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【短編小説】月まで歩いていく

うさぎははねる。どこまでも。
いぬはかける。どこまでも。
さかなはおよぐ。どこまでも。
とりはとんでいく。どこまでも。
はなびらはまう。どこまでも。
いきものたちは、
どこまでも遠くに行くことができる。

『わたしは?』

 ——私は、今日も歩いていく。

『月まで歩いていく』


#ガマンデイナイトフィーバー🕺

 などという、ハッシュタグを投稿につけなければやっていられないぐらいの気分だ。
 先週の月曜日、私は取引先からのヒアリング結果をまとめて、マーケティング部の上司(その日は外回り後直帰予定のため不在)のデスクに起き、伝言を書いた付箋を残してすぐに「確認お願い致します」のラインを送って、上司からは「了解です!」の謎の猫のスタンプが送られてきたというのに。

「君、こんな資料の扱い方で良いと思ってんの?」

 私の置いた資料を、上司は一週間見ていなかったため、企画の進捗が遅れていることが判明した。その結果、オフィスの中心で私は、十歳も年上の成人男性の苛立ちのはけ口になっている。
 私は厳しい言葉を浴びることより、秋晴れの爽やかなオフィスの空気を、一変させてしまったことへの申し訳なさに、そして憐みなのか、蔑みなのか、そんな視線を浴びることに、苦痛を感じた。
 ていうか、そもそも、上司さんが「その日直帰するから置いといて」って言ったからそれを実行しただけだし。それ以外の方法をとるなんて思考は新人の私には難しくないですか?     
 だから——。
「良いと思ってました」
「良いわけないだrrrrrぉおお!」
 語尾の「ろ」を発音する際の舌の回転数に、思わず息が漏れてしまう。
「何、笑rrrrrってんだぁ!」
 震える。
「女子はすぐ泣くの本当に勘弁だわ」
 いや、そうじゃないんです。
「もう俺、時間無いからさぁ、君がそれ、プレゼン資料にしておいて」
「えっ」
 ……上司の理不尽も、我慢デイナイトフィーバー。

 ◇

 会社からの帰り道、バス停に向かう。
 今日の気分を一言で現すハッシュタグ。だけど、さすがにこのハッシュタグだけを投稿するのは味気ない。
 そうだ、バスには乗らずに歩いて帰ってみよう。そして心安らぐ景色を見つけ、写真と一緒に投稿しよう。スマホの地図アプリで確認すれば三十分ちょっとでアパートに着くみたいだ。
 バス停から、体感二分ほど歩いている。
 半年履いても歩きなれない黒光りした窮屈な靴。
 私の後ろ姿はさぞぎこちないだろう。
 せめて、かかとから鳴る音だけは一定に、テンポよく、楽器のリズムのように、丁寧に歩く。
 歩くのに慣れていくにつれ視線を上げていく。
 
 見上げれば月が、月を下から見つめる私を見ていた。
 
 月はほんの少し、欠けている。この前の満月はいつだったのだろう。
 そんなことも分からないくらいには、私は自分で手一杯だったみたいだ。
 なんだか情けなくなった。
 大人だったら自分のことぐらいすぐに分かりそうなものなのに。大人になったら、もっと自分のことだけじゃなくて、周りの人の気持ちや、もっと先の未来のことを考えられるようになると思っていたのに。
 
 なんだかなぁ。
 不甲斐なさが、声になって、歩道に零れ落ちた。

 立ち止まって、夜空に浮かぶ月に向かってスマホを構える。写真を撮る。
 その輝きは太陽のようにはぎらついていなくて、星のようには弱々しくなくて、その穏やかな顔に、私は幼い頃から親しみを感じていた。
 スマホのカメラ機能では、私の感じた美しさすべてを切り取ることはできないけど、それでも私の心はほんの少し元気になって、明日も歩いていこうと思えた。

