わたしたち日本人の祖先は、大きな戦争をすると決め、戦った①「西の空を裂いた稲妻、東の地に堕ちる」

20世紀は、戦争の世紀と言われます。第一次世界大戦、第二次世界大戦という、世界を巻き込む大きな戦争が、短い間に続けて起こりました。

ふたつの大戦で亡くなった人は、一億人を超えるといわれます。第一次世界大戦の傷跡があまりにも深かったために、もう二度と戦争はしない、とヨーロッパはじめ世界の国は思ったのですが、大戦が終わって二十年もたたずに、ふたたび世界は戦火に包まれたのです。

みなさんにこれからお話するのは、第二次世界大戦に関する話が中心です。しかし、この戦争が起きた背景には、第一次世界大戦の結果が招いた悲劇があります。戦後に約束された世界平和への誓いは、まもなくヨーロッパで破綻しました。引き金を引いたのは、第一次世界大戦で敗戦国となったドイツです。

ドイツが戦後、戦勝国のイギリスやフランスとの間で交わした条約の内容は、たいへん不平等なものでした。それは、1320億マルクという、とほうもない額に上った賠償金だけをみても分かります。そのほかにも、軍の規模を大幅に縮小させられたり、航空機や戦車、潜水かんの所有を禁じられたり、ドイツを縛り付ける規約がこれでもかと盛り込まれました。

この理不尽さに、ドイツ国民の多くが怒ったのは言うまでもありません。ひどい条約を押し付けたイギリスやフランスに対し、いつか目にものをみせてやるぞ、と固く心に誓いました。その憎悪と敵がい心が、領土的な野心を育て、周辺国をおびやかすナチス政権を生むことになります。

次第に力を蓄えるようになったドイツは、勝手に条約を破って軍備の拡張を推し進めました。そして、オーストリアやチェコスロバキアといった周辺国を、外交圧力によって併合します。ヨーロッパの情勢は、だんだんきなくさくなっていきました。

それでも、イギリスやフランスは、なるべく戦争を避けるために、ドイツを刺激しない方向で話し合いの場をもとうとします。そんな努力もむなしく、ドイツはポーランドに侵攻するという、掟破りの侵略をはじめたのです。これにはイギリスとフランスも黙ってみているわけにはいかず、ドイツに宣戦布告しました。これが、第二次世界大戦が起きたいきさつです。

着々と戦争の準備を進めてきたドイツ軍の勢いと強さは、ヨーロッパ諸国の想像を超えるものでした。西隣に位置するベルギーやオランダをあっという間に蹴散らし、わずか数日たらずの戦いでパリを攻略。フランスは降伏してしまいます。ドイツ軍は攻撃の矛先を、ドーバー海峡の向こう、イギリス本土へ向けてきました。

ひとり取り残されたイギリスは、ドイツ軍の猛攻に耐え切れず、フランスに送り込んでいた兵の撤退を決断します。このタイミングで首相となったのが、「七つの海を支配する」大英帝国海軍の英雄、ウィンストン・チャーチルです。「われ、ドーバーにおいて戦い、ドーバーの後方において戦わん」たとえドイツ軍が本土に攻めてきても、最後まであきらめず戦い抜くことを、力強く宣言しました。

その一方で、チャーチルは腹のなかで、「アメリカさえ味方についてくれればドイツに勝てるのに」と、ひそかにアメリカの参戦を心待ちにしました。しかし、当時のアメリカは大不況から立ち直ったばかり。とても戦争どころじゃない、というのが国民の大半の気持ちでした。ルーズベルト大統領も、自分を選んでくれた国民の気持ちを無視してまで、戦争に加担することはできません。せいぜい、法律をつくってイギリスに物資を送ったり、武器を貸したりすることしかできませんでした。

アメリカが中立を保つ一方で、ドイツの躍進に揺れ動く国がありました。東アジアの新興国・日本です。日本はこのとき、中国大陸で発生した、中国国民党との戦いを解決できず、困り抜いていました。

「支那事変」などと呼ばれた中国国民党との地域紛争は、事実上、中国との戦争を意味しました。実際に中国と戦っていたのが、日本の陸軍です。

陸軍は、稲妻のようなドイツの快進撃を受け、電流を浴びたみたいに、おおいに奮い立ちました。ドイツとの同盟が、日本の国際的な地位を高めると同時に、中国との戦争や資源の確保など、あらゆる問題を解決する突破口となる、とみたからです。

