発が遅れる途上国を先進国が技術や経済の面で援助する国際支援の枠組みを言います。コロンボ計画への参加を表明した日本はブータン支援に名乗りをあげ、農業技術の専門家である西岡を代表に指名したのです。

西岡のブータン派遣を影からバックアップした人物がいます。当時日本を代表する植物学者で、探検家でもあった中尾佐助先生です。彼は西岡の大学時代の恩師であり、日本人として初めてブータン政府の招きを受けて現地訪問した学者でもあります。

ブータン訪問時、時の首相と面会した中尾先生は、このような相談を持ち掛けられました。「ブータンは農業の近代化が遅れている。農業の技術指導ができる日本の専門家を紹介してほしい」

中尾先生の秘蔵っ子である西岡は、まさにこの相談に適任の人物でした。「ブータンで農業指導にあたるには、まずブータンの生活に溶け込み、『あの人の言うことなら間違いない』と信頼されなくてはならない」ブータンで事を成すための条件を持つのは、西岡以外にあり得ません。彼の誠実で実直な人柄、人情に厚く、物腰柔らかで誰とでも打ち解けて話せるおおらかさ、そしてどんな困難に直面してもあきらめない根気強さは、ブータンでの活動に必ず大きな力になる。中尾先生は一にも二にも西岡を推薦しました。

西岡自身、学生時代のネパール探検で現地の貧困を目の当たりにし、「この人たちを少しでも豊かにできないか」との想いを強くしたことがあります。厳しい自然環境と隣り合わせの生活で、電気もなければガスもない。道路もろくに整備されておらず、買い出しに行くのも大変な労力です。作物を育てる田畑は富士山の山頂より高い標高にあり、スズメの涙ほどの収穫しか期待できない有り様でした。彼らの生活をよくするために、自分ならできることがあるはずー。日本に帰国した後も西岡の胸には常にヒマラヤ地方への熱い想いがありました。

その想いが数年越しに実を結び、1964年4月、西岡は新妻を連れてブータンへと赴任しました。現地はすでに田植えの準備に取り掛かっている時期でした。

日本の種を品種改良、現地で好評を得る

理想に燃えてブータンの地を踏んだ西岡でしたが、現実の壁は想像以上に高いものでした。

西岡の赴任先は、ブータンの玄関口・パロ県にある農業局。そこではインドから派遣された役人が我が物顔に仕切っています。いくら西岡が専門家としての意見を述べても耳を傾けてくれません。「ブータンでそんなことをしても無駄。何も知らない日本人は私たちの言うことに黙ってしたがえばいい」。終始こんな冷ややかな態度でしたから、さすがの西岡も参りました。

さらに困ったことに、ブータンには試験栽培できる農場すらありませんでした。試験農場がなければブータンでの適した栽培方法や品種の見極めも困難となります。ゼロからのスタートというより、マイナスからゼロに引き上げる作業から始めなければなりませんでした。

西岡は何とか政府に掛け合い、苦心して200平方m程度のささやかな土地を手に入れます。試験用の農場としては不十分な広さでしたが、ないよりはましです。早速水田を引き畑を耕して、稲と野菜の試験栽培をはじめました。

西岡の役目は、田畑の広さの割りには収穫高の少ないブータン農法を、日本式に変えて、収穫高を増やすこと。そして農機具などを導入して農作業を楽にすること。そのためには、まず成果を出して現地の役人や農家の心をつかまなければなりません。それができればおのずと彼らの行動も変化するはずです。反対に、成果がなければ見向きもされません。失敗は許されないプレッシャーの中、西岡は農業局が見習いとして紹介した12、3歳の少年たちとともに、野菜や稲の試験栽培に奔走しました。

西岡はまず大根の育て方から教えました。大根がまっすぐ太く育つための畑の耕し方、種の蒔き方、芽が出た後の肥料のかけ方など、実演を交えながら一つひとつ丁寧に指導していきます。口だけでなく自ら率先して動くのが西岡のスタイルでした。

七月下旬、試しに引き抜いた大根は30㎝ほどの大きさに育っていました。これほどの大きい大根は今までブータンで見たこともなく、少年たちを驚かせました。

二年目になると、もう少し水はけのよい高台の場所を試験農場として与えられました。面積も前より3倍の広さです。試験栽培はより本格的となり、品種の試作と改良が進みました。

西岡が育てる野菜は国会議員の間でも評判になり、試験場の視察に訪れる議員や知事が後を絶ちませんでした。ある議員の助言もあり、議事堂前で野菜の見本市を開くことになりました。多くの人が行きかう市街地の真ん中に、大根、カリフラワー、キャベツ、キュウリなどの野菜を並べ、反応を確かめると、足を止める人や質問する人、「試験場の品種が欲しい」「うちにも農業の指導をお願いしたい」などのリクエストを申し込む人など、手ごたえは予想以上のものがありました。「ブータン人の心をつかむ」。西岡は確実に大きな目標に向かって前進していたのです。

