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独立しろと叫んだ福沢諭吉は独立どころか主家に金をせびる不埒者だった

ちょっと品に欠けるタイトルになりますが、これは福沢自身が自伝『福翁自伝』で白状しているところです。

厳しい国際社会の荒波に投げ出された祖国を鼓舞すべく、筆をとった福沢諭吉は、『学問のすゝめ』を出版。新しい時代を生きる日本人としての学び方を打ち出しました。

「文明の華は、国民が独立してこそ開花する」と説く福沢流の独立論は、近代日本人の精神形成に大きな影響を及ぼし、現代の私たちにも強く訴えかけるものがあります。

このメッセージからも察せられるとおり、福沢がこだわったのは国民の独立です。当時の日本は西洋に侵略される危機があり、近代国家への脱皮が急務でした。そのためには、国家に依存しない、国民一人一人がその足で立っていける独立精神が欠かせないとの信条を持っていたのです。

ここで気になるのが、福沢自身の性格や生活ぶりです。そんなに厳しく他人に要求するくらいだから、相当に厳格な人物だったと想像したくなります。

福沢の人となりを知るうえで参考となるのが、先に挙げた『福翁自伝』です。そのなかで彼は、「生涯一度も、他人にお金を借りたことはない」と語っています。お金には厳しく、どんなときでもいい加減に済ますことができなかったそうです。このあたりの行動は、自身が唱える独立論に通ずるところがあり、まさに身をもって範を示してくれています。

福沢の生家は貧しい下級武士の家だったこともあり、お金には苦労したようです。とくに、お母さんが大変お金に厳しい人でした。まして武家はお金を卑しいものとみる向きがあります。そんな家庭環境も、福沢の人格形成の一因となったのでしょう。

金銭に苦しんだ福沢家は、「頼母子講」に参加して何とか糊口をしのいでいました。裕福な大家のなかには、出資したお金の回収もせず免除で済ませるところもあったようです。福沢家もそんな太っ腹な商家に助けられたことがありました。

その日から十年後、14歳の諭吉少年は、母にこんなことを言われたそうです。

武家が町人からただでお金をもらって黙っているわけにはいきません。とうから返したい返したいと思っていたがどうもそうはいかずに、やっと今年は少し融通がついたから、この二朱のお金を大阪屋に持って行って厚く礼を述べて返してこい

大阪屋に行ってみると主人は当時のことを覚えていなく、福沢少年は母に言われたものだからぜひにと、押し付けるように金を渡してその場を後にしました。

「こんな少年時代の経験が常に頭に残っているから、金銭については横着はできない」

福沢が金銭の奴隷にならず、他人の世話も受けずに済んだのは、“金銭の損得で心を動かされるな”という武家の教訓が骨身に染みていたからでしょう。

いかにも身ぎれいな人間に思えますが、これは福沢の一面に過ぎません。武士時代、金にきれいどころか「藩のお金は取れるだけ取れ」というくらい野放図だったようで、それは性格というより、藩に仕える身としてはそう振る舞うのが当然、という信条があったようです。

私が中津藩に対する筆法は、何でも構わぬ、取れるものは取れという気で、一両でも十両でもうまくとり出せば、何だか狩りに行って獲物のあったような心持がする。拝借といって金を借りた以上はこっちのもので、返すという念は万々ない。

福沢諭吉はお金の工面に困ったとき、藩の金庫番を口八丁で言いくるめて150両もの大金をくすねるという大胆不敵な行動に出ました。そこで一年ばかり苦労せず暮らせたと自慢げに語っています。

福沢曰く、藩のお金を我が物のように扱っていたのは自分だけではなかったとか。それが本当だとしたら、「何かあったとき、藩士には藩のお金を自由に使う権利がある」とする風潮があったのかもしれません。

しかし、幕府が倒れ藩そのものがなくなり、福沢も古い意識を捨てるときがやってきます。時の歯車の回転に合わせ、機敏に思考と精神をアップデートした姿は、福沢がただの武士という規格に収まらなかったスケール感の表れです。

これは社会の大変革で、したがって私の一身もはじめて夢が醒めて、藩庁に対する挙動も改めねばらなぬ。これまで藩庁に対して恥ずべきことを犯したのは、ひっきょう藩の殿様などというものを崇め奉り、その極度はその人を人間以上の人と思い、その財産を天然の公共物だと思い(略)これからは藩主も平等の人間なりと一念ここに発起して、この平等の主義からして物を貪るは男子のことにあらずという考えが浮かんだのだろうと思われる。

新しい時代に誕生した「平等」という概念こそ、福沢流独立論の母胎なのではないか、という気がします。

「平等」を勝ち取るには、誰にも依存してはならぬ、金の力にも縛られてはならぬ。独立精神こそみなと同じ地平に立つことを許される資格であるー。

明治以降、洋学者であった福沢諭吉の役割は、庶民に学問の必要性を説き、広く啓蒙することでした。当時の有名な洋学者のほとんどは政府お抱えの御用学者でしたが、福沢は死ぬまで民間人の立場を貫きます。政府への出仕を誘う声があったものの、頑としてこれを拒否。在野での言論活動にこだわったのは、「一身独立を保つため」でしょう。

福沢諭吉という人間は、武家社会では武士として骨太に生き、明治の世になると鋭い進取性と国際感覚を発揮して政界や財界など多方面に大きな影響を与えました。武家の気風だけでは、その器は形成できませんし、近代の精神だけでも足りません。両方を兼備してこそ、完熟たる福沢諭吉が誕生します。

実に見事なハイブリッドかと思いきや、福沢諭吉の生没年を調べてみるとその生涯は66年、江戸33年、明治33年と、きれいに分け合って生きています。福沢は晩年、我が人生をこんな言葉で表現したそうです。

「一生にして二生のごとし」

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