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詰み

頭部と腰部がはっきりと残った、立派な亡骸だった。

火葬後の祖父の亡骸を見た親戚一同は、まるで誰かを励ますように健康だった祖父の過去を称えた。祖父は過去の人になったのだと自覚させられたようで聞いていられなかった。

火葬直後の祖父を拝むために群がる親族の様子は、焼き立てのパンに群がる主婦のようだった。小さな祖母の前に立ちはだかる野次馬達に、私は小さな怒りを覚えた。

喪服を纏った祖母の小さく曲がった黒い背中は、誰も寄せ付けない名も無き感情を放っていた。

火葬場ではしゃぐ姪と甥はいつも以上に無垢な存在として愛でられ、重い空気を濾過したが、静寂のたびに訪れる死の雰囲気を逆に際立たせてもいた。私は必要以上に姪と甥の相手をした。

火葬の間、普段吸わない煙草をほとんど初対面の親戚と吸った。今にも土砂降りになりそうな重く斑らな空の色だけが脳裏に焼き付いている。その煙草はひどい味がして、すぐにうがいへ走り、二度と吸うまいと思った。親戚との会話の内容は覚えていない。

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「検査結果は健康そのものやねんけどな。どうも胃が機能しとらんらしいねん。動かん胃を取れば、きっとこの長年の嘔吐も治る。」

そんな祖母の期待を裏切り、術後祖父はあっという間に衰弱し、要介護認定レベル4と指定された。

親族で唯一の独身で、東京で自由気ままにサラリーマンをしていた私が祖母の在宅介護の支援をすることとなった。会社からはすんなりと介護休暇をもらうことができ、上司へ報告したその日に東京から三重に戻った。

最寄りの亀山駅に到着し、タクシーで病院へ向かった。幼少期に見た景色を車内から探す余裕があり、特別な緊張感はなかった。

祖父は祖母に車椅子を押されて現れた。眉間に深いシワを寄せており、怒りなのか、痛みなのか、硬直したその顔面から表情を汲み取るのは難しかった。

介護中、何度も祖父の背中を抱えて起こした。その度、華奢なプラモデルを持つような不安感を覚えたが、その体内には確かに温かみがあり生を内包しており、太い背骨からは長年の農業鍛錬の蓄積を感じた。

何事も人に頼ることができない祖母は、病室のソファーをベッドにして泊まり込み、歯磨きや汚物の世話をした。その世話をお願いするために入院させたはずなのだが、任せっきりにするのは看護婦さんの迷惑になると思ったそうだ。

泊まり込みで介護する家族は他におらず、院内では有名なおしどり夫婦だった。しかし祖父母はしょっ中病室で喧嘩しており、一度荷物をまとめて病院を出たらしい。しかし2時間後には再びその荷物をもって病室に戻り、何事もなく介護をしたそうだ。どんな環境でも夫婦は喧嘩することを学んだ。

私が見つけた介護方法の一つが、日に一回の将棋だった。

将棋はもともと祖父から教わった。今となっては最低限のルールしか覚えていないが、当時祖父と対局した際に感じた圧倒的な強さや、私に合わせたやさしい手抜きの雰囲気が好きだった。

家に20cm角の立派な将棋盤があったが、大きすぎて邪魔になるというので、祖母が段ボールの裏にマジックで五目線を書いてポータブルの将棋盤をこしらえてくれた。なんとも頼りなくみすぼらしい盤を使って、私と祖父は毎日将棋をした。祖父の将棋は驚くほど弱くなっており、桂馬の動きを毎回間違えた。

「洋平、これは俺の負けやな」

「いや、まだわからんで」

「いや、わかる。これは俺の負けや。おわりや。」

「なんでぇな。まだわからんやん。」

「あかんわ。なぁ洋平。ちょっと横になるわ。」

「あかんで、体起こしとくのもリハビリやで。」

「ちょっと休ませてくれ。ほんまに、ちょっとえらいわ」

将棋の日課は1週間ほどしか続かず、その後間も無く祖父は逝ってしまった。

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喉仏を仏壇へ納めると親族はあっさりと解散し、家の中は唐突な静寂が訪れた。気がつけば外は日が暮れ始めていた。
居間の電気をつけようとしたその時、食卓に黒い塊があることに気がついた。祖父の財布だった。

その辺のスーパーで買ったような二つ折りの黒いフェイクレザーの財布は、大切にするでもなく、雑にするでもなく、祖父の日常が刻み込まれていた。それはまるで祖父から削いだ肉の一部のようで異質だった。

私は躊躇しながら手に取り、その重みを確かめた。

中には三百二十五円と免許証が入っていた。

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