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理論と思弁の堂々めぐり、そして2つの切断

今回の参考文献は、以下のとおりです。
ちくま学芸文庫『柄谷行人講演集成1985-1988言葉と悲劇』所収の講演「江戸の注釈学と現在」
この講演録を読んで、そこに書いてあったことを元に、以下の話を組み立てていきます。

朱子学の理論体系(あるいは、トマス=アクィナスの神学体系)においては、それが理論体系である以上、特権的な個人というものは出てこない。必要ない。少し言い換えて、およそ理論体系というものは、特異点(単独性:singularity)においては破綻してしまう。それゆえ、理論体系は、特異点を含まないように構成される必要がある。

また少し話を戻して、朱子学においては、超越性が個々人に内在しているという考え方をとる。こういった、内在=超越性の場合、人は誰しもが神性を内在的に持っている、あるいは人は誰しもが聖人になりうることになる。誰もが修行によって聖人になりうるので、歴史的な孔子という人物(特異な個人)が必要ないことになる。孔子は、せいぜい、過去に現れた聖人のうちの一人という位置づけになる。

同様に、キリスト教のヒューマニズム化された形態(ヘーゲルにおいて典型的に表れているが)、あるいはエックハルト流の神秘主義では、神性が個人に内在している。そういう場合、個々人に神性が内在しているために、誰しもが聖人になりうる。そのため、特異的な聖人、特権的な聖人が必要ないことになる。つまりは、歴史的なイエスが必要ないことになる。

トマス=アクィナスの神学体系においては、信仰と理性が一体化されている。一方で、プロテスタントでは、信仰は理性によっては到達できないものと考える。そうやって、信仰によって到達すべき超越性と、人間に内在している理性のつなぎ目を切断していこうとする。

伊藤仁斎も、同じように、内在と超越性のつなぎ目を切断していこうとする。仁斎においては、孔子は特異的な聖人であって、孔子のほかに聖人はいない。同様に、仁斎においては、『論語』が特権的なテキスト、他に比類なきテキストとして見出される。朱子学の理論においては消されていた、いわゆる他者、他者性が、仁斎によって、孔子に見出されたということである。孔子が自己と同一化できない他者として、見出されたということである。

一方で、朱子学の理論においては、個々人に超越性が内在している。これを、理論体系において、個々人の他者性が消去されているとみなすことも可能だけれども、あるいは、他者という特異性が、ありふれた普遍的なものとして前提されているとみなすこともできるように思われる。しかし、理論体系という一般性の中においては、そういった特異性を扱うことができないということでもある。

他者が交通の中において、見出されるということは、本来はありふれたことであるはずである。けれども、仁斎においては、それは、歴史的な孔子として見出された。そして、それ以外の人ではなかった。

自己と同一化できない他者というのは、本来は、ありふれたもののはずである。それを理論的に扱ってしまうと、あるいは、個々人に内在した超越性ということ(定式化)になってしまうのかもしれない。そうすると、歴史的な孔子という存在は、特に必要のないものになる。誰しもが、聖人になりうるのだから。

ここで、理論体系が破綻するポイントとして、他者性を見出す、あるいは理論への批判=吟味として、他者性を見出す、それも、孔子やイエスという特権的な個人において。そういうことが、仁斎の思考でなされた、としてしまうと、かえって、自己と同一化できない他者がありふれていることを、とらえそこなってしまう、と思われる。

他者性を、超越性として取り出すときに、それが、結局のところ、一般性の領域(理論の体系内)に帰着してしまう、もし帰着させないのであれば、理論体系の破綻として扱うということである。少し言い換えると、他者性を超越性として、切り出してよいのか、それは飛躍しているのではないか、という「程度の問題」のようなものが出てくる。この記事の表題で「堂々めぐり」という言葉を使っているのは、こういう事態を指している。

こういう事態が生じてしまうのは、あくまでも理論の領域のみで考えようとしているからである。カントの弁証論(アンチノミー論)と似ているそうであるが、仁斎によると、例えば、世界の始まりがあるか、ないかについては、どちらでも言えるのだとする。

同様に、他者性なるものを理論の領域のみで考えようとすると、特権的な個人を取り出してきたり、あるいは、ありふれた個人に他者性を見出してみたり、ということになる。特権的な個人に他者性を見出すのも、ありふれた個人に他者性を見出すのも、理論の領域ではどちらとも言えるので、哲学(思弁)の範囲内で考えている限りは、ここでは、堂々めぐり(アンチノミー、二律背反)に陥ってしまう。

