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昭和きもの愛好会インタビュー1.染色家 玉村 咏氏

〇西陣産業会館の工房を訪ねる
昭和きもの愛好会の聞き取り調査は、西陣から始まりました。正確には西陣織会館となりの西陣産業会館1階にある工房です。ここで染色作家の玉村咏氏にお話を伺いました。西陣産業会館1階にある氏のオフィスはショールームを兼ねており、2階の工房では制作が行われています。「俺はこの業界に50年いるから、何でも話すよ」という玉村氏。ショールームの壁には、350色の色彩見本が飾られています。微妙な色の調整では業界随一と評判の高い氏の仕事を、この見本帳から伺うことができます。 

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また、ショールームには玉村氏の着物を美しく見せるための工夫が随所に見られます。特に発想が素晴らしいのが、このクローゼットです。

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おわかりでしょうか?クローゼットの天井にびっしり敷き詰められているのは、カーテンレールです。この一本一本にフックと丸棒が掛かり、それぞれに着物がかかっているのです。
「お客さんの『着物を見たい』という希望への対応が案外めんどくさいんだよね。その都度、出したり畳んだりも大変なので考えました。こうして見てもらって、気に入ったものがあれば初めて試着していただくようにしています」
なるほど、こうすればお客様も見やすくなります。その着物の中でも目を惹いたのが、この着物です。

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まさに玉村氏の技術の真髄というべき、グラデーションの縞模様です。

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もちろん氏は工房でデザインから染色の全行程を行っています。

〇展示会だけで食べていくという方向性

さて、今回の訪問の目的は業界50年という氏に、戦後から今までの京都の着物づくりについてお話を伺うことでした。その前に、氏の独自の販売方法について説明します。氏は1991年から「自作の着物を問屋を通さず販売する」ことを始めました。もちろんインターネット通信のない時代です。
集客は案内葉書のみ、出身地の福井県で展示会をしたのが最初です。「これからは年2回の展示会だけで食べていく」ということを決め、同窓生の名簿を頼りに案内状を出したのが直接販売の始まりです。

その後、1995年に同様の方式で東京でも展示会を開催しました。
当時は案内状の郵送料だけでも何十万円とかかったということです。
その方法は今でも変わりません。彼は展示の際、何千通という案内状を出し、すべての葉書に手書きで一言を添えます。展示会は現在、京都・福井・東京で年3回開催し、その度に古くからのお客様が集まります。
「仕事を始めた当初は、問屋との付き合いがありましたが、現在は、全くありません」と玉村氏は言います。

氏がそうした販売方法を選んだ理由には、現場で着物づくりにかかわる側と、企画・販売にかかわる側との齟齬が原因であったようです。
利益のうちの多くを販売する側に持っていかれることも勿論大きな要因の一つですが、「問屋や仲介業者は真に着物を愛しているのか?」「美しいものが何かを理解しているのか?」という疑いが常にありました。

〇着物が爆発的に売れた時代

さて、いよいよ本題に入ります。着物が爆発的に売れた時代とはどんな様子だったのでしょうか?
玉村氏によれば、今までで着物が一番売れたのは、1970年の万国博覧会前後ということです。帯の見本を2反出すと、800反分の追加注文がすぐに来るという時代、展示会をすると帯や着物が40分で完売する時代であったそうです。
このように何をしても利益が出た時代には、製造する側にも「良いものを作ろう」という考えがありました。問屋も社内に研究室・デザイン室を設置し、一つの製品に1年かけてもの作りをしようという姿勢がありました。景気の良いときは、後世に残るものを作ろうという気概が確かにあったのです。
しかし、売り上げが下がってくると、真っ先に切られるのはこの研究室・デザイン室分野です。また、今までこぞって図案を買っていた企業はそちらに経費を回さなくなります。最悪の場合は他の製造者のコピーもするようになりました。
「彼らは着物より儲かるものがあれば別の業界に出ていくでしょう。まず売れることが大切で、売れない場合は人のせいにします」
それが、玉村氏をして、問屋を通さず販売するという形態に駆り立てた理由の一つです。
商売である以上、利益が出なければ経営方針を変更することは仕方ないことですが、氏はその変わり身の早さ・節操のなさに呆れたのです。
また氏は、今の着物業界で仕事をしようとする人が続かない理由として「職人にいい給料が出ない」ことを挙げます。「父親が安い給料で使われているのを見て、子供はその業界に入ろうと思うでしょうか?そこにも企業の責任があると思います」

〇洟垂れの頃の作品なんて見たくもない

2階の工房を拝見すると、製作中の着物がありました。白生地も自分の工房で買い*、すべてが一貫生産で制作されています。

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「俺は今年でもう72歳だから(2020年2月現在)、いろいろ断捨離してるんだ。他の着物は全部あげてしまったよ」と言いながらも見せていただいたのは、若い時に作られた着物です。

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これは美術展に出展されたそうで、美しいグラデーションで構成されています。この時期に玉村氏のスタイルがもう既に確立していた様子を見ることができました。氏の作品はほとんどが幾何模様と線で構成されています。

「俺はね、花は描かないんだ」
「でもそこに椿の柄の帯がありますが?」
「あれはね、花もその気になれば描けるということを見せるために1点だけ作ったんだ」
昔の作品の美しさを絶賛する筆者に対し、氏は言います「そんな昔の洟垂れのころに作ったものなんて、本当は見たくもない」
すぐ後に展示会も控えておられる由で、まだまだ戦う姿勢は続くようです。

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〇作家としての独自な姿勢

インタビューを終えて感じることは、氏の染色に対するたゆまぬ努力と工夫です。氏を知る人々は、彼の社交的なキャラクターや営業力が成功の秘訣であると思っていますが、それは間違っています。

玉村氏が現在の立場に到達された秘訣は、
1 問屋に頼らない販売方法を早くに確立したこと
2 工房レイアウトから着物の柄置きに至るまで、独自の発想と工夫があること
3 他の方法で儲かってもそれはしないという覚悟があること
4 展示会開催に加え、工房兼ショールームでお客様と接する場を設けたこと

であると思われます。
特に2にかける試行錯誤は、「言われる通りしていればいい」と教えられてきた染色職人の業界では異色のものでした。今でこそ多くの情報がインターネットで得られ、集客もSNSで可能となっています。
しかし約30年前にそれを独自の方法で確立したことは誰でもできることではありません。今でこそ時代が彼に追いついていますが、当時の人々は彼のスタイルを理解できなかったことでしょう。
「この人は初めから何もかもがオリジナルだったのだ」と思いながら工房を後にしました。

玉村 咏 (Ei Tamamura)
1947年福井県生まれ。1983年京都西陣において染色工房「アトリエ攸 」を設立。
 【 そめこうげい 攸 】 http://www.eitamamura.com/

注釈:
問屋から職人に染色を発注する場合、白生地は問屋が購入するのが通例である。白生地の製造元が問屋に売り込むために、様々な技術が進歩したのではないか、というのが玉村氏の意見である。

筆者:似内恵子(昭和きもの愛好会)
本稿の著作権は筆者及び昭和きもの愛好会に属します。無断転載を禁止します。

【関連サイト】

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