Suisho

好きなもの:哲学、数学、数学基礎論、論理学、コンピュータ、経済学、歴史、文芸批評、マン…

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好きなもの:哲学、数学、数学基礎論、論理学、コンピュータ、経済学、歴史、文芸批評、マンガ、ラノベ、アニメ、ゲーム

最近の記事

形而上学は、結局のところ、妄想あるいは、たわごとの類なのだろうが、それでも、楽しければよいのではないだろうか。私は、小説がどうもあまりなじめない性質なのか、「形而上学のようなもの」を読んでいるほうが、どちらかというと、楽しく感じる。まあ、小説も、読むことはあるのだけれども。

    • この社会の人口は減少しているけれども、ある程度のところで、定常状態になるのだろうし、GDPも減少していくけれども、いずれは定常状態になるのだろう。すると、超長期的には、資本主義を放棄しなくても、テクノロジーも進歩するし、グリーン成長はないが、気候中立なグリーン定常経済はあるかも。

      • 経済成長と資本蓄積は異なる概念であり、資本主義においては、資本蓄積が本質的である。だから、脱成長理論は、何ら資本主義を脅かすものではない。資本主義にとって、脱成長理論はたんなる退屈な「安全な議論」にすぎない。つまり、資本主義に対する批判は、資本蓄積に対する批判でなければならない。

        • 経済成長と資本蓄積は異なる概念であり、分離することができる。資本主義においては、資本蓄積が本質的である。つまり、資本蓄積が継続しつつ、経済成長が生じない、あるいはマイナス成長が生じる、ということが可能である。ということは、資本主義のロジック内で脱成長は可能であり、現に生じている。

        形而上学は、結局のところ、妄想あるいは、たわごとの類なのだろうが、それでも、楽しければよいのではないだろうか。私は、小説がどうもあまりなじめない性質なのか、「形而上学のようなもの」を読んでいるほうが、どちらかというと、楽しく感じる。まあ、小説も、読むことはあるのだけれども。

        • この社会の人口は減少しているけれども、ある程度のところで、定常状態になるのだろうし、GDPも減少していくけれども、いずれは定常状態になるのだろう。すると、超長期的には、資本主義を放棄しなくても、テクノロジーも進歩するし、グリーン成長はないが、気候中立なグリーン定常経済はあるかも。

        • 経済成長と資本蓄積は異なる概念であり、資本主義においては、資本蓄積が本質的である。だから、脱成長理論は、何ら資本主義を脅かすものではない。資本主義にとって、脱成長理論はたんなる退屈な「安全な議論」にすぎない。つまり、資本主義に対する批判は、資本蓄積に対する批判でなければならない。

        • 経済成長と資本蓄積は異なる概念であり、分離することができる。資本主義においては、資本蓄積が本質的である。つまり、資本蓄積が継続しつつ、経済成長が生じない、あるいはマイナス成長が生じる、ということが可能である。ということは、資本主義のロジック内で脱成長は可能であり、現に生じている。

          幸福や快楽、あるいは名誉が、人生の目的ではないのだと、私は、自分の見聞きした経験から、そう思っている。そう考えると、例えば、不幸であることが、人生の目的であるのかも知れない。そういう可能性も想定することができる。

          幸福や快楽、あるいは名誉が、人生の目的ではないのだと、私は、自分の見聞きした経験から、そう思っている。そう考えると、例えば、不幸であることが、人生の目的であるのかも知れない。そういう可能性も想定することができる。

          経済が、成長するもの、というのは、たぶん、そんなに古い起源をもつ考え方ではない。経済、エコノミーという概念が成立したのも、決して古くはないが、それでも、最初は、その概念は、「成長する」ようなものでは、なかったはずである。また、経済成長と、資本蓄積とは、異なる概念である。

          経済が、成長するもの、というのは、たぶん、そんなに古い起源をもつ考え方ではない。経済、エコノミーという概念が成立したのも、決して古くはないが、それでも、最初は、その概念は、「成長する」ようなものでは、なかったはずである。また、経済成長と、資本蓄積とは、異なる概念である。

          世界が制御可能だなんて、誰が言った? 世界が制御可能なものであるはずが、ないだろう。

          世界が制御可能だなんて、誰が言った? 世界が制御可能なものであるはずが、ないだろう。

          「オッカムのかみそり」の適用には注意するべき

          今回は、こんな記事を読んだ。 高校物理で習う力学はじつは全部ウソ!?…「この世のものは全部波である」というかなり「ぶっ飛んだ」式(田口 善弘) | 現代新書 | 講談社(1/2) (gendai.media) すこし、引用してみる。 つまり、物体を斜めに投げ上げるとき、放物線を描くことになるが、 (1)高校物理では、重力の影響で、放物線を描く。 (2)量子力学では、波長の変化により、屈折するので、放物線を描く。 ということになる。 ここでは、同じ物理的事実について、相異な

          「オッカムのかみそり」の適用には注意するべき

          世の中の歪みというものは、この国に暮らす私たちの日常で、ごくありふれているけれども、それは、たとえば、(こことは異なる)専制的支配者のいる世界での、歪み、というものと、同一視できる(等価な)のだろうか?それとも、違うだろうか?あるいは、ここにも、専制的支配者が、いるのだろうか?