#ゴリムチュウズデイナイトフィーバー🕺

 
 などという、ハッシュタグを投稿につけなければやっていられないぐらいの気分だ。
 商品開発の企画をしたくて入った会社なのに、実際の業務は商品の発送と梱包業務ばかりで、取引先に行くからついて来いと言われても、私の存在理由は「若い子が来たら向こうも喜ぶから」ってだけで発言権なんて無くて、他にやり遂げた仕事と言えば、自分勝手な要望ばかり押し付けられる飲み会の幹事に、関係ない部署やプロジェクトの膨大な量の資料印刷、製本の雑務、そしてつい一週間前、念願の取引先とのヒアリングに参加できたというのに——。
「この前の資料さぁ、進捗……どぅ?」
 目の前には全く勝手の分からないプレゼン資料。
「全然分かりません」
「何が分かrrrrrrナイッッ!?」
 私が想像していたキラキラした社会人生活はどこにあるのでしょう?
 ……人生五里霧中ズデイナイトフィーバー。

 ◇
 
 このハッシュタグだけを投稿するのは闇が深いので、今日も夜空の写真も載せようと、スーツには合わないかもしれないが、こっそり黒のスニーカーを履き、今日も歩いて帰っている。
 
 見上げれば月が、今日も私を優しく見ていた。

 月にはうさぎが住んでいて、毎日毎日もちをついているらしい。仲の良い友人たちと毎日もちをつくって食べる生活は、きっと最高だろうな。私も毎日地道に頑張れば、いつかそんな生活ができるかな。
 高校時代、仲が良かった友人たちと今は離ればなれだ。地元に残った子もいれば、上京した子もいる。私は就職と同時に引っ越し、この地方都市で暮らすようになった。
 業務に関しては燻っている私だが、皆(某上司を除いて)に親切にしてもらっていると思う。
 でも、友人たちの笑い話や、小さな愚痴とか、恋になりきれなかったときめきの欠片たちを、懐かしく思ってしまう。
「うちらばっか喋っててごめんね」と貴方は言ったけど、口下手な私は皆の話を聞いているだけで、幸せだった。
 皆の耳には届いていないけど、私は話を聞きながら、心の中で皆と話していたんだよ。「昨日の晩ご飯、うちもカレーだったよ」「私もその曲、最近ハマってるよ」「あの子、優しくて、かっこいいよね」……。
 あの放課後がとても好きだった。毎日、胸がいっぱいだった。
 簡単にはもう会えなくなってしまったけど、この優しく滲む月灯りは、みんなの夜も照らしてくれている。私たちは、一緒に生きている。

  立ち止まって、夜空に浮かぶ月に向かってスマホを構える。写真を撮る。
 長年使い込みバッキバキに画面が割れたスマホのカメラ機能では、私の感じた優しさすべてを切り取ることはできないけど、それでも心がほんの少し元気になって、明日もまた、歩いていこうと思えた。

#うぇ~んズデイナイトフィーバー🕺

 
 などという、ハッシュタグを投稿につけなければ生きていけない気分だ。
 水曜日、私は本当にその場から叫んで逃げ出したくなるくらいのミスを犯した。直属の上司にも、優しい先輩にも、たくさんの偉い人のところに行って、一緒に謝ってもらわなければならなかった。

「誰にでも起こりうるミスだから」

 そう言ってくれた先輩の優しさは、私の涙腺に猛攻撃をしかけてきたので、私はライブの最前列にいる強火のファン並みに首を縦横斜めに振りまくって謝ることしかできなかった。
 
 小学生の頃から成績は常に中の下で、体育の通知表は3で、身長は前から数えたほうがギリギリ早くて、苗字は田中で、面白みのあるエピソードは無くて、第一志望に合格したことも無くて、誰かの第一志望になったことなんて無くて、改めて「お前は何もできない」ことを教えられたところに、

「この前の資料さぁ、進捗…………………どぅ?」

 背後から、粘度の高い液体を頭から浴びたような、心地の悪い言葉。
 ……辛すぎうぇ~んズデイナイトフィーバー。

 ◇

 さすがにネタ切れ感があるが、夜空の写真と一緒に今日も投稿しようと思う。
 自分のミスのせいで退社時間が遅くなった。自業自得なのだけれど、こんな日こそ夜空を見たい私は、今日もバスに乗らず歩いて帰る。
 
