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歴史が神話になる前に

人類史上もっとも売れた本といえば「聖書」です。正確な数字はわかりませんが、発行部数はこれまで少なくとも60億部以上と言います。5億部以上売れた現代最大のベストセラー「ハリーポッター」ですらその足元にも及びません。

聖書にはイスラエル建国の歴史が綴られており、ジャンル的に歴史書という括りもできます。その一方で、アダムとイブの話、モーセ十戒の話といった神話的色彩の濃い物語も書かれています。事実を前提とする歴史書とは相容れない部分もあります。

聖書の内容が事実であれ創作であれ、今となっては検証しようがありません。それは、虚偽があったり創作があったりしても否定できないことを意味します。推定無罪のようなもので、否定できない要素だけみると、聖書は立派な神話と言えるかもしれません。

歴史と神話の違いは何か? それは「否定できるかできないか」の違いではないでしょうか。「訂正できるかできないか」の違いとも言えます。

歴史には、先の時代で研究や再検証を進めてゆき、間違いがわかれば訂正して見直すという作業が可能です。それが学問としての歴史の役割でもあります。神話化してしまった「事実」は、もう人知の手の及ばない場所に行ってしまうので、否定や訂正はかなりの難作業になります。明らかな間違いが認められても、おかしい矛盾や疑問が指摘されても、有無を言わさぬ大きな力で押し流されてしまいます。

神話というくらいですので、その力は絶大なものがあります。だからこそ、時の権力者や支配層たちは、自分たちが権力支配の座に就いたとき、「歴史の神話化」作業を第一の優先事項として、記録の修正や削除、資料の改ざん、証言の封殺ないし追加、検閲、言論統制などを通し、権威を正当化するための基盤をガチガチに固めていったわけです。焚書坑儒をやった秦の始皇帝しかり、豊臣政権を擁護する言説を徹底して封じ込めた徳川家康しかり、こんな例は古今東西の歴史にいくらでもあるばかりじゃなく、今の時代であっても当たり前のように行われています。

黒でも白に塗り替える権力の横暴は、時代が下って今を生きる私たちなら正誤の判定を下すことができます。神話の魔法も時代とともに効力を失い、人間たちの手に歴史を取りもどすことができるわけです。ただ、これには「物事は何でも時間とともに風化する」という新たな問題がつきまといます。残された記録や資料、証言の信憑性を検証する作業は、時代が新しいほど正確さが担保でき、反対に古くなるほど難工事になります。事実とかけ離れた記録や証言が残されていても、それを検証する手立ては非常に頼りないものです。明智光秀がなぜ織田信長を討ったなんて、永遠にわかりっこないでしょう。はるか昔に書かれた聖書の内容が真実かどうか誰にもわからないといった問題は、今の時代にも、これからの時代にも立ちはだかってきます。

ただ救いなのは、今の私たちは始皇帝も徳川家康もいない時代を生きているということです。情報の入手も比較検証も発言著述もすべて自由です。それを考えると民の力は昔と比較にならないほど強くなり、恵まれた立場が保証されているとも言えます。幕末の強制開国も明治維新も満州事変も日中戦争も第二次世界大戦も日米戦争も戦後の占領統治も、調べて自分なりの歴史観を持つことができるのは、学者だけではなく私たち国民にも許された尊い権利です。同時に、歴史をゆがめようとする者と戦う“武器”にもなります。先の対戦については、敗戦国となったために戦勝国による神話化された歴史をありがたく頂戴している現状があるのは残念です。ただ、どうにも手が付けられないほど絶望的な状態とも思えません。だからこそ私は今こうした場で発信しているつもりです。

現在は未来にとっての歴史です。今起きている問題もいずれ歴史として語られるときが来ます。歴史になりそうな直近のトピックといえばコロナですが、「コロナヤバい神話」「マスク神話」「自粛神話」「ワクチン神話」がすでに完成されつつあります。これをこのまま歴史的事実として後世に伝えてよいのでしょうか? 今ならぜんぜん検証は間に合います。権力と結びついた学者や専門家などあてになるはずがなく、国民の手にかかっています。













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