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明治維新で失職した武士たちの再就職先

明治時代は武士が大量に失業した時代であった。

身分も職も失った彼らはその後どのような職についたのだろうか。

元武士たちが「警官」になり明治日本の治安をあずかる

明治時代に警察制度が確立して「警官」が誕生。
警官採用の初期では「藩兵」と呼ばれる藩の軍隊を構成した武士たちが多数を占めた。

警察組織の前身は、明治2年(1869年)に諸藩の兵士らにとって構成された「府兵」。翌年「取締」、翌々年には「邏卒」と改称される。
明治5年には全国の警察組織が司法省に統合されて「巡査」となった。

明治10年(1877年)の西南戦争では警察も軍隊とともに出動。川路利良率いる警視隊には元新撰組の斉藤一も名を連ねている。

この時代はまだ法整備も整っていないために民事・刑事の区別もなく、夫婦げんかや借金トラブルなど些細なもめ事にも介入した。何でも警官に監視されて息苦しいと愚痴をこぼす庶民を描いたポンチ画もある。

当時の巡査は安月給で威厳もなく、まあまあの底辺だったらしい。

多くの士族出身が殺到した官吏(公務員)職

下級官吏(公務員)になった武士階級の人たちもたくさんいた。

明治政府の組織は二官六省(神祇官・太政官の二官と民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の六省)でスタートした。国家の体制が刷新されたばかりでやることは山ほどあったのだろう、何度も組織の変更が行われて人員も増えていった。

高給で生活の安定が保証され、早い出世も期待できる公務員が人気職なのは今も昔も変わらない。明治時代の小説『浮雲』(二葉亭四迷作)では、上司に嫌われたことで官員を免職になり人生が狂う士族の息子文三の苦悩を描いている。幼なじみで相思相愛のお勢との結婚話は怪しくなるし、お勢の母親との関係もギクシャクし出す。「教師や翻訳で食べていく」と、仕事は官員ばかりじゃないと主張する文三に対し、お勢の母が鼻で笑って一蹴する場面があるが、当時官員の給料は教師の5,6倍も高く、まったくお話にならなかった。これは小説の話だが実際公務員を特別と見なす風潮は強かった。

剣の達人たちによる剣術ショー「撃剣」

江戸時代にはたくさんの剣術道場があった。千葉周作の玄武館、斉藤弥九郎の練兵館、桃井春蔵の士学館など。幕府直営の「講武所」なる道場もあり、これは剣術や槍術、砲術を学ぶ陸軍訓練所として誕生した。

明治の世になっても「剣で食べていきたい」と考え、時代の波にあらがう士族は少なくなかった。そんな彼らによってはじめられたのが「撃剣興行」。磨き抜かれた剣さばきを披露して金を取るという、いわばプロ剣術である。

撃剣興行の嚆矢は、旧幕臣で講武所の剣術師範だった榊原鍵吉。榊原主宰の道場にはたくさんの見物客が訪れていた。これは商売になると踏んだ榊原は困窮する士族を集めて「撃剣会」を結成し、許可を得て浅草隅田川岸で撃剣の興行をはじめた。これが思いのほか評判を呼び一大ブームを巻き起こす。一時は天覧試合が行われるほど国民的支持を勝ち得るにも、飽きられたのか「撃剣」の名は塩が引くように消えていった。

帰農・帰商の道を模索するも……

戊辰戦争で藩の財政がはなはだしく逼迫し、俸禄で武士の生活を保証する仕組みは瓦解した。

藩士たちが帰農・帰商する流れは幕藩体制が崩壊する中で生まれ、大量の失職武士を生み出した廃藩置県を機に加速する。

「士族の商法」と揶揄されたように、士族が商売の世界で利巧に立ち回るのは至難の業だったらしい。落語「御前汁粉」「素人鰻」では、食べていくため養うために致し方なく商売に手を出す士族たちの場違いな滑稽ぶりをペーソスたっぷりに描き出している。

政治の舞台で乱舞「自由民権運動家」「壮士」

明治初頭、国会の開設を要望する「自由民権運動」が白熱した。

事の起こりは、国交を拒絶した朝鮮に軍隊を派遣するか否かの議論で政府内が真っ二つに割れた「征韓論」。

最終的に軍隊を派遣しない政府決定がなされ、これを不満とする西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平が辞表を提出。西郷を除いた四人は愛国公党なる政党を結成して「民撰議員設立建白書」を提出する。

この建白書は、国民に政治参加の権利(民権)を付与し、国民から選ばれた議員からなる議会の設立を要望するというもの。この考えが後の自由民権運動の基礎となる。

政府に不満を持つ士族たちの中には自由民権運動に参加する者も多かった。士族を巻き込んだ自由民権運動は全国各地に波及するほど大きな政治現象に発展する。

国のために奔走する自由民権運動家はやがて「壮士」と呼ばれるようになる。「壮士芝居」という言葉も生まれた。これは、保安条例を制定して集会や演説を禁止した政府弾圧に対抗するための苦肉の策で、政治風刺を盛り込む大衆演劇を通して民衆を目覚めさせる啓蒙運動であった。この政治演劇活動から、「オッペケペー」で一世を風靡する川上音二郎、新派演劇が生まれた。

燃え上がる自由民権運動も、政府による弾圧や、象徴的存在だった板垣退助の入閣で下火になると、壮士たちの活動の質は著しく劣化する。人を集めて物を売るとか、流行歌を大音声で歌うとか、ただ目立って小金を稼ぎたいだけの現代のユーチューバーみたいな輩に成り下がった。なかには壮士を名乗り金品をゆするただのたかりもいた。政府批判を商売にする輩はいつの時代にもいるものである。

まとめ:厳しい厳しいと言うけれど……

四民平等の時代になり、みんな等しく平民扱いになった。ただその陰で武士たちは立場を失い、生きる糧を奪われた。国家による大量解雇。封建社会という檻から解放されて自由といえば自由だが、いきなり弱肉強食の競走社会に放り出された者たちの心情はいかに。人間の心は制度や法律のように文面を書き換えれば変わるというものではない。そんなところに思いを馳せるのも歴史の醍醐味。いつの時代も厳しいもの。何だかんだ言って時代は進み社会は成熟している。貧困も飢餓も昔ほどじゃない。権力による弾圧なんてのもない。今よりもっと苛烈で有無を言わさぬ非情さにまみれた時代でも、日本人はしぶとく生き残り世代をつないだ。そして今の私たちがいる。


























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