 今日も見上げれば月が、月を下から見つめる私を慰めながら見ていた。
 
 こんな私にも、変わらず月は姿を見せてくれる。親に叱られた夜も、中学時代、友達との付き合いに悩んだ夜も、就職活動で泣いた夜も、いつも月は優しいのだ。
 この時間帯、月のうさぎは姿を見せない。
 もう少し正確に言えば、月は時間帯によって表面の見え方が異なり、その表面の模様を、人類は様々な生き物に見たててきた。今の時間帯は「泣く男」に見えるそうだ。まさに、うぇ~んズデイナイト。

「今夜は月が綺麗ですね」

 日本中の恋人たちに使い捨てられた、愛しています。そんな言葉をかける恋人は、私にはいないから、

「今日も本当に綺麗だね」

 逆に私は優しい「あなた」に甘い言葉を囁いてみる。
 右手を高く上げ、手のひらを月灯りにかざす。光の温もりまでは、さすがに届いてこない。でも、数多の恋人たちを見守りながら、愛の告白の口実にされ続けたあなただけのために、私は愛を囁くよ。私の恋人は月なのです。さすがにそれはヤバすぎるな。
  立ち止まって、夜空に浮かぶ月に向かってスマホを構える。写真を撮る。
  私の心はほんの少し元気になって、今日も明日も、歩いていかなければならない。

『どこに?』

#うむをいわサーズデイナイトフィーバー🕺


 などという、ハッシュタグを投稿につけなければ、今日の残業に対する苦しみが消えない。
 木曜日、私は件の上司に頼まれていたプレゼン資料を、何とか過去のものを参考に形にし、提出したのだが――。

「全然違う」

「……何がですか?」
 絞り出した言葉。

「何もかも」

 今日は全国的に心地よい秋晴れ、お出かけ洗濯日和で気分も高まる一日になるでしょう。
 朝、横目で見ていたニュースのお天気キャスターの言葉通り、オフィスの窓の外は鱗雲が機嫌よく泳いでおり、清々しい天気だった。
 それなのに、私と上司のやり取りのせいで、このオフィスだけは曇天の下のように重苦しい。誰も私たちに、目線を合わせようとしない。入社当初、私は何か理不尽な目に合った時に、誰かヒーローみたいに「まあまあ」と現れたりしないかと、その都度期待していた。だけど今となっては、見て見ぬ振りをすることも優しさの一つなのではないかと思う。
 
 そう思わざるを得ないくらい、私は駄目な人間だった。

「せっかく企画に参加できる機会だったのにさぁ。全然駄目じゃん」
 反論を頭の中で展開することも、心を無にして謝罪することも出来ない。曇天どころか、重力が地球より強いどこかの星にいるみたいな閉塞感で、身動きが取れない。痛みもなく、ただ、死んでいくのを待っているようだ。目の前の問題や課題に向き合う勇気が無く、時間が流れるのを待ち続ける、卑怯者。
「何で聞かなかったの、俺に」
 聞きたかった。疑問が浮かび上がる度、席を立って聞きに行きたかった。でも、その都度「今は忙しそうだから」とか、「疲れているみたいだから数分後にしよう」とか考えて、そして「いつの間にか外出してしまっている」、「仕方ない、明日は必ず聞かないと」……。
 今の今まで、心のどこかで私は、「そもそもこの業務は、私の責任じゃない」と思っていたからこその、怠慢だった。

 ——いや、違う。それだけじゃない。

 私は、分からないことを聞いた後に「こんなことも分からないのか」と思われることを、いつも失敗よりも恐れてしまうのだ。物心ついてからずっとそうだった。

「どうして相談しないの」耳にこびりつく親の言葉。
「なんで言ってくれなかったの」いつしかの友達の言葉。
「なに黙ってたんだよ」二年前の冬の夜、元恋人の言葉。

『だって言ったら、わたしのこと、きらいになるじゃん……』

 だから言わない。笑っておく。
 だから訊かない。笑っておく。
 それが私の、私なりの生き方なのだ。
 勉強も、運動も、面白みも特技も何もない私は、そういう生き方しか、知らない。

「……女子はすぐ泣くの、本当に勘弁」
 泣きたくないのに涙が出る。
「やります」
 やっと出た言葉なのに、震えて裏返った無様な声だ。
「え?」
「残業してでも、やり直します」
 有無を言わサーズデイナイトフィーバー。

