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【短編小説】ある銅像の雄弁

伊予和一郎像
伊予和一郎像(いよわいちろうぞう)は、日本の啓蒙思想家・教育者であり、文明開化に寄与した伊予和一郎(1828年〈文政11年〉 - 1878年〈明治11年〉)の顕彰を目的として東京都A区に建立された銅像のことである。伊予和一郎像の台座には、彼が生前残した言葉「青年よ、世の中を変えるのは君の持つ勇気なのだ」と刻まれている。
〉事件
 2024年7月21日(日)深夜2時頃に、伊予和一郎像背後の国道で乗用車によるひき逃げ事件が起こった。乗用車に衝突された男性は死亡し、運転手は後日逮捕されている。事故の際、被害にあった男性の血液が伊予和一郎像にまで飛び散り、その跡は今でも残っている。

(Wikipedia「伊予和一郎像」参照)


『ある銅像の雄弁』

 
 とある丑三つ時。摩擦音、そして衝撃音が夜の街に響き渡った。
 けたたましい音と同時に、俺の視線の先に、血だらけの男が現れた。

 いつもなら俺の視線の先には、右手に持たされた、石でできた偽物の本があるだけだ。時折、俺の胴体と本の間に、猫が体をおさめて昼寝をしたり、鳩が巣をつくろうと小枝を運んできたりする。百四十年ほぼ同じ世界を見るしかない俺の目にとっては、どんな出来事も良い暇つぶしだ。
 
 ただこの男を暇つぶしだと言うにはあまりにも不謹慎だ。
 俺の目の前に倒れこんだ男の周りを、血は止まることなく満たし続ける。何か恐ろしく重い物とぶつかったのか。腕と足が有り得ぬ方向に曲がっている。
 ああ、この男はもう——。

「死んだな、こりゃ」

 誰の声だ。
 目の前には今にも死にそうな男しか居ないはずだが、〈別の誰か〉の存在を感じた。
 しばらくして、その〈別の誰か〉が俺の目の前にふらふらと現れた。
 その男は、血だらけの男と、『そっくりな別の男』だった。
 ただ、そっくりではあるが、倒れている男は血だらけで、隣にいる『もう一人の男』は血を流していない。ただ呆然と「血だらけの男」の方を見つめている。

「そこの君」
「え?」

 隣の男を意識し、伝われば良いと念じながら、語りかけてみた。驚くことに、生まれて初めて、俺は人間と会話できた。

「君は……」
 もう一度語りかけると、男は肩を大きく上下させ、振り向いた。

「妖怪なのか?」
「いや、そっちでしょう、妖怪は」
「何故だ」
「銅像が喋るなんて、おかしい」
「同じ人間が二人いることもおかしい」
「双子でそっくりな人もいますよ。マナカナとか凄く似ていますし」
「魔那加南?」
「え? えっと、それはどうでも良くて、僕に関していえば、これは幽体離脱だと思います」
「なんだそれは」
「幽体離脱も知らないんですか?」
「何も知らない」
「偉人ですよね……?」

 ものには魂が宿るという大和古来の思想は正しい。
 ただ、この体には、俺の起源である「伊予和一郎」の魂など宿っていない。
 俺にあるとしたら、俺を彫った人間の〈心〉だ。

 ——『この銅像が、ひたむきに努力する人々に、勇気を与えますように』

 職人の信念と多少の知識のみが、俺にある。
 
「幽体離脱っていうのは……、肉体と魂が何かしらの原因で分離してしまうことです。血だらけの僕が肉体で、この僕が魂です、きっと」

 無知の木偶の坊の俺に、男は丁寧に説明をする。なるほど、俺たちはいま「魂」同士であるから会話できたのか。

「君が魂なら、もう一度肉体に入ることはできないのか」
「戻ったとしても、こんな体じゃ、きっとすぐ死んでしまいますし……、どうせ生きていても」
「良いことないよな、うん、うん」
「はい?」
「人間は誰しもいつか死ぬ。死を潔く受け入れることが、苦悩からの解放の一番の近道だ」
「……」
「さあさあ、来世のことでも考えて、気持ちを楽にしなさい」
「……僕が死んで嬉しそうな顔なのは、気のせいですか?」
「銅像は笑わない」

