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「戦争は外交の失敗」は本当か?

はじめに

 ウクライナ・ロシア戦争の最中、外交と戦争についての議論が活発になった。その中で、「戦争は外交の失敗」という言葉を目にする機会があった。筆者はこの言葉がどうも引っかかってしまったので、今回はこの言葉を考えてみたいと思う。

 この言葉は、音楽家の坂本龍一氏も2014年に言及しており(「戦争とは外交の失敗である、と定義されており」と述べている)、比較的進歩的な方々に好まれた言葉である。元ネタを検索してみると、日本ではおなじみのピーター・ドラッガーの言葉、英語圏ではイギリスの政治家であり作家であるトニー・ベンの言葉ではないか、という説が出ていた。またリンク先でも言及されているように、明確に定義されている言葉ではなく何となくそういう考え方もあるよ、という程度の言葉である。

 とはいえ、外交と戦争は表裏一体であり、その言葉にはある種の説得力があることは確かだ。大日本帝国が大東亜戦争(太平洋戦争)に至った経緯はまさに外交の失敗と言えるし、イギリスのチェンバレン首相がヒトラーに譲歩したことが外交的な失敗であり第二次世界大戦を勃発させた、という批判もある。

 だがよくよく考えてみれば、この言葉にも無理があるような気がする。今日の、ロシアによるウクライナ侵攻という「戦争」を目の当たりにした時、外交の失敗、などという言葉では片づけられるものではないと思うのである。

ロシアにとっての外交

 ロシアにとっての外交、というのはそれこそ武力を伴わない戦争である。武力を使うことが戦争であるならば、武力を使わない交渉、つまり外交は平和的な手段と見られがちであるけれど、ロシアにとってはそうではない。ソヴィエト連邦時代に外相をつとめたマキシム・リトビノフも「ソ連外交というのは、戦時においてソビエト軍が果たすところの仕事を、平時において果たす者である」と述べている(木村汎『プーチンとロシア人』産経新聞出版社/2018年1月22日/頁169)。これは政治を武力を伴わない戦争だと認識している中国の毛沢東にも通じる考え方である。

 こういった認識は日本人や欧米の人々とも相容れないものがあるのではないか。ロシアは元々「力こそ正義」の国なので、外交においてもその考え方が前面に出てくる。今回のウクライナ危機にしても、そういったロシア的な考え方を前提に欧米に対して妥協を迫ったが、聞き入れられなかったために侵攻に走った。

 外交に対する認識が国によって違うのであれば、この言葉が普遍的な意味を持つことは難しい。

戦争をする気満々の相手国を止めることは難しい

 外交の失敗が戦争になる、というのは一面においては真理だとは思うけれど、やはり理不尽な部分もある。というのも、相手国が戦争をする気満々で国境付近に多数の部隊を展開して、今にも攻めかかろうとしている状態では、どの道戦争は勃発してしまうからである。仮に脅しだけのつもりだったとしても、実行力が無ければ舐められて目的を達成できないので、結局戦争をしてしまう。

 2003年のイラク戦争では、米国が戦争をする気満々であり、国連にしても米国に反対する国々にしても、それを止めることができなかった。

 確かにイラクのサダム・フセインにしろ、ウクライナのゼレンスキー大統領にしろ、もう少し上手く立ち回っていれば戦争は回避できたかもしれない。国境付近に多数の軍が集結する前に手を打っていれば、何とかなったかもしれない。だが、イラク戦争にしてもウクライナ戦争にしても、戦争をやる気満々の国(それも自国よりもはるかに強大な軍事力を持つ国)を相手にして戦争を回避するには相当老獪な手を使わなければならないだろう。

 外交の天才であれば出来るかもしれないけれど、そう都合良く天才的な外交センスを持った人間が国の指導者になれるだろうか。民主主義国ともなれば国内の利害調整もしなければならず、外交だけに集中することは難しい。何より、一部の天才しかできないような仕事であるならば、その人物が死んだり交代した時点で外交が行き詰ってしまうだろう。

 何が言いたいかというと、誰がやってもある程度平和を維持できる外交こそが理想なのである。

そもそも外交の目的とは?

 外交の目的は、現代では軍事だけにとどまらず、政治、経済、文化、人件、それに近年では温室効果ガスの問題など、地球環境においても外交の場で議論されている。一国ではできないこと、もしくは一国だけでは意味のないことを他の国々と協力することで可能になることもある。

 とはいえ、外交の究極の目的はやはり戦争の防止であろう。ヨーロッパの三十年戦争(1618~1648)では、ヨーロッパ全土に多大な被害をもたらしたため、主要各国が集まって講和会議が開かれた。そこで結ばれた条約が有名なヴェストファーレン条約であり近代国際法の端緒となった条約と言われている。

 第一次世界大戦後には国際連盟が発足し、不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)が締結された。第二次世界大戦後には国際連合が設立される。平和構築の努力は何度もなされてきたけれど、残念ながら完全な平和には至っていない。現在でも国連には様々な欠陥があることは事実だ。しかし歴史的に見て、戦争の防止と平和の構築のための先人の努力があったこともまた事実である。

 国が違えば文化も違う。同じ国の中ですら考え方の異なる人々が混在するのだから、海の向こうの人々が自分たちと同じような考えと思う方がむしろ無理がある。ゆえに外交という方法で意見調整していく必要があるのだ。とはいえ、近年ではインターネットによって国境の壁が低くなっており、産業や経済でも国際的なサプライチェーンを形成するなど、国境を越えた結びつきは強い。また主要な資源を輸入に頼っている日本もシーレーンの防衛などで各国と協力していく必要がある。あの米国ですら財政的な理由から世界の警察官として振る舞うことは放棄して久しい。

結論:国際社会は自助努力が求められるが、助け合いは必要

 2022年1月15日、南太平洋のトンガにおいて、海底火山が噴火。火山灰や噴火の衝撃などで大きな被害が発生した。ウクライナの衝撃でほとんど注目されなくなってしまったが、これも今年起こった大事件である。

 この噴火により、トンガでは大きない被害が起こったけれど、それに対し日本を含む各国から食糧・医療支援などが行われた。日本でも、2011年の東日本大震災では同盟国の米国だけでなく周辺国や友好国から人員・物資などの支援が行われてきたことは記憶に新しい。

 こういった国際支援も広い意味では外交である。国際的な支援は国連や赤十字、NGO(非政府組織)などの機関を通じて行われているけれど、こういった国家間の助け合いは単純な人道的配慮だけではない。途上国が発展すれば重要なビジネスパートナーになる可能性もあるし、新しい産業が生まれるかもしれない。

 人が助け合った方が社会的にも発展するように、国同士も助け合うことで国際社会がより発展することもある。力こそ正義の国からしてみれば「何を甘っちょろいことを言っておるのか、生きることとはすなわち闘争ではないいのか」と思われるかもしれないけれど、価値観や利害関係を超えた協力こそが、自然災害の増えた現代の地球において必要なことではないかと思われる。

 国によっては失敗国家とか破綻国家などと呼ばれる国もある。そのような国を見捨ててしまえば、テロリストや無法者の温床になってしまうため、国際社会としての支援も求められる。自己責任と言って切り捨ててしまうのは簡単だが、そんなことをすれば余計に世界が住み難くなるのではないか。

 つまり失敗は誰にでも、そしてどの国にもあることなのだから、それをカバーできる仕組みや方法を考えることこそ、真の平和への道と言えるのではないだろうか。

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