さて、真・善・美の3区分、あるいは知・情・意の3区分を考えると、思弁の領域で考えている限りでは、真(あるいは知)の領域でのみ考えていることになる。カント風にいえば、純粋理性の領域、実践理性の領域、判断力の領域の3区分を考えて、そのうち、純粋理性の領域でのみ考えているということになる。(もっとも、カントの場合は、3つの区分がすべて最初の区分に引き寄せられて、その中で整理されているようにも思われるが)。

仁斎は、そういった真(偽)・知の領域(天道、物理)は捨ててしまう(つまりは切断してしまう)。そして、善・情の領域で考えようとする。もっとも、こういう領域と区分を持ち出して、整理しようという考え方・発想が、そもそも、すべてを真・知の領域に帰着させて考えようとしていることになるので、ここで切断というのは、そういった区分の外部に出ようとすることとも言えるのではあるが。

仁斎が、特異的な個人あるいは聖人として、孔子を見出す(あるいは特権的なテキストとして、『論語』を見出す)というのは、そういうことであり、その発見を、ふたたび理論の領域に折り返してしまえば、上に書いたような堂々めぐり(アンチノミー)に陥ってしまうのは、ある意味、当然のことである。

だから、倫理的なものは、単に見出されなければならない。

どこに書いてあったか、出典は忘れてしまったが、バートランド・ラッセルが、ケガをした人に対して、その心情を理解することができないことに困難を覚えたという趣旨のことを言った際に、ウィトゲンシュタインは、ケガをした人を見つけたならば、われわれは救護にかけつけるのだ、と言ったという。……うろ覚えなので、内容がかなり違っているかもしれないが、とにかく言いたいことは、実践的な領域・倫理的な領域は、見出される(これは「知」的な態度、いいかえると認識論的な問題)というよりも、単に実践されるべきものであるということだ。

一つ目の切断のお話(真・知の領域ではなく、そこから切り離して、善・意の領域が”見出される”(実践される)ということ)は、こういったものである。

二つ目の切断は、美・情の領域を見出すということのお話。

最初に挙げた参考文献では、本居宣長の話になる。
ここで、もう一つ参考文献を追加すると、
ちくま学芸文庫「柄谷行人講演集成1995-2015 思想的地震」所収の講演「近代文学の終わり」を挙げる。

さて、仁斎が依拠するテキストが『論語』やそれを含む四書五経であるのに対して、宣長の依拠するテクストは、『古事記』、『源氏物語』、和歌などの文学になる。

古来から現代に至るまで、文学を擁護する議論として、文学は誠(まこと)の心を表している、少し言い換えると、文学は、真理を表現している、現在の(あるいは当時の)状況を的確に表しているという論が立てられている。こういう文学観では、文学は真理に仕える言葉である。そして、文学は、哲学などよりも、真理を表せるのだ、それゆえ、文学には価値があるのだという議論がなされる。

ここでは、文学は、真・知の領域で、その意義を理解されている。

けれども、宣長が「もののあはれを知る」というときには、この「知る」は真・知の領域での知る、ではない。美・情の領域において、真・知の領域を超えた「知る」があるということ。「もののあはれ」(あらゆる情動)を「知る」という認識のありよう(純粋経験)が、美・情の領域においてあるということを意味している。

ここにおいて、文学は、単にそれ自体において、擁護されている。これは、何かの根拠を他から持ってきて、(文学を)擁護する材料とするという方法はない。哲学とは、まったく異なったものとして、擁護されているのだといってよい。

私自身のことを振り返ってみると、私は、文学作品を読むということの意義を理解できなかった。今でも理解できていないといっていい。(ごく少数の、気に入った作品はあるものの)文学(例えば小説など)は、そもそも、個別的・具体的であり、それが、普遍的な認識を開示するのだ、と言われても、それであれば、最初から哲学そのものに取り組めばよいのではないか、なぜそのような迂遠なことをする必要があるのだ、と思ってしまう。それゆえ、文学作品を読むことの意義が理解できないということになる。

宣長によって、文学が(真理を根拠とするのではなく)それ自体によって擁護されるということ(2つめの切断)は、文学は、それ自身によって、価値があるということである。それは、何ら根拠づけられていない。つまりは、トートロジーかもしれない。しかし、そういう認識(根拠づけ、トートロジー)のありかた自体が、真・知の領域にとらわれた見方でしかない。文学がそれ自体によって擁護されるということは、そこ(真・知の領域)から切断された上での、認識なのである。

これは、冷静になって考えてみると、文学について、とても凄いこと(認識)を述べている。文学は、ほかの領域の営みを超越しているのであり、つまりは、文学が最強だということを、言っているのである。

その主張の妥当性については、また別の機会に考える(でも、それ(=考えるということ)は再び、真・知の領域に折り返すということ、すなわち不毛なのかもしれないが)として、2つ目の切断は、こういったことである。



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