          世の中の歪みというものは、この国に暮らす私たちの日常で、ごくありふれているけれども、それは、たとえば、(こことは異なる)専制的支配者のいる世界での、歪み、というものと、同一視できる(等価な)のだろうか?それとも、違うだろうか?あるいは、ここにも、専制的支配者が、いるのだろうか?

          知性主義/反知性主義という謬見について

          こんな記事を読んだ。 この記事を読んで、驚いたのは、ここで対談している大学の先生たちが、「自分たちが、知性の側に立っている。」ということに、何ら疑問を、疑いを、感じていないように思われたことだ。 何という、知性の欠落した態度なのだろう。何という、知的なものの欠落した態度なのだろう。 これは、私の偏見だけれども、 (1)日本で、 (2)大学で、 (3)教員をやっている。 この3要素が揃っている人間が、知的なはずがない。 (※これは確かに偏見だけれども、でも、それでも『星の王

          知性主義/反知性主義という謬見について

          学生時代以来だが、モンテーニュ『エセー』の冒頭部を読み直している。第1章に、アレキサンドロス大王がパレスチナのガザ地区を攻撃する話が出てくるので、驚いた。

          学生時代以来だが、モンテーニュ『エセー』の冒頭部を読み直している。第1章に、アレキサンドロス大王がパレスチナのガザ地区を攻撃する話が出てくるので、驚いた。

          人生に、意味がある場合とない場合。また、その判別ができないことについて

          これは、私がそう考えているというだけなのだけれども、人倫の欠落している人生には、原理的に、意味がないと、思っている。 まずは、基本的に、人生には、意味がない、と思っている。無限に広大な、この世界で、人間の有限性を考えると、ほぼ、無に等しい。別の言い方をすると、神の無限と比較して、この世界には、さまざまな人間がいるけれども、そういった人間の間の差異は、人間の有限性を考慮すると、神の無限と比較して、無に等しい。 繰り返しになるけれども、無限から見れば、有限である人間の間の違い

          人生に、意味がある場合とない場合。また、その判別ができないことについて

          スピノザにおける精神と身体、そして、量子もつれと空間

          スピノザの『エチカ』において、精神も、身体も、神の無限知性の中で生成されている。 精神と、身体は、その変状において、1対1に対応している。 ここで、精神と身体の間に、どのくらいの距離があるかということは、問題にされていない。というよりも、身体に変状が生じると、即座に、精神に対応した変状が生じる。逆に、精神に変状が生じても、即座に、身体に反映される。 つまり、精神と、それに対応した身体が、どのくらい離れているか、ということは、まったく問題にされていない。精神と身体は、ごく近くに

          スピノザにおける精神と身体、そして、量子もつれと空間

          ネーションの根拠と反ユダヤ主義。 ネーションが、何らかの根拠を持って、存在している以上、それは、啓蒙によっては、解消し得ない。つまり、反ユダヤ主義を、啓蒙によって解消することは、不可能だ。

          ネーションの根拠と反ユダヤ主義。 ネーションが、何らかの根拠を持って、存在している以上、それは、啓蒙によっては、解消し得ない。つまり、反ユダヤ主義を、啓蒙によって解消することは、不可能だ。

          世俗社会が信仰するもの

          神の不在が広く認識されている、私たちの(現代の)世俗社会においても、実際のところ、「自然法則」と「資本物神」が、新たな神としてたてられ、私たちは、この新たな神を、とても深く信仰している。 古代から、中世、そして現代に至るまで、それなりに長い年月が経過しているが、人間の基本的心性には、(この長い期間を通じて)あまり変化がない、と考えるのが、穏当なのではないだろうか。

          世俗社会が信仰するもの

          有限回の検証しかされていない仮説(すべての自然法則)が、普遍性を称することはできない。それは、僭称である。

          有限回の検証しかされていない仮説(すべての自然法則)が、普遍性を称することはできない。それは、僭称である。