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台湾はなぜ親日か。かつて「日本」だった朋友とともに築いた歴史

台湾が親日になる理由は「歴史」にある

東日本大震災の発生からもうすぐ10年を迎えます。未曾有の被害に襲われた日本はあのとき世界中の国々から温かい支援を受けました。そのなかでもとりわけ印象的だったのが、隣国台湾の行動です。世界のどの国よりもはやく支援に名乗りをあげ、巨額の義援金を送ってくれました。市民から寄せられた義援金の総額は200億円にも上ったといわれます。

この人道的な振る舞いに感動を覚えながらも、なぜ台湾がここまで親身になってくれるのか、不思議に思われた方も多いかもしれません。

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実は、台湾の善意はこれがはじめてではありません。大正12年(1923年)に発生した関東大震災のときにも、島内から127万円、現在の価値に直すと30億円を超える義援金が送られています(『風刺漫画で読み解く日本統治下の台湾』より)。このときも、総人口や住民の平均所得を考えると、あり得ないくらいの額を惜しみなく日本に寄付してくれたのでした。

東日本大震災のときと違うのは、当時の台湾が「日本の一部」だったことです。日本が日清戦争に勝利して明治28年(1895年)に台湾を領有、昭和20年(1945年)の敗戦で領土放棄するまで、台湾は日本であり、台湾人は日本人でした。よく「親日」と称される台湾ですが、その根源を探ったとき、やはり50年におよぶ統治の歴史抜きには語れません。

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そんな、台湾人なら誰もが知っている歴史を、日本人の多くが知らない(知らされていない)実情があります。これが原因で両国間に理解不足やすれ違いを引き起こしているのは残念でなりません。先人たちがどんな想いでこの隣人と向き合い、ともに同じ歴史を歩んできたのか。現役世代にきちんと伝えていくことで、理想とする両国の関係づくりも見えてくるのではないでしょうか。

現代の台湾は日本人がつくった

日本は明治維新を成し遂げ、近代国家の仲間入りを果たしました。そのときに培ったノウハウを、領有した台湾の近代化に注ぎ込むことになります。それは明治維新から三十年足らず先の出来事であり、まさに日台関係は親が子の手を引いて一緒に走る関係性だったといえます。

その親子関係は、1895年に台湾が日本領となったことでスタートしました。欧米列強がアジアやアフリカに持っていた「植民地」を、日本がはじめて持つことになったのです。

今の物差しで考えると、日本のこの行為は倫理的に責められるものかもしれません。しかし、当時の国際社会のルールに照らせば、戦争に勝った国が負けた国の領土を譲り受け、代わって統治することは、決して珍しいことではありませんでした。

ある大企業が外国の企業を買収し、社屋から資産、人材まですべてを取り込む「企業買収」は今の時代珍しくありませんが、企業でなはく「領土」を取引するのがあの時代の植民地経営といえばわかりやすいかもしれません。

日本が台湾を統治するとは、つまり、住民を慰撫し、彼らが満足に食べていけるよう産業を興すとともに、道路や鉄道といった交通網ならびに学校・病院・水道設備などのインフラを整えるということです。これはほとんど一つの国を作り上げるような大事業でした。

台湾という地域が何もかも整備された状態であれば、それほどの苦労はなかったでしょう。しかしこの当時の台湾は、とても人々が満足して暮らせるような地域ではありませんでした。

何しろこの地には亜熱帯地方特有の風土病が蔓延し、外国人が渡島すればたちまちマラリアにかかって死ぬほど危険極まりない状況だったのです。さらに頭を悩ませたのが、「土匪」と呼ばれる暴徒の存在です。山賊や野盗の性格が色濃いこの集団は、他国の支配が入ると激しい抵抗を示し、反体制ゲリラとなって暴れまわるという、支配する側からすれば頭の痛い問題を抱えていました。この土匪の存在には、かつての宗主国である中国清王朝・オランダも相当手を焼いたといわれます。

