会議と日本人。「日本の戦争のはじまりも終わりも、指導者の決断じゃなく会議で決まった」ことの意味するもの
日本人の会議ベタは有名だ。
「無駄が多い」「長すぎる」「結論がない」「発言しない」などと散々に言われるが、一番の問題点は「引っ張っていくタイプの人間が、日本には少ない」からと言えないか。
会議はいつも平穏にまとまるとは限らない。いろんな人が集まって知恵や意見を出し合う場だから、議論が紛糾して収拾がつかない場合もあるだろう。結論を出さなければ前進もないので、やや強引であっても、どこかでまとめ役の人がビシッと決断する必要がある。こんな会議のまとめ役はだいたい嫌われやすい。日本人は人に嫌われるような役回りは苦手である。嫌われる奴がリーダーになって偉そうに取り仕切るのも嫌うタチだ。
そもそも会議とは何かを決断するために開かれる。何かを決断し、物事を進めていくときというのは、多少の摩擦や反発がついてくる。そのうえ「責任」とか「結果」とか、いろいろ面倒なものも付いて回る。この責任を取る立場も嫌いだし、もし間違ったらとやたら恐れる国民性も日本人にはある。
「和をもって尊しとなす」のお国柄だから、結論もなくダラダラと進行するだけの無意味な話し合いでも、強引に進めていくようないけ好かない奴が出てくるよりはマシだと考える。腹のなかでは「これ意味ある?」とちゃんと分かっている。しかしそれを言うと場の空気は乱れるし、嫌われる。だから黙って従う。意味があるか合理的に正しいかなど二の次で、みんな納得してることはとりあえず正しい。
これが大多数の日本人が落ち着ける場なのだ。
長い間、島国という環境のなかで生きてきた私たち日本人には、大きな決断ができる人より場の秩序を保ち空気を乱さない人を選びたがる、協調性至上主義のDNAがあるのかもしれない。これが会社の会議程度ならそんなに影響はない。が、この動脈硬化のような行き詰まりを国家の指導層が発症してしまうと、大多数の国民が途方もない迷惑をこうむることになる。
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日本が、アメリカをはじめ連合国と戦うことになった大東亜戦争。この戦争のはじめも終わりも、会議によって決まった。
日本人の会議だから、1回で決まらない。看板を変えメンバーを変え、格式も変えて同じ議題を何度も何度も話し合う。1日に複数回催されることもあれば、朝から翌日の明け方まで侃々諤々の議論が展開されることもしばしばだったようだ。
今、私の手元に『大本営機密日誌』という本がある。これは当時、大本営陸軍参謀の職にあった種村佐孝中佐がつづった日記で、大東亜戦争が始まる二年前の昭和15年から、終戦直前の昭和20年8月までの約6年間、日本の政治・軍事・外交に関する政府並びに軍の動きが詳細にわかる第一級資料だ。
この日記から、日本の政府・軍はほぼ毎日のように会議を開いてアメリカとの戦争をどうするか話し合い、ちっとも結論を出せず堂々巡りの議論を繰り返すしかなかった当時の行き詰まり感が伝わってくる。
「十六年七月十二日 連絡会議を開催したー」「十六年七月二十一日 午後二時から宮中で連絡会議を開いたー」「十六年七月二十四日 連絡会議を開くー」「十六年十月三十日 午前九時から正午まで連絡会議を続開した」「十六年十月三十一日 午後、参謀本部では部長会議を開きー」「十六年十一月一日 ……この日は午前九時から連絡会議が開かれ……激論に激論を続けること十六時間、終了したときには、宮中の大時計が午前一時を指していたー」「十六年十一月三日 午後六時から非公式陸軍軍事参議官会議を開いて……ついで四日には午後二時より宮中において公式軍事参議官会議を開催ー」「十六年十一月五日 本日午前十時半から御前会議を開きー」とまあこんな調子である。
終戦間際も、政府閣僚と軍指導部の会議に天皇が臨席する午前会議、政府と大本営のトップクラスが戦争の重要な政策を討議する戦争最高指導会議、政府の閣僚と軍統帥部が話し合う臨時閣議など、これまた毎日のように侃々諤々とやり、その状況は戦争前に輪をかけてはなはだしくなっていた。
戦争をはじめる決断と、終わらせる決断。きわめて重大かつ緊急性を要する大きな意思決定が、何か月以上もの長大な歳月と膨大な時間をかける会議によってなされたのは、日本に明確な「戦争指導者」がいなかったのが一番大きい。
アメリカにはルーズベルト、イギリスにはチャーチル、ドイツにはヒトラー、イタリアにはムッソリーニ、ソ連にはスターリン、中国国民党には蒋介石というふうに、それぞれの国には強力な意思と決断力で重要決定を下せる立場の戦争指導者がいた。国家として必要だと判断されれば、反対も何もない、そこへ向かって真っすぐに進む。だから日本のように船をこぐ人が多すぎて山に向かうなんてことにもならないし、なりようがなかった。
