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自分を生きるために必要な“鈍感力”~感情に左右されなかった福沢諭吉の性根に学ぶ~

自分を生きる。

これって、当たり前にできそうで、実はなかなかできないことかもしれません。

たとえば嫌いな人の悪口を言ったり、苦手な上司の愚痴をこぼしているとき、その時間は、嫌いな人や苦手な上司のために生きているようなものになりませんか?

また、意見の違う者同士がしばしばぶつかり合うSNS上の言論空間。異なる意見に対して激しい言葉で反論したり、感情的になって攻撃したりするときも、要は相手のためにエネルギーを使っているわけです。不思議なことに、人は意見が合う者より意見を異にする相手に高い熱量でもってやり取りしたがるもので、そのためにたくさんの時間と感情を使うことも惜しみません。

これだってある意味気に入らない相手のために自分の人生を費やしていることになるわけです。

このような例を見ていくと、もしかしたら世の中の多くの人は「自分だけ」の時間を生きるよりも、「他人のことで」生きていることのほうが多かったりするのではないでしょうか。

よく考えたら他人のため(しかも嫌いな人やむかつく相手)に貴重な時間と感情を使うのってもったいないですよね。
でも、それをやめられないのが人間というもの。

つい他人を生きてしまう。望んでもいない残念な生き方になりすいのは、人間が感情で動く生き物だからです。

「むかつく」「くやしい」「許さない」「やり返してやる」「見返してやる」嫌いなあの人や、気に入らない上司、自分のことを評価してくれない取引先、自分より稼いでいて、人生上手くいっている見知らぬ他人。

怒り、憎しみ、恨み、嫉妬、恥などのネガティブな感情は、どういうわけか圧倒的に人を動かすエネルギーになり、ポジティブな感情よりはるかに強大です。

感情を上手くコントロールできるようにならないと、自分を生きられず他人を生きる人生になってしまいます。

人は鈍感なほうが生きやすいともいいます。他人の言動をいちいち気にしない鈍感さは、感情に左右されない体質によって生み出される得難いスキルです。鈍感力が身に付くかどうかは、己を支配する感情を克服できるかどうか。これに尽きると思います。

うらやましいことに、この鈍感力を生まれつきもっていた歴史上の人物がいます。
今年いっぱいで一万円札の顔の役割を終える福沢諭吉です。

福沢諭吉は、伝記『福翁自伝』の中で、自分のことを「根っからの無頓着」と言っています。

要するに、「何事にもとらわれない性分」ということですね。

人の言行や性格の良しあしに頓着しない性分のおかげで、福沢諭吉の人間関係は実にさっぱりしたものだったみたいです。他人が何を言っても相手にせず、議論をふっかけられても涼しい顔をしてするりとかわす。そんな調子だから他人との間でめったにいさかいもなく、対人関係のストレスとも無縁で、「他人を生きず自分を生きる」生涯を全うできたのでした。

あるとき私が何か漢書を読むうちに、「喜怒色にあらわさず」という一句を読んで、その時にハッと思うて大いに自分で安心決定した事がある。「これはどうも金言だ」と思い、始終忘れぬようにしてひとりこの教えを守り、そこで誰が何といってほめてくれても、ただ表面に程よく受けて心の中には決して喜ばぬ。また何と軽蔑されても決して怒らない。どんな事があっても怒った事はない。(略)少年の時分から老年の今日に至るまで、私の手は怒りに乗じて人の身体に触れた事はない。

『福翁自伝』福沢諭吉

たとえ褒められても調子にのらずほどほどに受け取ったとのこと。無頓着な性分だと、悩ましいことこのうえない承認欲求にも飲み込まれず穏やかに過ごせるようです。

よく世間にある徳行の君子なんていう学者が、ムズムズしてシント考えて、他人のする事を悪い悪いと心の中で思って不平を呑んでいる者があるが、私は人の言行を見て不平もなければ心配もない。一緒に戯れてしゃあしゃあとしているからかえって面白い。

『福翁自伝』福沢諭吉

私の性質は人につき合いして愛憎のないつもりで、貴賎貧富、君子も上人も平等一様、芸妓に逢うても女郎を見ても塵も埃もこれを見ても何とも思わぬ。何とも思わぬから困ることもない。

『福翁自伝』福沢諭吉

(※強調は筆者。適宜「」入れ、ひらがな変換あり)

もちろん福沢諭吉は感情を持たないロボットのような人間だったわけじゃありません。喜怒哀楽を表現してもよい場と、しなくてもよい場との間に大きな堤防を築き、感情がタダ漏れにならないようせき止める術を身に付けていたというだけです。多くの人は感情表現を「してはいけない」状況やタイミングについてはわかっていますが、「しなくてもよい」ことになると曖昧で無自覚。福沢諭吉のようにせき止める堤防がないゆえ、感情の流出を防げません。

福沢諭吉は、物事を良いか悪いか、善悪の基準で判断する「善悪二元論」と距離を置く思想家でもありました。幕末生まれの福沢諭吉が生涯を通して戦った価値基準が、漢学者が唱えた儒教精神や、封建制度の残滓である階級主義や男尊女卑といった価値観です。「根っからの無頓着」なタチの福沢諭吉はこのような誰かが決めた絶対的な価値基準に染まらなかったゆえ、「貴賎貧富、君子も上人も平等一様」という開明的な考えを自然と育てることができたのでしょう。

「こうあらねばならない」「こうあるのが絶対に正しい」といった絶対正義の根底にあるのも、実は感情だったりします。人は誰かが決めた絶対正義の価値観をいつの間にか自分の中にある正義のように錯覚していて、その枠からはみ出たいかなる考えや行動も一切認めないとする態度は感情以外の何物でもないでしょう。

福沢諭吉は元来が物事や他人の言行にこだわらない無頓着な性分だったため、いたずらに感情に振り回されず端然とやり過ごせたわけですが、そのような性格じゃない人たちは自分の感情とどう向き合えばよいのでしょうか?

まず、「人を動かすものの正体は感情」だということをしっかり理解することが大事です。好きでもないあの人の言うことをいちいち気にしたり、批判されたからといって過剰にリアクションしてしまうのは、反応した感情に流されている状態。自分を動かしているもの、支配しているものの正体が感情だと知り、まずそれを受け止めて向き合う。相手の言動をみず自己の感情を見るようにすれば意外と冷静いなれるもので、「ここで反応して何になる?」「怒って得することかあるか?」などと自分を抑制する思考や行動が生まれやすくなります。自分を俯瞰してみるメタ思考を意識するとよいです。

あと、これは僕がやっている方法ですが、脳内に別立ての格納フォルダを持つこと。パソコンのハードディスクにデータを保存するときは、種類別にフォルダをつくって区別しますね。あれと同じです。他人の言っていることや意見などは別にラベルを貼って保存するわけです。こうして自分の感情や意見と混ざらないようにします。このように外から入ってくる情報を隔離することで、「この言葉はたんにこの人が言っているだけで自分には関係ない」と脳に認識させる効果をもたらします。僕はこの方法で他人の言動を受けてもそう簡単に感情を支配されない自分になれました。もちろんこんなことくらいできれいに分けられるほど単純ではありませんが、少しでも良くする工夫を続けるだけでも違うと思います。

以上、福沢諭吉の性根から学ぶ「鈍感力の大切さ」でした。『福翁自伝』は当事者の視点から幕末明治史の表と裏が語られる第一級資料というだけでなく、希代の思想家である福沢諭吉のユニークな視点と痛快なキャラ、波乱にとんだ生涯を楽しめるバイオグラフィーでもあります。幕末明治に興味のある方にはおすすめですよ。








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