【短編小説】雨、雨、雨、エコー
——全部、雨のせいだ。
電車が延着していたのも、焦って出勤したから服は濡れて体が冷えたのも、スニーカーに水がしみ込んで靴下が毎秒ごとに腐っていくのも、低気圧で頭はかち割れそうなのも、
「やだあぁ」
「いきたいぃ」
私が勤める保育園の遠足が中止となり、園児たちが泣き叫んで地獄のうるささなのも、全部、雨のせいだ。
「雨宮先生、どうにかしてくださいよ」
「はあ」
無理だ。だって小学生の通知表の通信欄にはいつも、
「もうすこし おともだちと たのしくすごそうね」
生粋の根暗の私は、子どもたちの笑顔を取り戻すユーモアも優しい言葉も愛も、全く持ち合わせていない。
——そんな私が担任の先生に褒められた、唯一の特技。
泣き叫ぶ園児のそばを通り過ぎ、教室の片隅に向かう。
さあ、何にしよう。
『春が来た』? いや、来たのは梅雨だ。
『さんぽ』? いやだめだ。歌詞の内容が「遠足」を彷彿させてしまう。
『かえるのうた』? ……どうも、ぱっとしない。
そうだ。あの曲にしよう。最近テレビコマーシャルで流れていたのを聴いて懐かしく思った。雨が止むことを望む園児たちの心境にぴったりだろう。
鍵盤に、指を置く。
『好きなのに、怖い』
鍵盤に触れると、いつもこの異様な感情に襲われる。
ざわつく心を無視して、私は鍵盤をたたいた。
前奏を聴いた園児たちが、こちらを向いた。鼻水を垂れ流しながらも、かすかに歌う声が聴こえる。良かった。少しずつ、園児たちに笑みが見られる。
(……ああ。でもダメだ)
上手く弾けない。鍵盤が重い。音が鈍い。くそっ。苛立つ。苛立つと、ミスが増える。
——これも全部、雨のせいだ。
拍手が聞こえ始める。ああ、うるさいうるさい。こんな下手くそなピアノに対する、嫌味にしか思えない。
ピアノから動けず、ぼーっとしていると、同僚の佐藤先生が、のそのそと近づいてきた。
「雨宮先生、ピアノ、うまいっすね」
地雷。
だから雨は嫌いなのだ。
◇
『19日の天気は全国的に雨。この1週間は梅雨前線の影響で雨が続きます』
だ、そうだ。
職員会議中の職員室にある小型のテレビから無慈悲な予報が聞こえる。これでは遠足を延期することも難しく、1週間の計画自体の変更が必要だった。会議の結果、臨時で歌の発表会をおこなうことになった。
「やっぱり雨宮先生が弾いた『にじ』が良いですよね」
ね~の合唱、圧。私はもう、逃げられない。
「だって雨宮先生、ピアノ、激うま」
「あー、はいはいはいはい」
佐藤先生の口をはいの連打で封じる。
担任の先生たちと音楽発表会の実施要項を検討し、保護者向けのプリントを作成、園児たちの前で発表し、この日は何とか乗り越えられた。
全く興味の無かった保育士という仕事。
高校三年の三月になっても進路が決まっていなかった私を見かねて、親が勝手に願書を出し合格したのが保育系の専門学校だった。
志が全くないなかでも、今は保育士2年目の立派な社会人であり、安月給ながらも衣食住にも一応困らず、某めちゃめちゃコミックスが読めるサイト会員の月額有料コースに加入し娯楽も満足であり、いわゆる「幸せに」暮らせている。
「幸せ」?