 ◇

 終電バスを逃し歩いて帰る。歩いて帰ればゆっくり夜空を見られると、自分に言い聞かせる。
 なのに昼間の秋晴れは、私を見限ってか、それとも私の心象風景となってしまったのか、分厚い雲が夜空を覆い、月が見えなかった。
 月が見えない夜は、夜空が私にのしかかっているように感じ、足取りが重たく、家までの道のりがいつもより長い。
 帰路が長いと、何も考えたくないのに、嫌な思い出と何度もすれ違う。
 忘れたい過去は瞼の裏にこびりついたままで、大事なことはタンポポの綿毛が空に飛んでいくみたいにあっけなく忘れ、忘れたことにも、気付けない。
 すれ違う追憶の影のなか、私の脇を駆け抜けたのはセーラー服姿の私。
 自分が何者でもないことにまだ気付かず、胸の内に希望を抱いていて将来の夢が宇宙飛行士だった頃の私。十年後の私はもうそんなこと、恥ずかしくて誰にも言えそうにない。ごめんね。
 後悔と不甲斐なさに耐えきれず叫び出しそうな衝動を、歯を食いしばり両手を強く握りしめることで抑え込み、痛いくらいに足をどんどん踏み出していく。ひとまず、今日という日を終わらせなければならない。
 月が見えないなら、明日は自分の力だけで頑張ろう。自分の力で立とう、歩こう。
 それが大人なのだから。

#ふらふらフライデイナイトフィーバー🕺

 
 投稿する気力なんて無いのに、頭の中で浮かんだハッシュタグ。 
 金曜日、件の上司とはまた別のマーケティング部の先輩に付きっ切りで教えてもらえたおかげで、資料は無事完成。今日は定時に帰ることができた。
 最初から、この人を頼っておけば良かったのかもしれないが、無意味な想像だ。根本の問題は自分自身だから。心と体は重たいまま、ふらふらと、家までの道のりを歩く。

 歩いても、歩いても、今日も月は見えなかった。

 とうとう月も隠れてしまうほど、私は最低だったということだ。
 そもそも月に慰めを求めるなんて、愚かなことだったのかな。
 本当はもっと勇気を出して、人と関わって、そこで得られるつながりから慰めを求めるべきだったのかな。
 それとも、もっと努力して、自分自身を慰められるほどの自信を持つべきだったのかな。
 
 そんなの、当たり前なことなのに、何でこんなに悲しいのかな。

 泣くな。まだ多くの人が歩いている。
 すれ違う人たちは遠慮なく、私の不細工な顔を横目で伺う。
 恥ずかしい、泣くな自分。
 走ろう。空を見上げず、走ろう。
 でも、走ってしまえば、家に着いてしまう。
 寝て、起きて、寝て、起きて、また起きてしまえば、
 また同じことを繰り返す日々が始まる。
 どこからやり直せば上手く行くのだろう。
 だからそんなこと、考えても無駄なんだって。
 今から変わればいい。
 でも、そんな勇気、私には無いでしょ?
 走ることに集中していなかったからか、足がもつれて転びそうになる。
 すれ違った誰かが「うわっ」と言って私を避ける。
 咄嗟に「すいません」とお辞儀をして、早足でその場を去る。

 うさぎは跳ねる。どこまでも。
 鳥は飛んでいく。どこまでも。
 花びらは舞う。どこまでも。
 みんなどこまでも遠くに行くことができるのに——。

『わたしはどこにもいけない』

#正気のサタデイナイトフィーバー🕺


 などという、ハッシュタグを投稿につけなければ私の怒りは収まらない。
 金曜日の夜中に、件の上司から私を含む新人社員全員にラインが来た。
『ごめん、B社のプレゼンに持って行くデータ資料作成失念してて手伝ってほしい』
 謎の猫の「ごめんね!」スタンプが、さらに憎しみを増長させた。
 ……休日出勤とか正気の沙汰でない。

 何とか資料は完成したものの、終電は無く、今日も歩いて帰っている。
 休日出勤に残業も加わるなんて本当に正気の沙汰ではないが、一緒に理不尽を味わった同期の子たちと、久しぶりに、他愛のない話が出来たことは救いだった。

