わたしたち日本人の祖先は、大きな戦争をすると決め、戦った③「鳴けない海鳥の咆哮」

山本五十六長官は、もともと「賭け事」が大好きな人でした。ポーカー、花札、麻雀、賭け将棋など、およそ賭け事と呼ばれる遊戯は何でもやり尽くしました。「海軍をやめたら、モナコへ行って一流のギャンブラーになる」と公言してはばからないほどの熱の入れようでした。

その山本長官が、アメリカと戦争するとなった場合、「海軍すべての航空兵力を結集して、アメリカ海軍の拠点であるハワイ基地を叩く」という、大作戦構想を打ち立てました。この構想を聞いた人の多くは、「山本長官は戦争でバクチでもはじめるつもりか」と驚嘆したほどです。

あまりに常識外れの作戦に、反対の意見があちこちから起こりました。

「空母をぜんぶハワイに回すなんて無理だ。インドネシアやフィリピンを攻めるほうが戦略的に重要なのに。日米戦争は連合艦隊のためにやるわけじゃない」

「第一、こちらの行動を隠しながら、広い太平洋をどうやってハワイまで移動するというんだ。見つかれば一網打尽じゃないか」

とくに、陸海作戦の調整を図る海軍上層部は、山本長官の構想は現実的じゃない、と強く反対します。それに対して長官は、アメリカと戦争するには何が何でも最初にハワイ基地を叩かなくてはダメだ、と力説しました。

「国力が違うアメリカと戦っても、長期戦はもたない。だから、まずは奇襲でもってアメリカの主力艦隊を一挙に殲滅する。それくらい、大胆な作戦を決行できないようではどうする」

「そのようにして相手の戦意をくじき、日本と戦わなほうが身のためだと思わせる。アメリカと戦争するからには、勝敗を第一日目で決するくらいの覚悟でないとダメだ」

ハワイ作戦における主役は、航空機になります。つまり、相手の基地や戦艦に空襲を仕掛けて倒すという作戦です。これは、巨大な戦艦同士が真っ向からぶつかることを想定した従来の作戦計画と、大きく異なります。つまり、一から作戦計画を組み立てる必要があるわけです。これには海軍の幹部たちも戸惑うしかありません。

それにしても、長官のハワイ作戦に対する入れ込みようは、相当なものだったといえましょう。

「ハワイ作戦は、私が長官でいる限り、必ず実行する」と彼は言い切りました。

つまり、ハワイ作戦が認められなければ長官の職を辞める、ということです。

そこには、一武人としての並々ならぬ執念さえ感じさせました。

そのころ、ドイツとの関係を強めていった陸軍は、ヨーロッパで優位に戦争をすすめるヒトラー政権の後ろ盾のもと、南部仏印(現在のカンボジアやラオスなどがあるインドシナ半島南部)という場所に進軍します。

ドイツがイギリスを倒し、イギリスの支配下にあるインドを手中に収めたとき、その動きに連動できるようにするためです。陸軍は例のごとく、アメリカに対する見方が甘すぎて、この程度でアメリカを刺激することはないだろう、と予測していました。

ところが、アメリカはすぐに反応して、日本の在米資産を凍結してしまいます。そのうえ、原材料や資源、食糧などさまざまな物資を日本へ輸出することを禁じました。これによって、大切な石油がアメリカから一滴も入らなくなったのです。当時の日本は、原油の調達のほとんどをアメリカから頼っていました。

当時は、近衛文麿という、貴族上がりの人が総理大臣を務めていました。

この人は単に血筋がよいというだけで、取り立てて能力が高いわけではありません。陸軍にとって都合のよい人材だったから押し上げられただけで、とても国難のときに総理大臣が務まるような器ではありませんでした。

当時の日本は、軍人が政府をコントロールしやすい状況にありました。たとえば、陸軍大臣が「やめます」といえば、内閣は閣内不一致で総辞職しなければならなかったのです。このように、政府が政府として存在する基盤が非常に軟弱だったため、実質的に生命線を握っていたのは陸軍だったといってよいでしょう。

緊迫の度が増す中で、最悪のケースに発展しても柔軟に対応できるよう、軍の組織には軍備を整え計画を立てておく任務があります。その意味では、もはや日米戦争は避けられないからという理由で、シミュレーションや作戦計画を練り上げようとする動きがあるのは当然でした。