自分で言って心がざわつく。私の「幸せ」は昔、どこかに置いてきてしまったような、そんな虚無感を覚えた。
『好きなのに、怖い、触りたいのに、痛い……』
だめだ。これ以上考えると、心が暗くなる。
こういうときはスマホでめちゃめちゃコミックを読んで現実逃避。
しかし窓からは雨音。
「……うるさい」
そうだ、全部、雨のせいだ。雨のせいで、心身共に仲良く病んでしまっているのだ。
ベッドにもぐりこみ、なるべく音から遠ざかろうとする。しかし、生来のまじめさからベッドの中には明日の指導計画ももぐりこませた。
眺めているうちに、ため息が出た。
今日もやり切ったぞ、という安堵の吐息ではなく、一つの心配事が頭から離れないから漏れ出た吐息だ。
私のクラスに、ゆかちゃんという女の子がいる。
ゆかちゃんは極度に緊張しやすい性格で、特に発声をともなう行為、発表、挨拶、そして、歌に苦手意識があるようだった。
そういう子が一人いると、その子ばかりを配慮してしまって、全体に目がいかず、問題が発生することも多い。
もう一度、ため息が出る。
明日ゆかちゃんに、何と声をかけよう。
◇
『20日の天気は全国的に雨』
次の日の午前の工作の時間、ゆかちゃんに話しかけられた。
「せんせいも、あめ、きらい?」
「どうして?」
「こわいかおしてる」
そりゃあ、この雨のせいでまた電車は延着していたし、焦って出勤したから服は濡れて体が冷えたし、スニーカーに水がしみ込んで五本指の靴下のすべての指が腐っていくのを感じるし、低気圧で頭は木刀で殴られているかのように痛いし、生粋の手先の不器用さが祟って工作のお題のてるてる坊主を見た佐藤先生に——、
「雨宮先生、てるてる坊主、マジおばけっすね」
また地雷。
「せんせい、あのね」
それに緊張しいの君のことを考えていたら、そりゃあ怖い顔にもなっちゃいます。
「おうた、がんばる」
え。
いや、でも君、この前の卒園式の送る歌、全然歌えなくて悔し泣きしてたじゃないか。どうした急にそのやる気。
「え、偉いね、ゆかちゃん、先生も応援して」
「せんせい、だから、ぴあの、ひいて」
興奮しているのか、私の言葉を待たずしてお願いするゆかちゃん。
「ピアノ」と聞いて、私の背中に群がる園児たち。
「ピアノひいて」「ピアノひいて」「ピアノひいてーー」
こうなっては収拾がつかないので、予定の時間より早いが、急遽歌の練習をすることになった。歓喜の園児のそばを通り過ぎ、私は教室の片隅に向かう。
いつのまにか窓には、園児たちがつくったてるてる坊主たちが貼られていた。
私のは無かった。
数か月後、私のてるてる坊主はなぜかハロウィンの飾りつけの時に、おどろおどろしいオバケたちと一緒に肩を並べていた。
——さて。
鍵盤に指を置く。
『好きなのに、大好きなのに、怖い』
またか。なんなんだ。いい加減にしてくれ。
鍵盤をたたく。前奏。
話が聞けないあの子も注意散漫のあの子も、音楽が流れるとまるで魔法のようにおりこうさんになる。
園児たちは歌いだす。もちろんお世辞にはうまいとは言えないが、心がくすぐられるようなかわいい歌声だ。ただ単純に、声を出すこと、美しいメロディに言葉をのせることを楽しんでいる。
この光景が自分の中の〈何か〉と重なって、指が急激に重くなる。
ゆかちゃんの姿が不意に目に入る。口を大きく開けて歌えているようだ。だからと言って不安は消えない。君はこの前も練習ではばっちりだった。でも、本番は。
——雨音がうるさい
(……ああ、やっぱり上手く弾けない)
鍵盤が重い。音が鈍い。
くそっ。苛立つ。苛立つとミスが増えるのに……。
サビになると、園児たちの声が大きくなる。
雨がふってもその後空に虹がかかる。辛いことがあっても、苦しいことがあっても、その先には美しいものが待っているという、希望の歌。
『嘘だ』
雨上がりに虹が見えるとは限らない。
苦しみの先に幸せが待っているとは限らない。
努力の先に結果が待っているとは——。
——私のせいじゃない。
◆
「ゆか、明日のお歌の発表会とってもはりきっているんですよ」