このように、台湾統治が非常な困難を伴ったことから、日本がどのような植民地経営を見せるか、欧米諸国は注目しました。イギリスがインドを支配したように、現地の階級制度を応用して狡猾に支配するのか、それとも、フランスがインドシナやアフリカの支配で見せたような、情け容赦なく徹底した搾取を行なうのか。お手並み拝見といったところだったでしょう。

そのような搾取型の植民地経営を選んでいたら、今のような台湾の親日感情はなかったはずです。事実、日本は自国のみが儲かればよいとする搾取の道は選ばず、台湾に寄り添い、当地の文化や慣習を踏まえた施策を行ないました。この「生物学の原則」を唱えた後藤新平を「台湾近代化実行本部」のリーダーに据え、トップである総督・児玉源太郎総督が全面バックアップすることにより、数々の難題を克服して台湾の自立と発展を成し遂げたのでした。

日台友好

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企業に例えるなら、「莫大な不良債権を抱え、設備も建物もボロボロ、従業員は誰も言うことを聞かないばかりか楯突く者ばかり」といった状態です。企業改革であれば無駄なことはせずいっそどこかに売却したほうが楽かもしれません。実際このときも「台湾などフランスに売り払ってしまえ」との世論が沸き起こったほどです。

児玉・後藤のコンビが逃げずに台湾が抱える諸問題に真正面から取り組んだからこそ、色あせない友情関係で結ばれた今日の日台関係があるといえます。

安定統治に導いた「生物学の原則」

陸軍の重鎮・児玉源太郎が赴任する前に、3人の総督が台湾統治に挑んだものの、いずれも失敗しました。児玉は従来の「武断統治」から大きく方針を変え、「文治政治」に舵を切りました。この政策転換を進言したのが、彼の右腕として活躍することになる後藤新平です。児玉は後藤の進言を聞き入れ、彼にすべてを託しました。

後藤が民政長官として台湾統治の実質的な権限をふるうにあたり提唱したのが「生物学の原則」です。日本式の考えややり方を押し付けるのではなく、台湾に長年根付いてきた文化や風習、生活習慣に合う施策を打ち立て、協調を図りながら段階的に改革改変を進めてくというものです。

抗日ゲリラと化した土匪に対しても、有無を言わさず弾圧するのではなく、交渉の場をもって互いの理解に努めました。事前に、なぜ彼らがこのような暴挙に走るのかの調査も行っています。

情報収集を緻密に行い、彼らの事情を知り尽くすことはもちろん、児玉や後藤自ら出向いて集団の頭と直接話し合う機会も持ちました。その結果、大量の土匪グループが総督府に帰順。これで彼らが日本人となってまともな生活を送ることになり、治安も大幅に改善されます。後藤は投降した彼らに道路工事や橋の建設工事の仕事を与えることで、各所のインフラ工事で人手が不足していた問題を同時解決に導いたのでした。

もうひとつの難題である伝染病予防では、下水道を整備することで汚水による病原菌の増殖を防ぎ、安全な生活用水の確保につなげました。それだけでなく、内地から多くの医師を招くことで医療体制を整え、マラリアやペストの予防に努めます。もともと後藤は医学の専門家として医療・衛生分野で実績を残してきたこともあり、その知見が生かされたのでした。

児玉・後藤による台湾統治は、「将来、台湾人が自分たちの力で立ち上がると同時に、歩行と走行もできるようにする」が政策の根幹にあります。そのため、欧米の植民地経営のような教育も与えない一方的搾取のようなやり方ではなく、台湾総督府医学校(現在の国立台湾大学医学部)をはじめとする教育機関を積極的に設置し、義務教育の充実を図りました。

道路整備や鉄道の敷設、アヘン中毒に苦しむ患者の救護対策など、ソフト・ハード両面にわたって台湾島民の生活を豊かにするための政策を打ち立てていきました。このような矢継ぎ早で大きな改革には反発がつきものです。このときも、わが物顔で改革を推し進める文官後藤に対し、快く思わない軍部は不満と反発をあらわにしました。それをしっかり抑えたのがトップの児玉源太郎です。有能な部下は、リーダーの器を持つトップを頂いてこそ光ります。児玉・後藤のコンビはまさにその典型といえるでしょう。