戦争反対派だった山本長官も、もはや戦争は避けらず、急いで準備を仕上げなければならないという考えを強めたからこそ、ハワイ作戦の必要性を説いて回ったのです。

山本長官の真意は、こうでした。

陸海軍が全力を挙げてフィリピン、マレー、インドネシアなどの東南アジアに兵を進め、めでたく石油を確保できたとしても、東のほうから進んできたアメリカ艦隊に対しては、日本の本土ががら空き状態になる。労せずして太平洋の島々を獲得した米軍は、空襲部隊を差し向けてくるに違いない。そうなっては帝都も火の海と化すだろう。

南方占領を果たすにも、太平洋でアメリカ艦隊の動きを封じ込めなければ作戦構想は総崩れになる、というのが山本長官の考えだったのです。

その一方で、山本長官の抱く作戦も、危険極まりないリスクを多分にはらんでいました。

なんせ、日本列島からハワイまで、最短距離でいっても4,000kmはあります。そのなかを、敵に一切知らせず航海しなければなりません。基地に近づくにつれ、偵察の飛行機や船と遭遇する確率は高まるのです。しかも、冬の北太平洋はシケがひどくてとても船で渡れるような状況ではありません。そんな、立ちはだかる壁が幾重にもそびえる作戦に、成功の見込みがどれだけあるのかー。反対派の人たちが慎重になる理由も分かるというものです。

しかしどうでしょう、ハワイ作戦をやると決めた山本長官は、かなり強気です。まして、「この作戦ができなければ、長官をやめる」とまで言っています。おそらく本気でそう考えていたのでしょうが、では日米戦争になったとしても、それでよいのでしょうか? 戦争回避が彼の本当の目指すところであったはずなのに。

昭和16年の9月頃、近衛首相と、アメリカ大統領ルーズベルトによる、「日米トップ会談構想」がにわかに浮上しました。目的はむろん、戦争を避けるための話し合いにほかなりません。その時期に、山本長官は、近衛首相に意見を聞かれています。「もし交渉がまとまらなかった場合、海軍の見通しはどんなものか」この質問に対する長官の答えはこうでした。

「半年、一年は思う存分暴れてみましょう。しかし、その後はどうなるか分かりません。戦争になれば、力の限りを尽くして戦うのが軍人としての務めです。だから総理も、最後まであきらめず、戦争回避のための努力を続けてください」

海軍大将として、実に力強い言葉です。近衛総理を奮い立たせる気持ちもあったかもしれませんが、そこには、戦争反対を唱えた当時の影は見当たりません。

これに対しては、山本長官と懇意だった、ある海軍の要人が否定的な評価を下しています。

「はっきりと、戦争はできません、やれば必ず負けます、と言えばよかったのです。あんな言い方をすれば、意見のない近衛総理は曖昧な気持ちになる。できませんといって長官の資格がないと言われたら、それなら辞めますといえばいいのです。アメリカと戦争はできない、やっても負けるなんて軍人として言うのは忍びなかったと思うが、あえてはっきり言うべきでした」

山本長官には、海軍大臣になって戦争を全力で止める側に回ってほしかった、との声も聞かれます。それは戦前にもありましたし、戦後の評価としても聞かれる意見です。

しかし、彼はその道を選ばず、連合艦隊司令長官としての職務をまっとうすると腹をくくりました。まっとうするには、ハワイ作戦の決行するしかない、という考えです。しかしこの行動は、対米開戦へ向け突き進む日本政府の行動を、補強もする結果になったのではないでしょうか。

山本長官の信念は、いつの間にか「日米戦争阻止」から「真珠湾作戦決行」に変わってしまった。その側面は否定できません

一かバチかのハワイ作戦に、生粋のギャンブラーである山本長官が、その血をたぎらせるあまり没頭した、というのは邪推が過ぎるかもしれません。

戦争回避に動こうものなら、軍部の偉い人でさえ「弱虫」「負け犬」とさんざん罵られるあの時代、「戦えません」「戦争すれば必ず負けます」と発言するのは、かなり勇気がいるものでした。

そんな時代の雰囲気に押し流されるように、山本長官は威勢よく「やれといわれれば半年は暴れてみせます」と言ってしまったのではないしょうか。

「戦う」ことを選ぶより、「戦わない」ことを選ぶほうが、何倍もの勇気を必要とする時代なんて、いまのわたしたちには想像もつかないでしょう。

結局、誰も戦争を止めることはかなわず、日本海軍の船ははるか南の島を目指し、嵐の海の中をこぎ出したのでした。



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