……そうですか。
「この前は緊張しちゃったもんね」
「もー! いわないでっ」
……でもきっと今回もだめですよ。
「先生のピアノが上手で感動したんだよね」
……。
そうですか。
「ママ! ないしょ!」
……お母さん、早く言ってあげないと。
「だからお歌、頑張りたいんだよね」
努力じゃどうにもならないことばっかだって。
だって私は、無理でしたから。
幼稚園の頃からピアノを始めて、小学生から作詞作曲して、本当に、私は——。
音楽で生きていきたかった。
上手く友達と関われなかったとき、音楽にのせたときだけ自分のことが表現できた。
音楽にのめりこみ、中学からは動画サイトに自身の曲をアップして、少し評判になったこともあったが、事務所からの声は一切かからず、だらだらと、月日だけが過ぎた。
高校三年の秋、最後のオーディションを受けた。
私のやりたいことをそれなりに尊重してくれた親の意図をくんでの最後でもあり、業界が高校生でのデビューに異様な執着があることを知っているからこその最後だった。
しかし、私は今、どうしようもなく、〈ここ〉にいる。
オーディションは落ちた。
その日は、雨が降っていた。
(……私のせいじゃない)
雨が降るスタジオのピアノは、湿気で響きが重く、私の調子を容易に狂わせた。
(……全部、全部、全部)
夢は叶わなくて、その時点で、私の「幸せ」な人生は終わってしまったのだ。
「全部、雨のせいでしょ?」
◇
『21日の天気は全国的に雨』
もはやこの雨に、天気予報が必要なのか。
今日もまた電車は延着していたし、焦って出勤したものの、ここ数日の反省をいかしレインコートを着ていたのに、朝から悪寒がやばくて意味わかんないし、長靴なんて無いから今日もスニーカーと靴下は腐っちゃったし、低気圧で頭から何か出ているのかと錯覚するほどの頭痛だし、それに——、
ゆかちゃんが、歌えていない。
ゆかちゃんは本番前から顔色が良くなかったし、挙動も不自然だった。明らかに緊張していた。そして、私がピアノを弾き始めて前奏が終わっても、ゆかちゃんは口を小さくぱくぱくさせるだけで、発声していなかった。みんなが大好きなサビでは、もう、泣いていた。
……ああ、思い出した。
ゆかちゃんは、〈私〉だった。
オーディションの日、私は、声が出なかったのだ。
緊張か、不安か、絶望か、才能の欠如か、理由は何だって良い。
ただ一つ分かっていることは、それは、雨のせいではないということ。
音楽が鳴りやんでも、雨は、ゆかちゃんの涙を隠すように降り続けた。
◇
ゆかちゃんは歌の発表会後、主任の先生に手をとられ、消えていった。
ゆかちゃんの悲しみを私が引き受けたかのように、発表会が終わってからずっと、私の体は重かった。この日は記憶がほとんどないまま、勤務を続けた。
「先生」
我に返る。声の方向には、ゆかちゃんのお母さんがいた。
「あ、あの、ゆかちゃんは」
「ゆか」
ゆかちゃんがお母さんの後ろから現れる。
泣きはらした顔。まだ目や鼻がむずむずしているようで、赤い指先でこすってしまっている。
「ゆか、今日も緊張しちゃったみたいで」
声が出ないので、頷く。
「でもどうしても、先生の前で歌いたいんだよね?」
「え?」
なんで、そこまでして。歌なんて、歌えなくてもいいのに。
「先生のピアノが、とっても素敵だったから」
やめて。私のピアノなんて。
「きっと、みんなに見られてない状況なら」と、お母さんにお辞儀されてしまう。
「……わかりました」
私は恐る恐る、鍵盤に指を置いた。
『好きなのに、怖い』
……でも、やっぱり好きだよね。頑張りたいよね、ゆかちゃん。
鍵盤をたたく。前奏。
お母さんに寄り添ってもらい、ゆかちゃんは、
歌った。
大きな声で、楽しく、泣きながら、悔しく、歌った。
(そうだ)
全部、雨のせいだ。こんなにも泣きそうになっているのは。
こんなにも、また音楽をやりたいと、思ってしまうのは。
(おわり)
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