台湾近代化の大きなエンジンとなったもうひとつの要因に、産業の振興が挙げられます。台湾にとっての産業振興は農業の発展を意味しました。この陣頭指揮を執ったのが、後藤の三顧の礼をもって迎えられた新渡戸稲造です。世界的名著『武士道』を著した日本を代表する教育者・農学者の手によって、台湾は短期間で農業先進地域となる目覚ましい発展を遂げたのです。

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台湾に赴任した新渡戸は、ゲリラがはびこる危険な道もいとわず現地調査を積み重ね、海外の農業研究も加えながら品種改良に努めました。新渡戸の地道な努力は、後に世界屈指のサトウキビ生産高を誇る台湾農業のレールを築くことになります。

現地民との融和、インフラ整備、医療・衛生の飛躍的な改善、学校教育の充実、主力産業の確立による経済自立。日本人指導者の手によって見事に生まれ変わった台湾を見て、当時の欧米新聞は「どの国もなし得なかった偉業がこの数年あまりで達成された」と称えています。

児玉も後藤も新渡戸も、幕末の空気を吸って育ち、かろうじて武士道の教育を受けて明治の世に躍り出ています。江戸時代の武士は封建社会の悪い面が強調されがちですが、それよりも卑怯な真似を拒み弱き者を扶ける崇高な精神を評価して現代の参考とするほうが生産的ではないでしょうか。弱き心を知る「惻隠の情」があったからこそ、台湾の置かれた立場をよく理解し、自ら歩み寄る融和路線を政策のベースに敷くことができたともいえるのです。現代人は、昔の人が当たり前のように持っていた日本固有の価値観ともいうべき武士道精神を失いつつあるとも言われます。このままで果たしてよいのか、歴史を見て考え直す機会があってもいいと思います。

先人たちの努力があるからこそ、受けられる「親日」の恩恵

台湾には、今でも統治時代の日本人が建てた政庁や学校、公共の建物が往時の面影を残したまま遺っています。明治大正時代の日本式の建物が一番多く遺っているのは、日本ではなく台湾です。ふるい建物にもかかわらず、修復を重ねながら今なお使い続けてくれるのは、それだけ日本への特別な想いがあるからかもしれません。

また、台湾近代化の基礎を築いた児玉源太郎・後藤新平の功績を記念してつくられた銅像は、戦中に所在不明となりながらも、島民が何とか見つけ出して現在は国立台湾博物館所蔵となっています。この行為も、児玉・後藤に対する感謝の気持ちがあってこそでしょう。

今回の記事では三人の紹介になりましたが、彼ら以外にも、烏山頭ダムの建設で穀倉地帯を南部に広げた八田與一、縦貫鉄道を全通させて人・モノの輸送路を確立した長谷川謹介、アジア最大の水力発電所を台湾に築いた松木幹一郎、コーヒー栽培を根付かサトウキビと並ぶ特産品を生み出した国田正二、台湾の近代医学確立に大きく貢献した堀内次雄・小田俊郎、未開地の東部に産業を興し台湾初の日本人村を拓いた賀田金三郎、台湾言語の会話マニュアルを作成して在地日本人の日常会話に力を貸した平井数馬……。「親日台湾」の背景には、こうした多くの日本人の努力の結晶があるのです。

残念ながら、日本はあのたった一回の敗戦により、近現代史と正面から向き合うことに自然と臆病になっています。しかしそんなことで隠れた偉人のまま埋没させるのは不幸なことです。歴史は今を生きる私たちの貴重な資産であり、蔑ろにすれば未来の指針も失うことになるでしょう。混迷な時代を嘆くのであれば、歴史という羅針盤をもっと上手に活用すべきではないでしょうか。















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