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場所に関して湧出・漂流する言葉、影(辺野古編)


水源

 おぼえていないくらい昔から、私の中で沖縄という場は他のどの地域よりも強い喚起力を持っていた。
 幼少期の家族旅行、高校生の修学旅行、それぞれ異なる文脈でかの群島を訪れ、眼差し、対話した。そして昨年(2022年)の9月以降、3回にわたって研究という目的で沖縄を再訪する機会に恵まれ、私の複眼即ち肉眼と光学の眼はさらなるイメージを得ることとなった。
 これから記すテクストは群島状のイメージに伴って私の中から湧出した言葉や思想の断片をインターネットという海洋に残そうという試みである。
※特に言及がない限り、全ての写真はPanasonic Lumix DC-g100によって撮影された。

辺野古をゆく

 少なくとも内地の人間がこの地名を聞いて想起するのは米海兵隊普天間飛行場の移設先として辺野古の沿岸工事が進んでおり、それに対して県内外で反対運動が行われているという事がほとんどであると考えられる。少なくとも大学学部生までの私はそうであった。 確かに私が訪れた2023年3月3日の時点でキャンプ・シュワブのゲート前座り込み運動は3162日目に突入しており、「運動の地」という呼称は的外れなものではないのかもしれない。しかし、一連の問題、運動は単に一自治体の中の一区で起こる変化に留まるものではないという事、同時に運動だけがこの街の貌ではないという事を、私は今回の訪問で知ることとなる。

キャンプ・シュワブゲート前

新しくなった看板。同じ機能を持つ物が浜辺にもある。
運動の拠点としてのテント村である。奥にいるのはスタディーツアーの同行者。

 私が訪れたのは夕方であったためか人数こそ多くはなかったものの、たしかに座り込み・基地状況の監視は継続されていた。
 かつてインターネット界隈の有名人が誰もいない時間があるなら0日にしたらと冷笑的な発言をして騒ぎになっていたが、運動の関係者曰くそれを機に看板を新しいものに変えたとのことであり、最初に看板を見た時に感じたぴしっとした感じやエネルギーの理由は思わぬところにあった。
 3,162日前と言えば、私が計算ミスをしていなければだいたい9年前の春ぐらいであろうか。とすると2014年、私はまだ中学生であった。その頃から今までを振り返ってみると、本当に長く感じられ、その間ここではずっと自然、暮らし、尊厳、権利を守るための非暴力による運動が続けられてきたのである。
 運動の持続性は同時に9年弱の間に米軍、その前に日本政府が真の意味で新基地を拒否する側との対話を試みた事があっただろうかという厳しい問いを突き付ける。詳細は後に述べるが、辺野古の新基地建設は多くの意味で「無茶」を含んでおり、それらが正面から検討されることはなかった。

少なくともテントが通行の妨げになっていることは決してない。

 9年弱と言う時の重さは、過去のニュースなどを画面や紙で見ることによって実感することは不可能であり、やはり現場に赴いて蓄積された「否」に五感で向き合うことによってのみ知覚できるものであるように思われてならない。

ゴミの人形。基地自体が不要なものとなることを願う。

 キャンプ・シュワブのフェンスの中では、海洋ゴミで作られたオブジェが設置されていたが、新基地建設が進めば海洋ゴミの比ではないほどに南シナ海の豊かな海の一つが汚されることとなる。沖縄の東の海には絶滅危惧種ジュゴンが生息しているにもかかわらず、工事の中断はおろか生態調査も行われたのか定かではない。朱鷺、鸛、西表山猫、山原水鶏は積極的な保護活動が確認できるものの、ジュゴンについてのみ新基地建設という破壊的な国策が優先されている印象は否めない。自然環境の喪失は後から何億円積もうとも回復できるものではなく、ましてや財政の現状を考えるに政府がその予算を出せるとも思えない。(米軍にばらまいている「思いやり予算」を全部回せば多少は捻出できるか。それにしても緊急で予算が足りていない分野は教育や生存権の保障など枚挙に暇がないのだが。)

松田ヌ浜(辺野古漁港)