日本には戦争指導者がいなかった。一人の指導者に政治・軍事・外交の大きな権限を持たせる機能がなかったのである。だから戦争をはじめる決断も終わらせる決断もいたずらに何回も会議を重ねて結論を出す以外に方法がなかった。
このような国家機能の欠陥は、主に明治憲法の不備に原因があった。
明治憲法では、統治や統帥の大権保有者は天皇である、と定めていた。しかし、事実上天皇に国策を決定したり戦争を指導したりする権力はない。政治の最高権力者は内閣総理大臣であり、統帥の最高責任者は大本営陸海軍のトップである陸軍参謀総長並びに海軍軍令部長であった。そのため戦争指導にはトップが三人いる状態でさまざまな決定や判断、選択に迫られる状況だったのだ。
戦争の準備計画や作戦計画などは統帥に関わる分野であり、その権限は大本営陸海軍部にあった。しかし戦争するかしないか、終わらせるかどうかの判断を下すのは政治の役割である。その政治の最高権力者たる内閣総理大臣も、「統帥権の独立」を主張されると軍部に口をはさめなかったのだ。これにより軍部が政治に浸食して専横を許す結果になった。
さらに、統帥でも陸軍と海軍は対立していて、自分たちの立場を第一に優先して権利を主張するから、足並みはぜんぜんそろわない。もっと言えば陸軍のなかでも陸軍大臣と参謀総長で意見が食い違い、海軍のほうも軍令部長と連合艦隊司令長官で違うことを言っていた。さらにさらにもっと言えば、政府のなかでも総理大臣と外務大臣は違う方向を見て物を考えていた。
こんな感じで目指す方向も考えていることも、何を重視して何を最大の危機と捉えるかの基準も、てんでんばらばらの人たちが集まって会議を開くものだから、ちっともまとまらなくて当たり前だったのである。
たとえ違う腹を持つ者同士の寄り合いでも、強力な権限と意思でまとめあげるトップの存在がいれば、右往左往することなく一丸となって同じ方向に進めたのではないか。同じく議会制民主政治だったアメリカやイギリスのように。
アメリとの戦争を回避するため、外交部による日米交渉を進めていたときの総理大臣は近衛文麿。彼は徹底して対米戦争反対論者であった。血筋がよく聡明で人の話をよく聞くタイプの人だったが、決断力がなかった。人の意見を聞くだけで、何も決められず、軍部をコントロールするリーダーシップがなかったのだ。
憲法の欠陥があったとはいえ、自分が正しいと思うことをはっきりと主張し、これで決めてその責任はすべて自分が負う、というリーダーがトップだったら、と夢想するのは歴史にifを持ち込むことでまったく無意味だろうか。それとも、現代の問題解決、未来へ飛躍するための多少のヒントになりはしないだろうか。
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国家レベルの重要な決定を、政治的指導の立場にあるリーダーの意思によらず、会議を開いて決めたがる傾向は戦後76年経った今も変わらない。
コロナの専門家会議などはそのもっともたる例だ。
感染症や公衆衛生の専門家集団と聞けばさぞ頼もしそうに思えるが、そもそもあれは政治家たちが自分たちの責任で決めるのが嫌だから、それらしい看板をつけて専門家に決定を丸投げしているだけに過ぎない。
緊急事態宣言のような、社会生活や国家経済に大きな影響を与える重要な決定を、国民の代表である総理大臣ではなく、医療の先生たちにお伺いを立てて決める。確かにそっち方面の知識はあるかもしれないが、経済や社会環境、政治に関してはまったくの門外漢だ。なのに、参考にする程度じゃなくほとんど彼らの言うがままにこの一年以上政治が動かされてきた。それが果たして正しかったのかどうかの検証もない。こんな意思決定の仕組みに対し、何ら疑問を持たないどころか安心して任せている状況は、はっきり言って異常である。
日本人には古来話し合いや協調性を大事にする民族性があったが、あの敗戦の経験で「大きな決断をして失敗するのが怖い」気質が新たに加わったような気がしてならない。失敗するときは失敗する。リーダーだって間違えることもある。大事なのは失敗した後どうするかの原因分析と対策にあるはず。会議は確かに「失敗してもみんな納得しやすい仕組み」だが、根本的な解決策かどうかはまったく別の話だ。それを肌身で知るために、もう一回どでかい失敗をしなければ、私たち日本人はわからないのだろうか。
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