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福沢諭吉「独立できていますか?」明治時代の“独立論”現代人の頬っぺたを引っぱたく

独立とは何かー。

新しい時代の扉が開かれた明治初期、国民に対して切実に問いかけた人物がいました。

その名は福沢諭吉(1835年~1901年)。一万円札でおなじみの人物です。

幕府の外国方(外務省に相当)に召し抱えられ、外交文書や洋書の翻訳に従事。その一方で学び舎「慶應義塾」を創設、英語や蘭学の普及に力を注ぎました。福沢の薫陶を受けた教え子たちは、政界や財界、言論界など各方面で活躍し、文明開化にひた走る新国家日本の建設に貢献しました。

福沢諭吉が生きた幕末・明治という時代は、価値観の大転換が起こり、社会の仕組みが根底から覆された時代です。「封建社会」から「近代国家」へと移行するためのさまざまな改革は、「身分制度」や「幕藩体制」といった腫瘍を切除し、「議会政治」や「立憲君主制」、「四民平等」などの新しい血を送管する仕組みに付け替える、まさに一大外科手術でした。

しかし、政治や経済、産業のシステムといった「文明のかたち」を整えるだけでは、仏つくって魂入れずの状態です。そこに「文明の精神」を注入してこそ、真の文明開化が成し遂げられ、望むべき近代国家へと脱皮できるのです。「文明の精神」を日本に浸透させられるかどうかは、国民意識にかかっていました。

新しい時代にふさわしい生き方・考え方とは何かー。その方向性を“独立論”というかたちで示した福沢の仕事は、「国民意識の革命」と呼ぶにふさわしいものでした。そこには、現代の社会規格には収まらない、明治の時代ならではの、切実かつ峻烈なメッセージが込められています。

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「一身独立して、一国独立す」

福沢諭吉著『学問のすゝめ』のなかにみられる一文です。

国家の独立は国民一人一人の独立精神によって支えられる、と説く言論の背景には、弱肉強食の原理がはびこる厳しい国際情勢がありました。

当時、インドや中国をはじめとするアジア諸国はどこも西洋の植民地支配を受け、先進的な技術力と工業力、強大な軍事力の前に屈伏するしかありませんでした。

強い国が弱い国を蹂躙する帝国主義の食指は、封建社会の重い眠りから覚めたばかりの日本にも及ぼうとしていました。

日本が西洋列強の侵略をはねのけ独立を守るには、経済的にも軍事的にも自立した体制を整えることが喫緊の課題だったのです。

しかし、国を守るための改革や法整備が必要だという意識は、国の運営をあずかってきた旧士族階級にあっても、「国民」として解放されたばかりの百姓や町人、商人たちにはありません。

彼らはつい昨日まで食べるための生活を追うのにせいいっぱいの身、充分な学問も身につけておらず、政治的なことはすべてお上に任せる習慣が染みついていたのです。

士族として生きてきた福沢諭吉は、武士を頂点とする階級社会の弊害を目の当たりにしてきました。

その一方で、一介の教育者として教壇に立ち、庶民の知性と教養とに接した経験上、下々まで広く学問の素養が身についていない現状もわかっていたのです。

生まれながらの身分で人の一生を縛る身分制度を「人権侵害」や「不平等」といった情緒的批判だけで済ませず、学問なき国民の氾濫からくる国家的危機にも目を向けている点は、西洋の合理主義精神をあわせ持つ福沢らしい批評眼だといえます。

他人や国に依存せず、国民一人ひとりがその足でしっかりと立てる独立気概の精神を持つことこそ、日本が侵略を防ぐ唯一の方法であり、その真理を国民に啓蒙することが、福沢がこの書をしたためた狙いでありました。

福沢は、『学問のすゝめ』のなかで、独立心なき者の弊害を次の3か条にまとめています。

・独立の気力なき者は、国を思うこと深からず

・内にいて独立しない者は、海外で外国人に接するとき卑屈になる

・独立の気力なき者は、人に依頼して悪事をなすことあり

この時代における「独立」とは何を意味したのか、現代との違いを比較しながら考えるのも面白いと思います。

独立の気力なき者は、国を思うこと深からず

福沢はまず、独立とは、「わが身を立て、他人に頼らない気構えを持つこと」と説きます。その意識を自ら養う姿勢がなければ、簡単に他人に依存し、他人の財を当てにしてしまう、とも。他者に依存する者はやがて国に依存する。それが全国民に及べば国は疲弊し、弱者の重みでつぶれてしまうだろう、と警鐘を鳴らします。

国を支えるのは国民一人ひとりであるという自覚が、たくましい政治を生み、他国の侵略をはねのける強い国家に育て上げる。これが、福沢が理想とする国民像と国家像です。この自覚を政府主導で教え込むのではなく、国民が主体的に持つべき、とも言います。