辺野古漁港横の砂浜。驚くほどに遠浅の海である。
海岸での行動はずっと長い。

辺野古漁港があり、伝統行事辺野古ハーレーの舞台にもなる松田ヌ浜は遠浅の砂浜であり、フェンス一つでキャンプ・シュワブと隔てられている。フェンスの向こう数十メートルはこちらと同じ砂浜であり、フェンスも数十メートル海に出れば途切れるためこの構造物のナンセンス性が窺える。

フェンス。常に一人は警備員がいるが、真夏でも配置されているのだろうか。
同行者に撮ってもらった一枚。驚くほど近くでフェンスが途切れている。

 先ほど言及したように、この浜辺は辺野古ハーレーという伝統行事の舞台となっている。辺野古ハーレーは手作りの爬竜船による競漕を通じて海洋の安全祈願を行う神事であり、100年以上の歴史を持つ。1973年以降はキャンプ・シュワブの海兵隊員も招待されるようになり、さらに防衛局職員も選手として参加するため、辺野古という場所について回るイメージであるコンフリクトは一時的に停止される。
 活動家、漁民、海兵隊員、防衛局職員というそれぞれの属性に関係なく、海の上では誰しも一人の人間であり、自らの力で舟を漕ぐという、有史以前から行われてきた行為を通じて人々は繋がることができる。人類史においてフェンス、即ち境界などといった概念はそれよりもはるかに後で登場したものであり、 かつて韓国の文在寅元大統領が38度線を越えて金正恩総書記と対談したように、人為的な境界は人の意志で越えうるものであり、さらには無くすことも不可能ではない。軍事的境界という意味では、朝鮮半島の38度線と米軍基地のフェンスには近しいものがあるが、前者と比較すれば後者をなくすことは大いに実現可能性が高いといえ、米軍「基地」をなくして一部を解放されたアメリカ街としてしまえば、交流・経済・治安のあらゆる懸念や諸問題を解消しうるのではないだろうか。
 そのような理想論じみた可能性を考えるに至った背景としては、コザや北谷などを訪れた際にアメリカとの接点で生まれる文化や風景、よく「チャンプルー文化」と呼ばれるものを目にしたことが挙げられるが、それについてはコザの章として別記事にしようと思う。

辺野古中心部(まち)

次こそは行ってみたい、まちの食堂オーシャン。
廃墟。嘗ては米兵と地元住民の接点となっていたのであろうか。

 辺野古という地名が想起させるイメージは、しばしば新基地反対運動やキャンプ・シュワブであり、生活空間としての辺野古像は取り上げられにくい印象は否めない。滞在先から海を目指して辺野古のまちを抜けると、基地に接するまちとしての貌と沖縄県東部の海辺の町としての貌の両方を見ることができた。米兵を対象としているであろうレストランやタトゥーショップ、バーなどが散見される一方で、漁具や農具が道端に置いてあり時に隙間から猫が飛び出すなど、県内の他のまちと共通する生活の風景がそこにはあり、運動のイメージだけでこの地を捉えるような狭隘な眼差しだけは間違っても持つまいと思った。
 それと同時にその運動が終結して基地建設も頓挫し、キャンプ・シュワブ自体もなくなった後、このまちはどのような道をたどるのだろうかという問いが想起された。今でこそ私のように運動の現場を知るために外から人が訪れているが、運動が終わった後に人を呼び続ける要素として何を掲げてゆくのだろうか。幹線道路に面したバス停は一つのみで、そのバスも1時間に1~2本である。さらに、今回の滞在中に同行者が体調を崩したさいに病院を調べると、最寄りの病院(名護市中心部)まで13キロ、車で20分もかかることを踏まえると、運動の後の展望について知りたい、考えたいという思いが湧くのであった。

水の行く先

 本稿では辺野古という場について、なるべく運動にとどまらないイメージを提示することを目指したが、これまでに訪れた県内の他の地域についても同様の方法で文章にしてみることで、私の中の沖縄はより重層化、多面化していくことが期待されるため、不定期でこうした文章を書いていこうと考えている。私の発する言葉も私自身も行く末はわからないが、絶えず湧き、漂流する思考は続けていきたいものである。


2023年3月12日、半袖でも出歩ける暖かさの中で
柴高原写真センター、センター長

沖縄を訪れる際には常にサングラスを携帯する

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