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「先見の明」があるリーダーは孤独になりやすい

国のかじ取りを任せられるリーダーや、改革を目指す組織の指導者には、時代の先を見抜く鋭い見識と洞察力が求められる。難しいことに、先見の明があるかどうかは後世になってみないとわからない。これまでの常識を否定する判断や行動は、時に猛烈な批判の対象となる。それでも臆せず変革へ立ち向かう信念と勇気こそが、新しい時代の扉をこじ開ける原動力となる。

幕末、倒幕か佐幕か揺れる土佐藩に、武市半平太という憂国の士がいた。薩摩や長州の志士らと交わる中で早くに時勢を見抜いた彼は、弱体化した幕府を打倒し朝権の回復を主張。土佐勤皇党を結成し、藩論を勤皇一色にまとめる運動を展開する。勤皇党には坂本龍馬や中岡慎太郎といった、後の薩長同盟に重要な役割を果たした志士も名を連ねた。

勤皇思想は幕藩体制の否定でもあった。土佐藩は開府以来、徳川家に忠誠を誓ってきた雄藩である。徳川尊崇の念は藩主後見役の山内容堂はじめ重鎮たちに深く浸透していた。武市は時勢に鑑み藩方針の転換を説くも、佐幕に凝り固まる藩中枢の変革は遅々として進まなかった。

武市はあくまで挙藩一致体制を望んだ。上から下まで土佐藩が一つにまとまれると信じていたのである。だから、坂本龍馬のように脱藩もせず、一介の藩士として藩政を動かす正面突破にこだわった。それは実直で誠実な彼の人柄から生まれた行動ともいえた。しかし、そんな彼も慌ただしく変化する情勢に焦慮した結果、藩政を牛耳る要人の暗殺という実力行使に踏み切る。そして自ら藩政を動かせる地位に就いた。愛する土佐を変えるための、やむを得ぬ手段であった。

腕ずくで奪った政治の実権も、長くは続かなかった。要人暗殺は主君容堂の逆鱗に触れることになり、責任を問われた武市は切腹した。「土佐を新しい日本の先導役に」武市の純粋な思いは、最後まで主君に届くことはなかった。

大政奉還が起きたのは、武市切腹の翌々年だった。天皇を中心とする新しい国家の体制は薩長主導で導かれた。武市ら勤皇党を弾圧した一派が、討幕軍や新政府の重要ポストに就いたのだから、歴史とはかくも皮肉なものである。

すべて答えを知っている私たちが、「あのときの武市の考えは間違っていなかった」と評価するのは簡単だ。混迷深き世のリーダーを評価するにも確かな目が求められる。後世に審判される渦中にあるのは、いつの時代でも変わらない。









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