任期の延長、パロ試験場をつくる

海外協力事業の任期は二年。本来ならこの時点で西岡は任期切れでした。ブータンの農業事情が分かるようになり、現地にも溶け込みはじめたところなのに、ここで手を引いては今までの努力は何だったのかという話になります。西岡は任期の延長を強く希望しました。しかし、その心配は杞憂でした。ブータン国王こそ、西岡の留任を強く望み、事業団に任期延長を申し入れてきたのです。国王は西岡の取り組みをきちんと評価していました。そして、ブータン農業の未来をこの日本人指導者に託すつもりでいたのです。

さらにうれしいことに、ブータン国王から「パロにしかるべき試験農場をつくるように」とのお達しがありました。しかも、試験農場の運営を西岡に任せたいとも言ってくれています。これまで手探りだった作業が、現場のトップを任されることで、思う存分フルスイングの試験栽培ができるようになります。西岡にとって大きな後押しになるのは言うまでもありません。

農場用地として新たに与えられたのは、山裾のゆるやかな斜面にある高台です。水田から水路、農道、果樹園まで自分たちの手でつくる手造りの試験場が完成。西岡はそこを「パロ試験場」と名付け、農業研究と品種改良、人材育成の拠点としたのでした。

稲作のテストや野菜作りもこれまで以上に力が入ります。試験場で改良した苗や種は、積極的に地元農家に分け与え、技術指導も行いました。農場で収穫した野菜は首都ティンプーで販売。毎度好調な売れ行きを記録します。新たにジャガイモや玉ねぎ、アスパラガスの試作、果樹園ではカキやモモ、リンゴ、ブドウなどの苗木を植えました。1968年の春には日本から農業用機械が到着。現地でのデモンストレーションやPR活動などを熱心に行い、農業の機械化導入を目指しました。

ただし、ブータンに農業機械を導入するうえで、ひとつ大きな問題がありました。それはブータン人が古来から取り入れている苗の植え方です。ブータンでの植え方は日本と異なり、植える人が間隔もすき間も関係なく勝手気ままに植えていく手法でした。このままでは除草機を使うことはできません。農業の機械化を導入する前に、現地の農家に日本流の並木植えのよさを理解してもらう必要があったのです。

並木植えとは、苗を縦横に規則正しく植えていく日本式の手法です。この並木植えを定着させれば、除草機が使えて田植え前の草取りが楽になります。それだけでなく、苗と苗の間の風通しがよくなって、稲が元気に育ちやすくなります。大幅な増産も期待できることから、現地の農家にとってもプラスになるはずです。

ブータンの植え方に問題があることは、赴任当初から気づいていました。しかし、西岡は事を急ぎませんでした。「ブータンには、ブータンなりのやり方がある」。いきなり日本式の植え方を押し付けても耳を貸してくれないことは分かっています。それよりも、西岡はまず結果を出して少しずつブータン人の信頼を取り付けることに専念しました。恩師中尾先生から言われた「この人の言うことなら信用できる」と思ってくれる時期が来るまで、粘り強く待つことにしたのです。

ブータンが国際連合に加盟して世界の仲間入りを果たし1971年(昭和46年)は、ブータン農業史においても画期的な一年でした。伝統的な植え方が主流を占める中、並木植えによる田植えがはじまったのです。西岡が赴任して八年目の出来事でした。もちろんそれはある一部の水田の試験的な導入に過ぎません。ここで結果を出さなければ、やっぱり並木植えはダメだという評判がたちまち伝わります。西岡たちは固唾を乗んで稲の生育を見守りました。

結果は、4割増しの収穫。大成功です。千言の説得より、一例の結果。農業において、これほど重みのある真実はありません。パロ盆地は数年の間に半数が並木植えに切り替わりました。西岡の狙い通り、日本の並木植えはブータン農業に革命を起こしたのです。

シェムガン県の開発に成功、「ダショー」の栄誉を授かる

西岡らパロ試験場スタッフの地道な活動が実を結び、ブータン人の生活は着実に向上を遂げていました。しかし、国の隅々まで支援の手を伸ばすにはまだ不十分でした。ブータンには未開の地が残されています。特にインドと国境を接する中央ブータン南部のシェムガン県は、周囲を険しいジャングルで囲まれ、作物の栽培を阻む多くの問題を抱えていました。シェムガン県の開発なくしてブータンの近代化はない、と言っていいくらいです。

1976年、ブータン政府の音頭の下にはじまった「シェムガン県開発プロジェクト」。この統括責任者に西岡が選ばれました。国王直々の任命です。この前後に国王の交代がありましたが、後を継いだ若い国王もブータンの未来を西岡の手に託したのでした。

今度の任務は、ひとつの県を一からつくり変えるという、大がかりな町開発計画です。ただ水田を作るのとはわけが違います。一人の農芸専門家の手には余る事業といってよいかもしれません。それでも、西岡は引き受けました。ブータン人のため。ブータンの未来のため。西岡は自分に課した大きな使命から逃げることなく、真正面から取り組む道を選びました。

西岡はパロ農場のスタッフ数名を引き連れて現地調査を行いました。シェムガン県は中部ブータンのトンサから南へ50㎞、この区間は車での通行ができないくらいの隘路です。県内を流れる四つの大きな川には、籐の吊り橋がかかっていて、いつ壊れてもおかしくないほど老朽化が進んでいました。

