見出し画像

空について

今回のバーチャル坐禅会では「空」についてお話させていただきました。


空って何?

「そら」や「から」ではなく、「くう」と読みます。

『般若心経』というお経は、有名なお経ですが、『般若心経』には「空」の教えが書かれています。

皆さんは「空」って言葉聞いたことありますか?どういう意味だと思いますか?

今日特に積極的に質問や自分の意見などを言ってくれると嬉しいです。

漢字辞典で「空」と引いてみると、からにするや、むなしい、そら、すきまなどの意味がでてきます。

しかし、仏教でいう「空」は「なにもない」や「からっぽ」とう意味でありません。
仏教の「空」は世界感や宇宙感を表しています。

「空」とは「実態がなく周りとの関係によって成り立っている」という意味です。

ドーナツの穴は「空」

みなさん、ドーナツを想像してください。お腹が空になっちゃいますよね(笑)

ドーナツには穴があります。ドーナツの穴は空気でできています。

しかしドーナツを真空空間にもっていってもドーナツの穴は存在します。この場合穴の中に空気はありません。

ドーナツを食べるとドーナツも穴も無くなります。しかし、ドーナツの穴そのものを食べることはできません。

ドーナツの穴はドーナツがあるということによって成り立っています。ドーナツがあるから、ドーナツの穴があり、ドーナツが無いとドーナツの穴も無くなってしまいます。

また、穴がなおとなんとなくドーナツじゃないような気分になります。

このように、ドーナツと穴はお互いに関係性によって存在しています。

これはドーナツの穴だけではなく、すべてのものに言えることができます。
すべての物は関係性に成り立っているというのが「空」です。

すべてはお互いに依存しあい、関係性に成り立っている。お互い繋がっている。

自分=宇宙

宇宙全体でみたら、すべてが一体になります。

私はお箸を使って食事をします。自分の取りたいものを自由にお箸で取ることができます。

しかし、生れてはじめてお箸を使った時はどう使うか全くわからず、指でお箸をはさんで別の指でお箸を動かすように意識をしないと使うことができませんでした。しかし、今では自分の体の一部のようにお箸を使うことができます。

私は手を自由に使っていますが、産まれて間もない時は自分の手も初めてお箸を使った時もように動かしていたと思います。

こうやって考えると自分と周りとの境界線ってどこなんだろうって思いますよね。

自分自身はどれだけでも広がっていきますし、また自分と宇宙の境界線はなくなります。

自分そのものが宇宙全体なのです。

私たちは全体として一つです。

般若心経

空について説かれた『般若心経』には「不生不滅 不垢不浄 不増不減」という言葉があります。

不生不滅

生れることもなく、滅することもないという意味です。私たちを含めすべてのものは全体として一つであります。ですので、生まれることも、滅することもありません。

今の自分というのは、今までのすべての人やモノの
出逢いによって成り立っています。今の自分は今までのすべて出逢いによって存在しています。また、すべての人やモノも自分を含めたすべての出逢いによるものです。

自分も周りの人やモノによって存在しており、また周りの人やモノも自分によって存在しています。

お互いの関係によって成り立っているので、生じることも滅することもありません。
存在がもうすでに生じているととらえることもできます。

不垢不浄

けがれたものも、清らかなものでもないという意味になります。私たちはものをみると、それが汚いものなのか、きれいなものなのか、自分にとって良いものか悪いものか判断してしまいがちです。

その判断は自分自身の基準によって勝手に分別してしまったものです。

すべてのものは一体であるので、きれいもきたないもありません。味方によって様々な側面がありますが、私たちは自分自身の見方で偏った判断をしてしまいます。

不増不減

増えることもなく、減ることもないという意味です。
コップに水をいれたままにすると、水は蒸発して無くなってしまいます。しかし、水そのものが完全に消滅しただけではなく、水蒸気になっただけです。

その水蒸気も雨として再び水に戻ることもあります。

外部からの影響で形は常に変化はしますが、存在そのものは増えることもなく、減ることもないという意味です。

さっきのドーナツの話に戻りますが、ドーナツはプラス・マイナスゼロカロリーという意味です。

諸行無常・諸法無我

まわりによって存在しているので、今のこの時間は不安定なものになりますし、自分自身も実態のないものになります。

諸行無常、諸法無我という言葉があります。
諸行無常とはすべてのものは常に変化をし続けるという意味です。

暖かくなると花が咲くように、関係しあっているこの世界では、周りに影響されて常に変化を止めることはありません。

また、諸法無我とはすべての物は実態がなく、個として独立したものはないという意味です。 

コップの中にあるお茶も、コップがあるから形を保つことができています。コップが無かったらこぼれてしまい、飲むことができなくなってしまいます。

みんなが大好きなおにぎりを想像してください。お米があって、海苔があって、梅があってできています。それぞれの食材には食材の命やその土地の自然の恵み、生産者さん、販売してくれた人や運んでくれた人、さまざまな関わり合いがあって、おにぎりがあります。誰かが握ってくれないとおにぎりにはなりません。

自分自身も同じです。
自分自身というものも周りとのつながりによって存在しているので、個として独立していないという意味です。

すべては「空」なので、諸行無常、諸法無我なのです。

どう生きるか?

この世界は変化をやめないし、そもそも自分自身すら実態のないのがこの世界です。
虚しいことのように感じてしまったと思います。
しかし、これは可能性でもあります。

変化し続ける諸行無常だからこそ、今この瞬間を、
実態のないからこそ、今の自分を大切にするしかありません。
先ほど坐禅を一緒にしましたが、坐禅中はただ座ることだけに集中していたと思います。

今この瞬間の自分を大切にしていきましょう。

ご参加いただき、ありがとうございました!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?