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99歳のおばあちゃんが「死んだら気楽に開けて」と遺した「茶封筒」の中身とは

今日は、とあるおばあちゃんのお話をまとめます。

4ヶ月前に数え100歳になったお祝いをしたばかりの99歳。心臓が悪く、何度か入院したことがあったものの、そのたびにしっかりと復活。ある日、朝起きてこなかったので、家族が声をかけにいったところ、ふとんの中で眠ったまま逝ってたそうです。

70歳を過ぎた頃から周囲に明かしていた「茶封筒」の存在

この「茶封筒」は、いつも枕元の台の上に置いてあり、遺言が書かれているということでした。

「遺産関係ではないから、その時が来たら気楽に開けてね」

そう言いながら、何年かに一度のペースで中身を書き換えていたそうです。
99歳で亡くなった後、子どもや孫たちが集まって開けることになりました。封筒の中から出てきたのは、おじいちゃんの写真と自分の葬儀用の遺影。遺影は選りすぐりの「盛ってあるやつ」で、みんなで笑ってしまったそうです。歳はとっても女性は女性ということでしょうか…。

そして、手紙が一通。

子どもや孫たち、ひとりひとりへのメッセージが書かれているのかと思いきや、そうではありませんでした。
書かれていたのは10か条。内容を要約すると、こんな感じだったそうです。

一、通夜も告別式もお別れ会程度にしておけ
一、参列は子と孫のみにせよ
一、孫は仕事があればそちらを優先しろ
一、孫の妻、ひ孫は来なくてよい
一、極力、金をかけるな
一、告別式、火葬、納骨は同日中に済ませろ
一、香典はじめ生花、花輪、盛り籠の類は一切もらうな
一、せっかく子や孫が集まったなら、あの店(具体的な店名)で宴会しろ。金ならもう払ってある
一、四十九日やその他の法事はしないでいい。お坊さんにもその旨伝えてある
一、遺されたものは楽しく生きろ

読み終えて、「らしいな」と思ったそうです。変に感傷的な感じもなく、てきぱきと事務的。それでいて子や孫を思う気持ちが、武骨ながらも表れている。「宴会の前払いまでしていたなんて」「すでにお坊さんにも伝えてあるなんて」と、びっくりしたそうです。
冠婚葬祭でもないかぎり、なかなか集まることができない親族を気遣ってのことでしょう。「最期までさすがだなぁ」と感心したそうです。

関東大震災や東京大空襲も経験

おばあちゃんが生まれたのは、大正7年(1918年)のことでした。
関東大震災では家が全壊。東京大空襲では焼夷弾が降りしきるなか、子どもを抱えて必死に逃げのびたと言います。
戦後、出兵してたおじいちゃんが無事に戻ってはきましたが、40歳で病気のため亡くなりました。
再婚することもなく、家族を養うため鍼灸師の免許を取得。シングルマザーで子ども4人を育てあげた、まさに「肝っ玉母さん」でした。
子どもたちが自立した後も、鍼灸師の修業のためにシンガポールや中国、エジプトなどを旅して回りました。
老後は、離婚して戻ってきた娘と同居しながら、お互いに言いたい放題、にぎやかにのびのびと暮らしてたそうです。

思い返してみても、苦労している姿や悲壮感はまったく浮かんでこない。頭の回転がよく、歯にきぬ着せぬ物言いをちょっと怖く感じたこともあったそうですが、晩年はユーモアたっぷりに、「自分のしたいように生きている、たくましい人」だったそうです。

「茶封筒」の10か条に従って執り行われた葬儀

花も供物もほとんどない、シンプルな葬儀。棺には、庭にたくさん咲いていたハイビスカスやサルスベリ、ひ孫が摘んで編んだシロツメクサの花飾りを入れました。
生前、「死んだ後に金をかけるくらいなら、生きているうちにかけてくれ」が口癖だったおばあちゃん。言いつけ通りに、生前、ことある毎に旬の食べ物やご当地グルメなどをふるまってきただけに、その質素な葬儀を悔いる家族は誰一人いなかったそうです。

おばあちゃんを思って笑顔に包まれた式でしたが、出棺と火葬の時だけは、みんな涙を流していたそうです。
家族が心の中でつぶやいた「またね」。かつて、おばあちゃんが最期の言葉を考えていた時に「お先にあちら(あの世)でお待ちしております」と言ったことを思い出し、それに答えた心の声だったそうです。


とてもあざやかで、見事な人生の終い方。こういうのが「あっぱれ」と言うんです。

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