「昨日、本当は皆でご飯誘おうと思ってたんだよ。でもいつの間にか帰っちゃってて、誘えなかったんだ」
 そうだったの。ごめん。でもありがとう。
「大丈夫? 私、部長に言っちゃった。パワハラですよって」
 大丈夫。ありがとう。本当に。
「マーケのことなら俺も多少は分かるから無茶ぶりされたら相談して。その代わり発送のこととか教えてほしい」
 うん。もちろん。
「お互い様ってね」
 うん、そうだね。そうだよね。
「待ってて、私、爆速で出世して、あの人他部署に異動させるから」

 窓の外は曇り。
 なのに、この会議室Bは晴天みたいに明るくて、心地よい。彼女の野望を聞いて、私は自然に笑顔が零れた。
 どうやら私は、下ばかり見て働いていたようだ。
 少し顔を上げ、横を向いて、たまには振り返らなければいけないなと思う。私にとってはそれだけのことも、勇気が必要なことだけれど、もしかしたら、追憶に追いやったあの放課後が、完璧に同じだとは言えないけど、すぐ近くに、あったのかもしれないから。

 分担した資料を皆で相談しながら作成していく。想像していた通り、私の業務スキルは同期の皆には劣っていた。その事実に向き合わないために、私は今までずっと、下を向いていた。でも、案外認めてしまえば、恐れていた劣等感の嵐は、あっけなく私の心を通り過ぎていった。それは不思議な感覚だった。
 
 そんなこともあってか、体は疲弊しきっているはずなのに、夜道を歩く足は軽やかだった。件の上司の千本謝罪を拝んで、夜は美味しい出前も奢ってもらえて、気を抜くと、私は微笑んでさえいる。

 それに今日は、月が見えた。
 昼間の雲は次の街へと旅立っていき、二日ぶりに、私たちは再会する。
 今日の私は、少しはましだったかな。昨日とおとといの私を、月が見ていなくてよかった。あれはきっと、見ないでいてくれる、優しさだったのかもしれないな。
 ただ、この時間ではうさぎには会えない。それが少し残念だ。
 この時間帯は、月の表面は泣く男に、そしてどこかの国では「ワニ」にも見えるという。月のうさぎとワニが仲良しなことを祈る。
 どんどん歩いていく。
 いつの間にかアパートへと続く曲がり角を通り過ぎていく。
 どんどん歩いていく。また月の様子が変わっていく。
 泣く男は泣き止み、次は「水桶を運ぶ男女」が現れる。
 さすがにこれは無理があると少し笑える。 私は歩く。
 足が動くまで。
 私は歩く。
 それ以外、何も上手く出来ないから。
 私は歩く。
 何もできないなら、丁寧に。穏やかに。確実に、一歩一歩。
 歩きつづけよう。
 月が見えるから。
 こんな私にも、変わらず姿を見せてくれたから。
 たまに隠れてしまうけど、
 いつも月は優しいのだ。
 きっと、今頃家で落ち込んでいる上司のことも、月は優しく見守っている。
 この時間まで勉強している受験生にも、
 泣く子どもをあやすお母さんにも、
 恋人と喧嘩した女子高生にも、
 毎日日本のために頑張る偉い人にも、
 自分を好きになれず泣いているあの子にも、
 高校時代、好きだったあの子にも、
 遠い街で暮らす大好きな友人たちにも、
 今宵、月は等しく輝く。

 なんだかそれだけで生きていけそうな気がしてきた。
 こんな楽観的な自分を少し好きになれそうな気がした。
 こんなことで感動する自分が変な奴だと、また少し笑えた。
 
 空を見上げて、どんどん歩いていく。
 歩くことは好きだし、ちょっと得意かもしれない。
 どこまでだって歩いていこう。
 いつのまにか、月がまた様子を変えた。
 明け方の空に見えたのは、

 ——どこまでも跳ねていく月うさぎ。

 ぴょんぴょん跳ねていくうさぎたちを、
 追いかけるように私も駆けだす。
 毎日歩き続ければ、
 多分百年後ぐらいには、
 どこかの偉い人が宇宙旅行を叶えてくれて、
 きっとその時には私の貯金も少しはあるから、
 だから毎日歩いていれば、
 私は月まで行けるのだ。

(終わり)


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