その主体性なき姿は、所詮「客分」であり、国の行いについて責任も持たず、ただすがりつき、困ったときだけ国を当てにすることになります。国民がそっぽを向き、一握りの政治家や役人の力だけでは、国家を支えることなどとてもかないません。

国民が政治について主体的に考えるとはつまり、国を我がことのように想うこと。そんな「愛国心」深き国民が増えることで、政治もまっすぐに立って歩けるようになる、と福沢は言います。

内にいて独立しない者は、海外で外国人に接するとき卑屈になる

江戸時代の終わりまで、下々の庶民は国の運営のすべてをお上に託してきました。これは、武士階級の支配にしたがえばいい封建社会においてのみ、許されることです。それが、四民平等となり、学問の自由が広く国民の間に行きわたるようになれば、みなが独立の気概を持って主体的に政と向き合わなければならない、と福沢は説きます。

その精神がない者は、必ず人を頼ることになる。人を頼る者は、必ず人を怖れる。人を怖れる者は、必ず人に媚びる。やがてそれが習性となり、皮膚の一部と化して、言うべきことも言わず、恥ずべきことも恥じない、ただひたすら卑屈な姿勢に甘んじることになる。

そんな日本人が外国に行ったとき、果たしてアメリカ人やイギリス人、フランス人らと対等にモノが言えるだろうか? その大柄な体と強い自己主張の前に、腰を低くしてただ押し黙ることはないだろうか? いや外国に行かずとも、横浜などで外国の貿易商と接する日本の商人は、その駆け引きの鋭さに恐懼し取引でも損をし、恥をかいています。一人の恥辱は一国の恥辱になる自覚もなくー。福沢がこうも手厳しく筆誅を加えるのは、強国に支配されるかもしれないという、切迫した危機意識からに他なりません。

独立の気力なき者は、人に依頼して悪事をなすことあり

ここでいう悪事とは、「国を売る」という意味。独立の気力がない者は、他人や国を頼るだけで政に責任を持とうとしない。政治を我がことのように考えないから、国を売るようなことも平気でする。福沢諭吉に言わせれば、独立心を持てば愛国心も自然と涵養され、国家を守ることにつながる、というわけです。

独立心なき心が、名目にかしずく弱さと結びつけば、ますます売国行為を容易にする、とも言います。そして福沢は、日本人がいかに名目に弱いかも見抜いていました。

日本人が名目に弱い国民性であることを、福沢は江戸時代の貸金業の例えを持ち出して分かりやすく論じます。当時の貸主たちは、御三家や御三卿、大名、寺社の威光を借りてひどい取り立てを行っていました。借主は不当な取り立てにあっても、正式な権威である奉行に直接訴えることをせず、ご威光を怖れるばかりです。曲げられた道理は正されることなく、ただ名目にぶらさがる貸主を増やすばかりの世の中が続いた、と言います。

「変わって明治の世には、名目の座に『外国人』が座るようになる」増え続ける外国人居住者の状況をみて、福沢は危惧を覚えます。外国人の名目を悪用することも、それを盾に奸を働く行為も、許されざる売国であり、国民に自戒するよう訴えかけました。

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『学問のすゝめ』は、全編あわせて340万部以上が売れたといいますから、いかに当時の庶民に広く受け入れられたかがわかります。

政府は国民から自由を奪うのではなく、自由を与え、権利を解放する。そして四民平等社会の実現を約束する。

国民もまた、独立独歩の精神と国を想う心を持ち、国家の運営に協力しなければならない。真の自由平等を勝ち取りたいなら、強い国家をつくる政府の支えとなれ。学問を身につける目的も、そこにあるー。

独立を守るためになすべきは、政府と国民がともに国造りにまい進し、苦楽を分かち合うことだ、と言いたかったのではないでしょうか。

外国から侵略をうける脅威などない現代では、大上段にこのような独立論を振りかざされてもピンとこないでしょう。

現代は戦争リスクが減ったとはいえ、戦争以外の有事ーたとえば自然災害や未曾有の経済不況などーのリスクは常につきまといます。

今回のコロナウィルス騒動も、有事といえば有事です。

わたしたちは過去の反省から不戦の誓いを立て、戦争のない平和な世の中を築いてきました。それ自体は大変よいことですが、その一方で、いざというときの危機にどう対処していくか、政府も国民も真剣に考えてこなかったといえないでしょうか。

いつまでも江戸町人の根性でいるな、と明治人の尻を蹴り上げた『学問のすゝめ』。

福沢諭吉はそのなかで、こうも言っています。

「この人民ありて、この政治あり」

現代を生きる私たちも、しっかりと受け止めたいところです。


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