日本は中国と戦争をはじめたばかりに、アメリカ・イギリスとの関係が非常にギクシャクしました。イギリスは、上海や天津など中国に多くの租界区を持っています。中国大陸に軍を進めてくる日本は、当然けむたい存在です。アメリカにとっても同じで、巨大な中国市場をおびやかす日本軍は邪魔でしかありません。

つまり、米英と日本は、中国大陸の利権をめぐって争う関係にあったのです。そのような事情から、アメリカ・イギリスは中国に物資や武器を送るなどして支援しました。反対に日本に対しては、資源関係の輸出を規制するなどして、締め付けを強めていきました。

日本は中国と話し合うことをせず、あくまで力で屈服させようとしました。しかし、米英の後ろ盾を持つ中国が、そう簡単に音を上げるはずがないのです。戦争当事者である陸軍の焦りは、次第につのっていきます。

陸軍の思惑は、別のところにもあります。それは長年の宿敵・ソ連の存在です。これ以上中国との争いが長引けば、ソ連に対する守りがどんどん手薄になり、ソ連軍の脅威にさらされることが明白でした。北方の守りを任務とする日本陸軍にとって、この状況は見過ごせません。軍をソ連との国境付近に遠慮なく移すためにも、中国との戦争はいちはやく終結に持ち込む必要がありました。

「ドイツがまもなくヨーロッパ全土を支配する」この知らせに、陸軍は希望をみいだします。ドイツと手を結べば、厄介な問題は一掃され、道も開かれる。陸軍内で「ドイツと手を組まなければならない」とする空気がみなぎるようになり、その勢いは政府を突き動かそうとしていました。

ドイツがイギリスを打ち負かし、本土の占領に成功すれば、イギリスが世界中に抱える植民地はドイツのものとなるでしょう。いわば、世界が大きく再編されることになるのです。世界の盟主となるドイツと同盟を結ぶ。それはつまり、世界の大変革の中心に、日本が座ることを意味します。

日本が資源の輸入先として頼りにしていた、東南アジアの石油やゴム、綿花なども、苦労なく手に入る。アメリカやイギリスとの通商条約がなくても、困ることは何もない。自給自足の環境が整い、国民が餓えることなく国家の命脈を保つことができるです。

ドイツがイギリスを倒してくれたら、イギリスから中国へ渡っている援助も途絶える。対外支援を受けられなくなった中国は、近いうちに白旗を挙げるに違いない。

日独同盟を目指す陸軍の腹には、このような計算が働いていました。しかし、この計算が破綻せずうまく運ぶには、ふたつの条件をクリアしなければなりません。ひとつは、イギリスがこのままドイツに駆逐されること。もうひとつは、アメリカが静観を決め込むこと。この段階では、どちらも確かなことは言えず、陸軍の希望的観測に過ぎませんでした。

実際、陸軍のこれらの読みはまったく見当はずれで終わったことは、現代人のわたしたちが知るところです。そもそもの話として、陸軍はアメリカに対する情報をそれほど持っていませんでした。アメリカを研究する専門の部署など、陸軍内のどこにもなかったのです。

なぜなら、対外戦争における陸軍の担当は、ソ連だったからです。ソ連に対する研究は進んでいましたが、そのほかの国に対する情報の収集・分析は、おろそかでした。アメリカの強さや怖さを知るための研究・分析も、はなはだ心もとないものだったのです。

では、アメリカの研究はどこが担当していたかというと、海軍です。アメリカとの戦争は、太平洋をはさんで向き合う関係上、海軍の役割でした。アメリカに関する情報収集や分析能力は、当然陸軍より海軍のほうがすぐれています。そして、アメリカの強さや怖さも、海軍は知りすぎるほど知っていました。

その海軍は、日本とドイツが同盟を結ぶことに、断固として反対しました。もし日本がドイツに接近すれば、自動的にイギリスと戦うことになり、それはアメリカをも敵に回すことを意味する。日独同盟は、そのまま米英戦争への一本道となる危険性をはらむ、との分析でした。そしてその通りの未来が待っていました。

海軍でもとりわけ、ドイツとの同盟に強く反対したのが、山本五十六大将です。この人は、日米戦争のきっかっけとなった、真珠湾攻撃の作戦プランの発案者であります。

日独伊三国同盟と日米戦争に強く反対しながら、最終的には戦争指揮をつかさどる司令長官としてアメリカと戦うという、皮肉な運命をたどりました。次回は、山本五十六大将の目を通して、時代の激流にのみこまれていく日本の姿を追ってみましょう。


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