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布薩で真の平和へ向かう

戦争を前にして、仏教は何ができるのか。考える日々が続く。

禅僧の南直哉さんも、凡夫である我々がいかに社会としての平和と繁栄に向かうことができるのか、仏教の古い知恵に訊ねておられるところのようだ。

世界に色々ある宗教の中でも、仏教は比較的、平和な宗教というイメージを持たれているように思う。確かに、唯一の神を大事にしすぎるがあまり他を排斥しようとする力学が一神教に対して比較的はたらきにくいという点では、それも一理あるかもしれない。しかし、そもそも、親鸞が言うように、どこまで行っても凡夫でしかない人間は、あらゆるものを言葉によって区別する色界を生きている。阿弥陀仏の「誰一人取り残さない」理念を人間社会に適応しようとすると、ほとんど何も言っていないのと同じになりかねない。

仏教における平和とは、「争いのない状態」のことではない。目の前にしばらく「争いのない状態」が続いたとしても、それは大規模な戦争と戦争の間に生まれる小康状態に過ぎない。仏教における真の平和とは、争いがないだけでなく、今後永遠に争いが生まれる種が全て取り除かれて初めて、実現するものだという。では、争いは何から生まれるのか。争いは、執着から生まれる。ならば、執着をなくせば、戦争は消え、真の平和が実現されるはずだ。しかし、親鸞が言うように、人間から執着が消えることは、これまでもこれからもないだろう。だとすれば、真の平和が永遠に訪れることは、ない。

ここで、永遠に訪れることのない真の平和を「悲願」し続けるというのも、一つの仏道だと思う。僕も、悲願は悲願として、大切にしたい。しかし同時に、たとえ永遠に叶うことはないとしても、そこへ少しでも近づいていく道筋を、仏教から具体的に見出してくことは、できないだろうか。「ない。」で片付けてしまうのもまた、仏教が説いている大事なところを、見過ごしてしまうように思う。

平和への道筋として、改めて、色即是空・空即是色が、ヒントになりそうな気がしている。色とは、私たちがふだん生きている、あらゆるものを分別する世界だ。あれとこれ。あの人とこの人。一方、ブッダダルマは、この世界の本質は縁起であり空であり、本来分けようのない無分別の世界であるという。

昨今の仏教はマインドフルネスの盛り上がりの中で、瞑想実践を中心とした「個の内面へと沈潜していく」方向性がずいぶん強調されてきたように感じる。しかし、もしそのマインドフルネスが仏道に則っているのなら、沈潜した先に発見するものは、諸行無常であり、諸法無我であるはず。私の存在が私という個に閉じておらず、あらゆるものと無限に関係を持ちながらこの豊かな生命世界を織りなす、他の何にも似ていない一つの網目であるということに、気付いていく道だ。

とはいえ、そのように世界は本来「空」だとしても、やはり私が日常生きる世界は、どうしたって「色」だ。この構造を、デジタル式にゼロイチで捉えてしまうと、空なのか、色なのか、たちまち対立構造を生んでしまって、それ自体が分別に捕まってしまう。それでは結局、論理としては、真の平和が叶わないのであれば、悲しみと共に願うしかない、という結論に収まってしまうのと、同じだ。

ここは、もう少し踏みとどまって、アナログ的発想、「色」と「空」の間をグラデーションで捉えてみたい。自我による分別に満ちた「色」界から、少しずつ「私」が共感できる範囲を広げていくこと。家族、学校、会社、地域社会、国家、民族、宗教・・・その順序も決められない曖昧なレイヤーで、私たちは「仲間」と感じられる範囲を変えながら生きている。それが際限なく拡大していった先の極に、あらゆるものがつながる「空」の世界が待っている。

「色」を生きる私が、まだ見ぬ「空」のビジョンを目指してみるのは良いとして、ここが大切なところだけれど、「空」のビジョンに到達したら、「色」のビジョンがいらないかといえば、そうではない。磁石には必ずS極とN極があり、片方だけの磁石というものは存在しない。「空」のビジョンを一瞥したところで、やはり日常は「色」に彩られているのだ。片方を高次と捉えて、それを持って他方を否定するというものの見方そのものが、分別の罠にはまっているサインでもある。磁極は切り分けられないように、色即是空と空即是色も、磁場や磁力ように、ゼロイチではなくグラデーションであり、ダイナミックな働きとしてイメージしたい。きっとそこに、戦争と平和、二択ではない道筋のヒントがあるはずだ。

うーん。

ややこしくなってしまった。

結局思うところは、瞑想よりももっと身近でシンプルな仏教的生活実践に、実は人々が平和な社会へと向かっていくために大事なことが託されてきたのではないか、ということ。一人でするのではない、他者との交わりの中でなされる生活実践の共通経験。難しいことではなくて、掃除とか、料理とか、お茶の時間のおしゃべりとか。誰もが一緒に共有することのできる、豊かに満たされた生にとって欠かすことのできない生活実践こそ、対立を超えた真の平和への基盤となるのではないか。そんなことを思う。

仏教の視点から見ると、そうした生活習慣は「戒」と呼ばれ、宗派を超えてあらゆる仏道の根本に据えられてきた。そうしたことは、生活の中であまりにも当たり前にエッセンシャルなものだから、瞑想のように見た目にもスタイルのあるものと比べると、まだあまり注目されてこなかったように思う。しかし、コロナ、そして、戦争と、当たり前が当たり前でなくなった今こそ、そうした戒=生活習慣を他者と共に大切にする仏教の伝統に、何か希望を見出してみたい。その伝統が、「布薩」だ。

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