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“神を呼ぶ”という発想/駒込日枝神社に初詣して考えたこと

「初詣は近所の神社で」。初詣のウンチクというか、一般的に伝わる常識はこれだろう。土地の守り神ともいえる氏神様へ、新年の挨拶とともに感謝の気持ちを伝える。もちろんお願い事も添えてー。定型通りお正月の恒例行事を済ませると、心で飴玉を舐めたような気持ちよさが広がり、何だか一年良いことが起きそうな気にもなる。そういうマインドにさせてくれる場所って、とても大事だと思う。

今日からはじまる2021年を実りある年にするために、元旦の朝向かったのが近所の駒込日枝神社。もちろん私にとっての氏神様である。

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恥を承知で打ち明けると、初詣でお参りするまでこの神社が氏神様であることを知らなかった。神社の存在はもちろん知っていたが、ここが一番近い場所にある神社とは思っていなかった。氏神様は散歩コースにある田端の小さなお稲荷さんだろうとばかり思っていたのだ。毎日、目の前を通り、毎日お辞儀をする神社が精神的にも近く感じるのは仕方ない。いや決して言い訳をするつもりはないのだけど。

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駒込日枝神社は、高台の切り立った縁にひっそりと建つ。崖下には石の階段。何となくノスタルジーを感じさせる。

駒込日枝神社について簡単に触れておく。名前から分かる通り、赤坂山王の日枝神社を勧請した神社で、創建は慶長年間(1596~1615)以前とする説が有力。つまり戦国時代も押し迫った頃の建立と考えてよさそうだ。江戸時代に社殿の造営や改装、整備などが行われ、大戦中の空襲で灰燼に帰すも、戦後再建されて現在の社殿となる。

日枝神社の御祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)で、山・水を司る神様。古事記によると、この神は滋賀県近江市の日枝山(比叡山)に鎮座し、葛野(京都山城国)の松尾でも守護神として崇められている。山王日枝神社は江戸鎮護の神として武蔵国の豪族江戸氏が造営したのがそもそものはじまり。

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神社敷地内から見た東側の光景。東側が開けていたことから、江戸時代は「朝日山王宮」と呼ばれていたらしい。今はマンションが立ち並んで決して見晴らしがよいとはいえないけど、当時は勢いよく立ち昇る朝日に魅了される人が多かったに違いない。歌人や俳人が訪れては眺望のすばらしさを誉めたという逸話も古書に伝わる。

私にとっての氏神様で、初詣の場所になった駒込日枝神社。この神社がもとは山王日枝神社を勧請して造られたものだということは先ほど触れた通り。神社好きな人はよくご存じだと思うが、鎮座地とは別の場所に神を招いて新たに神社を創建する勧請は、古来多くの神社で取り入れられてきた。日枝神社に限らず、勧請によって生まれた神社は全国に散らばっている。八幡神社、住吉大社、稲荷神社など、勧請がなければ8万社とも言われる現在の神社の数はもっと少ない数になっただろう。

今回駒込日枝神社を初詣して、改めて勧請について考えてみた。これって神道特有の考えじゃなかろうか、いや、日本人の特殊な宗教観(神道を宗教と捉えるかどうかは別として)がもたらした姿じゃないだろうか、と。

日本人は鎮守の神様をいただくことを古来好んだ。近くに神様を置いておきたいという心理は、自然災害や疫病、不作や飢饉に絶えず悩まされてきた痛切な体験が背景にあるのだろう。住居内に拵える神棚はそれが思い余った形態といえなくもない。日本人にとって神はとても身近な場所に存在するものなのだし、そのほうが自然という考えもある。

よくよく考えれば、「神を呼ぶ」「神を招く」あるいは「神を分ける」なんて、こんな大胆な発想もない。おそらく一神教では無理だし、同じく日本人にとって身近な仏教でも考えられないのではないか。そういえば、七福神も、恵比寿様以外はすべてインドや中国といった外国から“召喚”した神様だ。日本人の神様をめぐる発想は、翼が生えたようにどこまでも飛んでいけると思えるくらい、広がりがあり、自由であり、奔放だ。

それで考えてみた。もともと勧請の起源は何なのだろう?と。そこに鎮座されている神様を、手軽にぴょいと招き寄せてよいと思える感覚。この正体は何なのかと。

まず思ったのは、日本人はもともと自然信仰の強い民族だということ。古代の人々は(今も無意識的にそうかもしれない)、神様はどこにでもいると信じていた。山林や川、草木や虫、動物にも神は宿るものだと信じてきたし、その信仰心を物理的に表現したのが神社ともいえる。そう考えると、自分の家に神棚を祀って神様を拝むのは何も悪くない。

自然信仰があったことももちろん大きい。けれど、それだけでは何かしっくりこなかった。神様を動かす行為に何かしらの怖れも感じてよいはず。にもかかわらず大胆な行為に走れたのは、その怖れを跳ね返せるだけの別の大きな力があったんじゃないだろうか? そんな思考を巡らしつつ、最初に勧請された神社について調べてみたところ、一番腑に落ちる答えにたどり着けた。

全国の神社に残る古文書を漁ったわけじゃないから、これを最初の勧請といってよいかどうかは分からない。しかし、少なくとも日本書紀を読めば、おそらく伊勢神宮じゃなかろうかとの推量が働く。

日本書紀によると、伊勢神宮の創建は第十代崇神天皇の時代とのことだから、二千年以上前までさかのぼる。猛威を振るう伝染病を祟りと恐れた天皇は、宮中で祀っていた天照大御神を大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀らせた。次の垂仁天皇がさらに良い場所を求め、伊勢を鎮座の場所としてお祀りをはじめたのが現在の伊勢神宮といわれる。

勧請とは書かれていないけど、神様の鎮座地を別の場所に改めた最初は天皇だったのではないか。国内でもっとも古い神社を伊勢神宮とする説もあるきくらいだし、少なくとも神社の黎明期に天皇が「神様を動かした」ことが日本書紀から読み取れる。

一見許されないと思われる行為も、天皇がやってのけるのならばそれは間違いではない。何も怖れることなく、自分たちもやっていい。大和の奥深い山中に鎮座する神様を戎の国に招くことも問題なし、小汚い長屋の一室に神棚を設けてパンパンとやることも、おそらく大丈夫。

「天皇が言うことなら」「天皇がすることだから」ですべて許せるし、すべて納得できる。こんな書き方すると単純すぎてホンマかいなと思うかもだけど、実際日本の歴史を見ていくと、そういう形跡は結構あるのだ。攘夷と騒ぎまくった幕末、本土決戦を叫んだ終戦間際、いずれも天皇の意思でひっくり返った。良くも悪くも、そうやってまとまってきた歴史がわが国にはある。

個人の手前勝手な歴史考察はこのくらいにして、来年の正月はコロナも終息して一般参賀が行われることを祈りたい。







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