インフラが未発達なことに加え、学校や診療所もないことも大きな問題でした。ことインド国境近くのソェナムタンン村に関しては風土病のマラリアが流行しており、医療体制の整備を急がなければなりません。

問題はまだあります。村民には決まった定住地がありませんでした。村民たちは耕作の困難から焼畑農業で食い扶持をつないでいたのです。焼畑農業は斜面にトウモロコシなどを栽培しては焼き払う農法で、決まった耕作地などありません。焼き払ってはまた移動し、適当な場所を見つけては栽培して焼き払うの繰り返しです。焼畑農業の生き方と、水田と定住地を確保する生活では、どちらが村民の暮らしによいか、検討の余地はありません。

「村民たちが移動しなくて済むよう、まずは水田をつくる。これには村民の理解と協力が必要だ。彼らが進んで町づくりに参加してくれるよう根気よく話し合っていこう」

西岡たちは進んで奥地の村を訪問し、村人たちとの話し合いの場を持ちました。開発の目的を説明し、理解を取り付けるためです。話し合いの回数は五年間でのべ八百回にも及びました。稲作に興味を持つ村人をパロ農場に招いて見学させることもしました。そのような地道な活動を続けるうちに、水田づくりや道路づくりに協力してくれる村人もちらほら現れるようになりました。

用水づくりや橋の建設も、「村人たちが自分たちでできるように」とのコンセプトのもと進めていきました。用水路の材料には塩化ビニールのパイプや竹を、川にかかる橋はワイヤーロープを、という具合に、地元の人でも簡単に作り変えられる素材と工法を選びました。これだともし壊れたときに自分たちで取り換えがききます。西岡は先々のことまで考えて全体の計画と予算を立てたのでした。

こうしてできた水路は366本、道路300キロ、開いた水田は60ヘクタール。これで年間三万トンもの米が生産できます。さらに完成した16ヘクタールの畑からは、大豆やトウモロコシ、ジャガイモ、大根などを栽培できるようになりました。

「おかげさまで学校も診療所もできました。何より、三万人もの村人が田畑のある場所に落ち着くことができて、夢のようです」開発局の西岡のもとを訪れた村人たちはそうお礼を述べました。

開発プロジェクトが完成した翌年の1981年、西岡はブータンの最高爵位である「ダショー」を国王から授かります。この称号は本来県知事や最高裁判所の判事にしか与えられないもので、外国人としてははじめての快挙でした。西岡はこの称号を自分だけの力と思わず、パロ農場のスタッフや取り組みに協力してくれた地元の人々、支えてくれた家族みんなのおかげと肝に銘じ、これからも任務に励むことを誓ったのです。

突然の訃報、国を挙げて西岡の死を悼む

西岡がブータンにやってきて28年の歳月が流れていました。本来の海外協力事業は、任期の二年、延長となっても四~六年務めて帰任となります。それがこれほど長きにわたって活動することになったのは、西岡自身がそれを望んだことはもちろん、ブータン国民や国王が西岡を必要としたからに他なりません。

しかし、西岡自身の中では、ブータンでやれるだけのことはやった、後は優秀なスタッフに任せよう、との思いが少しずつ芽生えるようになっていました。いつまでも自分が先頭に立つではなく、意思を継いでくれる後継者に後を託す。そのようにバトンをつなぐことで人は育ち、技術も継承されます。結果的には国全体が育つことになるのです。パロ農場には、西岡の愛弟子ともいえる生え抜きの現地スタッフが何人も育っていました。

ブータンの神がそれを許さなかったのでしょうか。1992年3月21日、日本に住む家族の家に一本の電話が入りました。「けさほど、ダショー・ニシオカが亡くなられました」あまりにも突然の知らせでした。59歳。日本へ戻る直前、西岡はブータンで帰らぬ人となりました。

西岡の死にブータンが悲しみに包まれたのは言うまでもありません。ブータンは西岡に最大限の敬意と弔意を払うべく、国葬でもって送り出すことを決定しました。葬式はブータンのやり方で、葬儀の場所はパロ盆地を望む丘で。これは妻の意向によるものです。夫が生きていたらきっとそう言うに違いない。常に近くで見守っていた妻にはその思いが分かっていました。

ラマ教の読経が厳かに流れる中、西岡のなきがらは荼毘にふされました。ブータンの西から東から、ひっきりなしに弔問客が訪れ、その数は五千人を越える多さでした。彼がいかに国民から慕われていたかが分かります。一人の日本人の死に、ブータン全土が泣きました。

幸せの国ブータン。農業生産の飛躍的な向上が国民の精神を豊かにした面は否定できません。その国際貢献に大きな役割を果たしたのが西岡京治という人物です。ブータンでもっとも有名で、尊敬される日本人。彼の功績は、彼が愛してやまなかったヒマラヤの地で永遠に語り継がれることでしょう。


参考:『ブータンの朝日に夢をのせて』くもん出版
































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