 俺は男の疑念を否定したが、俺の魂は確かに、喜びで踊り狂っている。

 生まれて百四十年、俺はこの世に飽きてしまった。
 代わり映えしない景色。俺のことをとうに忘れた人間たち。
  
 ——俺はもう、ぶち壊されたいのだ。
 
 それを叶えてくれるのが、お前かもしれない。
 人間の社会では、古くから呪いを恐れる風潮がある。特に死者の呪いは最たるもの。俺の傍で人が死ねば、この場所を忌み嫌うものがきっと現れる。その負の感情で心身に支障をきたす者が現れれば、結果、俺は「呪われた」像となり、俺のことを、善良な誰かが壊してくれるかもしれない。

「ということだ。俺と仲良く、君の死を見届けようじゃないか。案ずるな、恐れるな、君は一人ではない。他者に見守られる死は孤独ではないぞ。俺はきっと、君の死を見守るためにここに居続けたのだ!」
「はあ……」
 俺と男の、奇怪な夜が始まった。

   ◆

 男は、俺の隣で膝を抱えながら座っている。横顔にはどこか幼さを残している。
「年はいくつだ」
「二十一です」
「この街に住んでいるのか?」
「はい。生まれはここじゃないんですけど、大学に通うために上京しました。あの道をもう少し真っすぐ進んで右に曲がるとアパートがあって、そこに住んでいます。この道も大学に行くために何度も歩いたことがあるんですけど」
「数多の人間を見てきたからな。いちいち覚えちゃいない」
「そうですよね」

 なんてことはない会話が続く。だが、退屈で仕方なかった俺にとって、今宵は奇跡のような時間だ。話し相手が居るということも、大いに素晴らしいことだ。

「僕は、和一郎さんが羨ましいと思います」
 不意に、一滴の雨粒が地面に染み入る様に、男は呟いた。
「何故だ。ずっと変わらない景色を見つめ続けることは、地獄のように退屈だ」
「それでも、貴方には生まれた意味があります」
「意味?」
「貴方は美しいです」

 眼下から、男の視線が向けられる。男の瞳に映る形で、俺は初めて夜空というものを知る。

「きっと貴方の美しさと凛々しさは、この街で生きる人々に、これからもずっと勇気を与えていくのでしょう。それはとても尊く、羨ましいことです」

 俺は、男の瞳を、知っているような気がした。

 ——『この銅像が、ひたむきに努力する人々に、勇気を与えますように』

 俺をつくった、〈あの人〉に似ている。

「君は、芸術家なのか?」

 俺の言葉に、男は目を丸くした。
 出会ってからずっと穏やかに微笑み続けていた表情が崩れ、その瞳を潤わせる。

「そんな……、たいした者では無いのですが」

 男は一瞬の乱れを隠すように笑みをつくり、もう一人の自分を見た。
 投げ出された体の周りには、男の荷物も散乱しており、その中に、真っ赤に染まった何枚もの紙が散らばっていることに、俺は気づいた。

「絵を描くのか」
「そう、ですね」
「見てみたいものだ」
「見たいですか? 僕の絵なんて」
 吐き捨てるように男は言う。嫌な笑みだ。
「それは……、退屈だからな」
「どうせ見ても、上手くないですから」
「俺は見ていない」
「それでも分かります。自分の才能のことは、自分が一番……」

 男は自分の両掌で、自身の顔を覆う。
 一瞬でも、この世からいなくなろうとしているのだろうか。

「僕はただ、花が咲かない地面に水をやりつづけていただけです。無価値な僕は、この世に生まれたというのに、この世に何も残すことができずに、死にゆく運命だったんです……」
 
 それが君の本心か?

 そう思った瞬間、我に返る。
 ……俺は、何を考えている?
 俺はこの男に死んでほしいのだ。でないと、俺はまた、何十年何百年退屈な日々を過ごさねばならない。だから俺は、何も言わない。君は死を受け入れ、俺を、この世を、存分に呪えば良い。
 なのに、何だ、この魂の揺らぎは、どよめきは。

「……だから事故にあったことを、恨んでもいません。意味もなく生きながらえるより、何もかも、終わりにしてしまった方が、楽ですよね」

 そうだ。君はよく頑張った。
 自分の無力さに気づくことは、それまでに血反吐が出るほどの努力をしたのだろう。だからもう——。

『だがしかし、君はまだ、生きているぞ』
「え?」

 何を言っているんだ、俺は。

「でも……、生きていても」
『生きているならば、何者にでもなれる』

 やめろ。何故だ。俺は何も、言いたくはないのに。

『まだ生きているのならば、青年よ、筆をとれ。筆が無ければ己の血で、この世に残していけ。己の生き様を』

 違う。これは〈俺〉じゃない。今、話しているのは——。

『青年よ、世の中を変えるのは君の持つ勇気なのだ』
 
   ◆
 
 青年は、「もう一人の自分」に近づく。弱々しい足取りだが、確かな一歩だ。
 青年は闘っている。その歩みの先に待っているのは耐えがたい苦痛。脚、背中、頭、そして腕の骨が折れている。

 不意に、青年の姿が消える。

 実存の主である魂が、肉体に戻ったのだ。
 その瞬間、絶叫が響き渡る。
 青年の喉を引き裂くほどの絶叫。
 そうさせるのは、文明と不道徳に破壊された肉体。
 青年は血の涙を流す。

 だが、青年の瞳は、死んでいない。

 なんとか神経が切れずにいた左腕で図体を支え、ゆっくりと起き上がる。
 一つ一つの動きに顔を歪め、自らを鼓舞するために、不要な悲鳴を嚙み殺す。

 何故、そんな体で歩けるのか。

 凡人では理解出来ないであろう有り得ぬ様。
 だが私に言わせれば、青年を突き動かす原動力は唯一つ。

『そうだ。それが勇気なのだ。君の魂の声を聞き漏らしてはいけない。その先にどんな痛みが待っていようとも、生きたいように生きよ!』

 青年は理解不能な言葉を漏らしながら、真っすぐこちらに向かってくる。

『さあ青年、私はお前とは違い、何十年も何百年も生きるぞ』

 青年は〈銅像〉に手をかける。

『この先、死んでも生きながらえたいのなら、その才能で、私を永久に生かせ!』

 もう聞こえるはずのない私の叫びに青年は頷き、銅像のからだを赤で染めていく。
 筆は無くとも塗料は潤沢であった。未だに流れ続ける己が血を、両手ですくい上げ、痛みなど無いかのように銅像に何度もぶつけて、拭って、またぶつける。

 その赤は、無秩序のようで目的があった。
 青年は、百四十年の時で錆びついたこの銅像に、自身の血によって、啓蒙運動に命を燃やしたあの日の情熱を、再び与えようとしていた。

 夜は未だ明けぬ寅の刻、とうとう青年は力尽き、絶命した。
 血塗られた伊予和一郎像は、究極知の探究という地獄の道を、業火に身を焼かれながら突き進む賢者のようだった。
 
   ◆

伊予和一郎像(いよわいちろうぞう)は、日本の啓蒙思想家・教育者であり、文明開化に寄与した伊予和一郎(1828年〈文政11年〉 - 1878年〈明治11年〉)の顕彰を目的として東京都A区に建立された銅像のことである。伊予和一郎像の台座には、彼が生前残した言葉「青年よ、世の中を変えるのは君の持つ勇気なのだ」と刻まれている。
〉事件
〉別名
 2024年7月の事故以降の、血塗られた伊予和一郎像は一部の層に熱狂的な人気を博し、「シン・伊予和一郎像」と呼ばれる。「シン」は、「新しい」という意味と、事故により亡くなった芸大生「井谷真」の「シン」の名が込められている。

  (Wikipedia「伊予和一郎像」参照)


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